第114話 公衆浴場
「そう言えば、メシドウスルか考えテなかっタ」
「ああ、食事か」
ひとしきり剣の修練に明け暮れた後、すっかり上気した二人が森を歩きながら村に戻る。
「困った。あまり持ち合わせがないな…」
キャスバスィは騎士ではあるが貧民街に暮らしていた時期の方がずっと長い。
だから隊の予算はともかく己の私財を他人に任せるような真似は当時の相棒を除き一切したことがなかった。
…が、今回の遠征はそもそも大きな町や村に寄る予定がなかっただけに、あまり多くの持ち合わせを用意していなかったのである。
「金…? 貨幣カ? 貨幣ハ使えンぞ」
「なに?」
クラスクの言葉にキャスバスィは思わず詰問するような声を出してしまう。
「オーク族貨幣使う文化ナイ。村ノオークみんな金ノ使い方知らナイ。女ハ知っテルダロウガ」
言われてみてキャスバスィは村の中に店……『商店』らしきものが一切見当たらなかったことを思い出した。
「ならば外との交易はどうしているのだ。ここの商品を外の世界で売っているのだろう?」
「それは今ノトコロ俺トミエが個人的にヤッテル。いずれは村ノ連中にモ覚えテもらわントならンガ」
「なら村の生計はどうやって立てているのだ」
「森デ狩りダナ。あとは襲撃止めた分は交易デ食料買っテ仕事に応ジテ配ル」
「成程。支給か…」
隊商を襲撃して分け前をいただくのも、村の仕事を手伝って食料の配給を受けるのも生活する上では大きな違いはない。
そういう意味では金銭による売買よりオーク族に受け入れられやすいのだろうか。
ただ…それは一見些細な違いなようでいて実は大きな相違がある。
襲撃は徒労に終わることがある一方、配給であれば労働に応じて確実に報酬が与えられるからだ。
『襲撃』とその『分け前』から
『労働』とその『対価』へ。
ミエとクラスクの手によって、この村のオーク達の価値観は知らぬ間にゆっくりと……だがオークという種族からすれば劇的な変容を遂げつつあった。
「しかしそうか…参ったな…」
なにせ店がなければ金の使いようがない。
「この仕事に報酬は出ないのか…と思ったが考えてみれば虜囚だったな?」
あまりに待遇がいい上に村に来てからは縛られも繋がれもしていないのですっかり忘れていた。
なにせ逃げ出すことすらつい先ほどまで忘れかけていたほどである。
「虜囚違ウ。スカウト」
「ならば報酬が出るのが筋なのでは」
「そうダッタ。忘れテタ」
夕暮れ時の果樹園を抜け、夕日に照らされる花畑を愛でながら村に戻る。
この光景の中を歩いていると、己が今オークの村へ向かっているだなどと到底思えない。
「汗掻イタ。トりあえず風呂入ル」
「風呂か!」
当たり前のように公衆浴場に案内されるのもまた彼女には驚きだった。
庶民が風呂に入る機会など週に一度か場所によっては月に一度。
騎士である彼女ですら数日に一度がせいぜいだった。
それもこのような小さな村で庶民が利用するものなら村々を巡る野天の浴場が一般的で、屋根付きのものが常設されているなどついぞ見たことがない。
ちなみに最近は遠征中だったためだいぶ御無沙汰である。
「では遠慮なく入らせてもらおう」
風呂は男女別のようだった。
これまた庶民であれば男女混浴ということも珍しくはないのだが。
中に入って脱衣所で服を脱ぐ。
脱衣所の横には扉で仕切られた、人一人が入れる程度の個室と水を湛えた桶が用意されていた。
床はやや傾斜していて水は下に開けられた穴から出てゆく仕組みのようだ。
水浴びが好きな人用だろうか。
キャスバスィがぎぎ、扉を開けるとむわっと湯気が襲って来て一瞬たじろぐ。
どうやらこの村の風呂はこの湯気で体を暖めて汗を掻き汚れを落とす仕組みらしい。
「む、外の個室は掻いた汗を流すためか…」
妙なところで感心しながら壁から突き出た腰掛に座った。
湯気が体を火照らせて汗がみるみる湧いてくる。
「む、これはいいな…んっ」
キャスバスィはこうした蒸気風呂は初体験であったが、なかなかの快味に思わず呻る。
気になるところと言えば中が無人だったことだろうか。
壁に衣服が掛けられていたので誰かがいるのかと思っていたのだけれど。
ならあの服は誰のものだろう?
興味深げに部屋の中を見渡してみる。
採光は壁、色硝子の窓である。
半透明で光は通すが外の景色は流石に見えぬ。
部屋の奥には水を湛えた桶と柄杓、その隣に二、三個置かれた台、そしてその隣に黒い石が積まれた台とトングがある。
おそらく湯気が減ってきたらあの石に水をかけて湯気を出すのだろう。
比較的単純な構造だが、これなら水場さえあればどこでも風呂が作れるはずだ。
こんな風呂が村人全員に解放されていて、誰でも入れる。
それも金銭が村の中で使えないとなると無料で、しかも毎日、だ。
こんなサービスが受けられる村なら移住したがる者は多いのではなかろうか。
「オークの村でなければ、な…」
腕を組んで考え込む。
それほどに彼らオーク族の風評は悪いのだ。
村の良さを知ってもらおうにもまず村に立ち寄ってもらわないことには始まらない。
だがその村がオークの住処となるとまず近寄る《《とっかかり》》自体が発生しない。
だからオークのイメージを変える必要がある。
少なくとも平和を求めているオークがいるのだと喧伝する必要がある。
そのための蜂蜜を主体とした村の特産品というわけだ。
なかなかに面白い試みと言える。
「!」
ぎぎ、と扉が開いて風呂場に新たな入浴者が訪れる。
ただその女性は先程の大きな扉を、腰を屈めてくぐるように入って来た。
「お、誰かと思ったらさっきの」
「貴女は…」
先刻会った、クラスクが練習用の剣を持ち出した倉庫、その管理主たる家の娘のようだ。
しかし本当に大きい。
エルフ族から見れば人間族はやや大柄だが、オーク族はそれよりさらに一回りか二回り大きい。
彼女は女性でありながらそのオーク族と遜色ない程の体格である。
さらに言えば骨が太く、肉が厚い。
女性に対する表現として不適切かもしれないが、いわゆる筋骨隆々といった体つきである。
そして裸になったことで全身に刻まれた傷がいっそうはっきりとわかる。
「そういやアンタ外から来たのかい? 村じゃ見ない顔だが」
「ああ。先刻は挨拶もなく失礼した。このたびクラスク殿の要望で村の手伝いをすることになったハーフエルフのキャスバスィだ」
大柄…というか明らかに巨漢の娘に自己紹介しながら頭を下げる。
「ほー、キャスバシーさんね。アタシはゲルダ。ハーフオーガさ。ああそう身構えなさんな。人間の街で育った方さ」
「こちらこそ気を悪くさせてすまない。あまり見ないものでつい、な」
「気にしてない気にしてない。慣れてるからさ。ハハハハ!」
そう言いながらどっかとキャスバスィの隣に座る。
ハーフオーガはその出自柄滅多にお目にかかることはない。
なにせ片親が片親の捕食対象なのだ。
そうそう見て堪るかという組み合わせである。
キャスバスィが知る限り、ハーフオーガが人を喰うか喰わぬかは彼らの育ち次第。
ハーフオーガはその体質上人を『喰うことはできる』が『喰わなくても生きてゆける』からだ。
ゆえに人の街で生まれ人の手で育てられたハーフオーガは『同族』と認識した人間族を食べようとしないし、逆に食人鬼の手で育てられたハーフオーガは人間を餌と見做し当たり前のように貪るという。
とはいえこの法則は絶対ではない。
人間の街で生まれ育っても人間に差別され、迫害された結果怒りのあまり人を殺し、興奮の最中本能に負けて彼らを捕食してしまい、結果食人に目覚めてしまう者もいる。
或いは最初から食人衝動を抱いたまま街に居着き、表向きは無害そうに装って夜毎人を襲って喰らうような性悪な者もいたりするのだ。
だからキャスバスィが思わず身構えてしまうのも無理からぬことなのである。
「…色々大変ではないか? その、言いにくいのだが」
「ハーフオーガだからって? まあ人間の街じゃあ御指摘の通り色々、な。けどここじゃあ特に問題にはならねえかな。人間と違ってオーク族は全員屈強な連中ばっかだからねえ。仮にアタシが暴走してオークを喰おうとしても全員アタシと渡り合えるし、なんだったら何人かはアタシを簡単に叩きのめしてくれるしね。だから安心して住んでられるのさ。アッハッハ!」
「…その発想はなかったな」
人間世界では差別と迫害の象徴のような存在が、この村では当たり前のように住み暮らせる。
オーク達にとってはその女性の種族性より一緒に住んでくれるか、彼らの子を産んでくれるかどうかの方が大切なのだろう。
つまり少なくともこのゲルダと言う女性にとっては、この村は人間族の村よりも住みやすいのだ。
それは……クラスクとミエが理想としているこの村の在り方の答え、その一つのような気がした。
「ゲルダ殿。会ったばかりでぶしつけかもしれないが…幾つか尋ねてもよろしいか?」
「『殿』ってタチじゃないけどねえ。まあいいさ。外から来た人じゃあこの村について聞きたいことは山ほどあるだろうしな。いいぜ、アタシに答えられる範囲でってことになるが」
「すまない。感謝する」
「例のイドゥ・バー・タッカイギィってやつだな。場所は風呂場だけど。ハハハ」
「??」
聞いたこともないゲルダの言葉にキャスバスィは首を捻った。
なにかオーク語の慣用表現か何かだろうか、と。