第206話 素晴らしき喧騒
フィモッスがアーリンツ商会の裏口をノックすると、中から鹿の獣人娘が現れた。
「お久しぶりです、ファヴトさん。ああ今はファヴト夫人、ですか」
「あらティロンム商会のフィモッス様…いえ今はフィモッス支店長、でしたよね?」
「すぐに本店と肩書を変えてやりますよ。ハハハ」
「フフ、それは頼もしいですね」
ファヴトというらしきその鹿獣人は、睫毛の長い整った顔立ちの娘で、随分と落ち着いた雰囲気を伴っていた。
これでは異種族の受けもいいだろうな…などと店長の後ろから覗き見たレスレゥがほへーと口を開けて感心する。
「あ、店チュー、伝票忘れてまチュ」
「おおすまん助かった。あと店長だ」
レスレゥから伝票一式を預かったフィモッスが納入と注文の伝票をファヴトに渡した。
注文したのは主に蜂蜜関連商品と最近のこの村の名産品。
納入したのは主に香辛料である。
「はい確かに。こちらは新しい店員さん?」
「ええ。貴社に少しでもあやかろうと思いまして。あとはその…こういうことを言うと売名と怒られるかもしれませんが、獣人を雇っていると貴社と提携していることを納得してもらいやすいので」
「いえいえ。売名でもなんでもなさってくださいまし。当社としては獣人の進路が少しでも開けてくれればそれに勝る喜びはありませんわ」
口元に手を当てて微笑むしぐさが何とも言えず上品だ。
獣人にもあんな綺麗な女性がいるものか…などとレスレゥは感心するが、その脚は勝手に馬車へと戻って他の従業員と共に荷運びに精を出していた。
やるべき仕事が残っていると居ても立っても居られない性分なのだ。
「よし作業は…ってもう終わってるのか、早いな」
ファヴト夫人と雑談して戻って来るとほとんどの商品の納入と受取は完了しており、従業員たちが馬車の横で休憩しつつ額から汗をぬぐっている。
レスレゥが来てからというもの妙に作業が終わるのが早い。
一番下っ端の彼女が、仕事を始めていいタイミングで誰よりも早く率先して作業を始めてしまうため、他の者達も釣られてつい仕事を頑張ってしまうのだ。
「ここの店はすごいやりやすいでチュ。倉庫には最初から納品しやすいようにスペースが空けてありまチュし仕入れる荷物も最初から運びやすいよう工夫されてまチュ」
「その辺りはファヴトさんの気遣いだなあ…まあなんにせよお疲れさん。俺は少しここで商談してくから、お前らは村を歩いて来ていいぞ」
「ほんとでチュか!?」
レスレゥはじめ従業員一同がわあ! と歓声を上げる。
ここに初めて来た者はオーク族の闊歩するこの村の不可思議な魅力に驚き、初めてでない者は以前よりさらに発展したこの村に驚いていたのだ。
許可さえ下りれば一刻も早く自分の足で見て回りたいと思っていたのである。
「まあ待て待て! 逸るな! …ほれ。無駄遣いするなよ…とは言わん。その代わりしっかりこの村のやり方を学んで来い!」
店長に呼び止められまだ何かあるのか…と思ったら小遣いをもらい大はしゃぎする一同。
フィモッスはたとえ今の自分からすればはした金であっても、こういう時に気前よく見せておくのが士気高く働いてもらうコツだと彼はよく知っていた。
なにせ彼自身が同じような経験をしてのし上がってきた現場からのたたき上げなのだから。
レスレゥはもらったお金に瞳を輝かせ、とりあえずぱたぱたと走り出…そうとして足を止める。
考えてみればこの店の裏口と倉庫しか見ていない。
店そのものにはまだ入っていないのだ。
とちとちとちと表通りに回ったレスレゥは、ひょこっと店内を覗き見て、その煌びやかさに圧倒された。
綺麗な壁、装飾、陳列された商品の数々…そして吟遊詩人の歌による商品の宣伝歌…驚嘆のあまり口をあんぐりと開けたまま見惚れ聞き惚れてしまう。
「お、いらっしゃい!」
「みゅみゃ! お化粧に興味がありますですか?」
「チュウ!?」
そして店員に声をかけられて驚きのあまり大量の汗を噴き出して硬直してしまった。
「へー、鼠獣人か。珍しいじゃん」
「みゅー! お客様大歓迎でございますー!」
驚いたことに店員は二人とも獣人だった。
少年のような口を利くのが狼の獣人、そして妙な口癖の方が兎の獣人。
どちらも女性のようだ。
年もだいぶ若い。
レスレゥと同じくらいだろうか。
「キョーミあるのは飯か? 蜂蜜か?! うまいもんなーアレ!」
「みゅあ! それともお化粧でございますか? 綺麗になりたいですか?」
「チュ! いや、その、えっと…」
チラ、と陳列されている商品を見て、その値段に目を丸くする。
高い。とても高い。
無論商品の品質に対する適正価格、という意味に於いてはこの店の品は決して高くない。
むしろ安すぎるとすら言える。
だがそれでも、下働きがもらえる小遣いで買い物するにはその『絶対価格』が高すぎるのだ。
元の商品の値付けが『庶民が手を伸ばせば届く』価格帯なのだから当然と言えば当然である。
「その、レスレゥは今おぜぜがでチュね…」
手を擦り、尻尾をただらんと下げて申し訳なさそうに呟く。
店の営業の邪魔をしてしまった。
店員をがっかりさせてしまった。
それが彼女にはとても心苦しかったのだ。
「みゅあ! 大丈夫でございますですよ。試供品がありますですから!」
「シキョーヒン…?」
耳慣れぬ言葉を前に戸惑っていると、兎の獣人が化粧品を一通り取り揃えて持ってくる。
ただしその全てに『試供品』のラベルが貼ってあった。
「キョーミはあるけどどんなもんかもわからねー…あー、わからない人が、試しに使えるのがこの『試供品』。コイツならなんとタダ!」
「タダ!?」
狼獣人の言葉にすっとんきょうな驚きの言葉を上げてしまうレスレゥ。
「まーだからって毎日これ目当てにやってこられても困るんだけどな。あくまで商品の質を確かめるためのお試しだよお試し」
「チュー…!」
確かにちょっと値の張る商品で、興味はあるが手が出ない、といった時はある。
そうした時に試しに使って効果を確認する商品などがあれば非常に有難い。
有難いけれど…どうなのだろう。
こんな高価な試供品など、試しに手につけるだけでお金がかかりそうな気がするのだけれど。
「みゅあ! まあまあ、とりあえず獣人の方にはこちらなんてどうでございますですか? 毛づやをよくするスキンケア用品でございます!」
兎獣人が小さな小箱を開け、中のクリームを指先に乗せる。
そして小首を傾げて「塗ってもい~い?」のような仕草で確認を取ってくる。
可愛い。
とても可愛い。
女同士だというのに妙にどぎまぎしてしまったレスレゥは、思わずぶんぶんと首を縦に振った。
「みゅみゃ! では失礼しますですね…」
「チュ…ッ」
柔らかな指先。
腕の毛に擦り込まれるような不思議な触感。
味わった事のない感覚に、レスレゥは思わず変な声を上げてしまう。
「みゃっ! こんな感じでどうでございましょう!」
「ふおおおおおおおおおお…!」
びっくりするほど艶やかな毛並み。
まるで自分の毛ではないのないようだ。
妙な高揚と感動に包まれ思わず唸ってしまうレスレゥ。
「よーし、じゃあ次は蜂蜜喰うか?」
「みゃっ! 次は洗顔クリームでございますっ!」
わいのわいのと迫ってくる店員たち。
「チュ、チュ! 今度ちゃんとお金持って来るでチュー!」
レスレゥはわたわたと手を振って慌てて店から飛び出した。
自分でしっかり稼いで、今度は試供品ではなく陳列されている商品を買ってみせるとリベンジを誓いながら。