第103話 森の中の一騎打ち
ぶうん、と大振りな斧の一撃。
それを一歩下がり、上体を背後に逸らしながらギリギリ鼻先を掠める距離でかわしたキャスバスィは、斧刃が己の眼前を通り過ぎた瞬間上体を一気に前傾させ右足を大きく踏み込んで間合いを詰める。
最短距離で鋭く突き出したエストックの一撃をクラスクがかわそうとするが、その速度に抗し得ず肩にその刺突を浴びた。
素早く武器を引き抜き後方に跳ね飛ぶキャスバスィ。
己が先瞬までいた空間には、既に逆方向からの斧が穿たれていた。
明らかに振り抜いたそれではない。
自分の攻撃がかわされた瞬間、手首で強引に斧を引き戻しての反撃の一打である。
無論あの距離では近すぎて斧刃ではなく斧の柄縁や柄背あたりしか当たらなかろうが、巨人族相手でもなければそれで十分なのだ。
もしわずかでも掠めれば腕がひしゃげ骨が折れ、もんどりうって吹き飛ばされ肩や背中を痛打しさらなる加撃を受けることだろう。
それではもうまともには戦えまい。
だが当たらなければ問題はない。
キャスバスィはその返りの斧を避けると同時に再び間合いを詰めた。
「ホウ」
「ッ!!」
次に放たれた刺突を、けれどクラスクは避けてのけた。
最初の一撃と異なり反撃の反撃という十分な体勢で放たれたものではないにせよ、初撃の軌道をしっかり把握していなければこうも綺麗にかわせないだろう。
もしかしたら剣による刺突、という攻撃方法すら初見かもしれないのだ。
だがそれをたった一撃受けただけで対応してのけた。
放たれる気迫の凄まじさだけではない。
そのクラスクを名乗るオーク族の族長には明らかに精緻な技術の持ち主なのだ。
互いの得物、体格、戦術…あまりに違う者同士のその攻防は、だが存外に拮抗し長く続いた。
どちらが優勢か、と現在の戦況だけ見て述べるなら、キャスバスィが優勢といえるだろう。
なにせ彼女はただの一撃も喰らっていない。
触れれば死と同義のクラスクの斧を全て避け、かわしてのけている。
一方のクラスクの方は彼女の戦法に対応したとは言ってもその全てを避けられているわけではない。
キャスバスィの騎士ならではの正確な攻撃と素早い動作。
フェイントとヒットアンドアウェイを駆使し攻め立てる彼女の攻撃に完全には対応し切れていないのだ。
肩に、鎖骨に、或いは脇腹に、幾度もその刃を受けて派手に出血する。
だが今の戦況ではなく最終的にどちらが勝利するのか、という話になってくるとまだわからない。
一方的に攻撃を喰らっているように見えるクラスクは、だが未だ膝すらついていないのである。
そう、ここまで一方的に攻め立てている彼女の猛攻は…それでいてなおクラスクを仕留め切れていないのだ。
(しまったな…コイツ相手だと鎧が邪魔だ…!)
キャスバスィは内心舌打ちしながらクラスクの戦斧の一撃を己の鼻面を掠めさせながらかわしてのける。
それは彼女に流れるエルフの血から来る優れた視力あればこそ為し得る見切りの技術なのだが、彼女自身はそこまで自覚できているわけではない。
彼女の着ているのは板金鎧と呼ばれる鎖鎧の上に字の如く板金をあしらった重装の鎧だ。
キャスバスィのそれは完全に全身を覆っているわけでなく、主に胸や肩などの上半身をメインにしたものであり、足回りはそこまで厚く守られているわけではないが、それでも並の剣の一撃程度なら軽く弾く強度を持つ。
しかし防御力という点では文句のないこの鎧には大きな欠点がある。
とにかく『重い』のだ。
なにせ鎖鎧の上に分厚い板金を乗せているのである。
その重量は本来であれば軽く40ヴィアム(約18kg)以上はあるだろう。
そもそも板金鎧は騎士が騎乗している時に着用するものであって、地上を徒歩で行軍する際に纏うものではない。
が、彼女のそれは話が別だ。
真銀…そう呼ばれる希少金属がある。
金属自体に魔力が含まれているといういわゆる『魔法金属』である。
加工には非常に高い技術が必要であり、人間族でそれが可能な者は少ない。
その特性は『硬さ』と『軽さ』。
真銀は同じ厚さの鋼以上の硬度を持ちながら鋼の半分以下の重さしかないのである。
彼女の纏っている板金鎧はその真銀製なのだ。
その軽さという特性ゆえにこうして下馬した行軍時でも用いることができる。
強固な防御力と優れた機動性の両立…それこそが彼女の今の強さの根幹と言ってもいい
が…半分以下といっても流石に板金鎧である。
まだ20ヴィアム(約9kg)ほどの重量があるのだ。
羽のように軽いとまでは言えないのである。
そんなものを装備したまま戦い続ければ徐々に疲労が溜まってゆく。
そうすれば得意の機動力が奪われてしまう。
ゆえにできれば長期戦は避けたい。
しかし目の前のオークがそれをさせてくれぬ。
彼女が繰り出す無数の攻撃を避け、いなし、あるいは避けられぬとわかれば急所以外の部分で受け、その被害を最小限に留めてしまう。
己の圧倒的なタフネスを存分に活かした戦い方と言えるだろう。
つまりこのまま戦いを続ければ、いずれ疲労が蓄積し動きの鈍った己に大斧の一撃が振り下ろされ…といった結末が訪れてもなんらおかしくはない。
キャスバスィにはその光景がありありと見えた。
「ッ!!」
上体を逸らし横薙ぎの斧をかわそうとして、そのリーチが突然伸びて来たことに驚愕する。
彼女の優れた視力がすぐにその理由を看破した。
そのオークは攻撃の瞬間両手で振るっていた斧を片手に持ち替え、肩を突き出すことでリーチを稼いだのだ。
こちらが反撃のためにギリギリで見切ってかわすであろうことを見越しての一撃である。
キャスバスィは体をさらに大きく逸らすと、ブリッジするようにしてその一撃をかわしてのける。
だがそれと同時にその尖った耳が剣呑な音を聞いた。
そのオークの踏み込みの音である。
左から右に薙ぎ払った斧を、現在彼は右片手で持っている。
だが大きく踏み込んだのは音からして左足。
踏み込んだ位置からすれば上体はかなり前傾している。
となれば…角度的には見えないが、このオークは今左手をこちらに伸ばしている……!
背中に走る戦慄と悪寒。
それが何を意図してのものかはわからないが、危険なものであると全身が告げていた。
考えるより先に彼女の体が動く。
そこにあるであろうはずのオークの左手の甲めがけて右足を伸ばし、勢いよく蹴りつける。
ヒット。
足の感触でわかる。
確かにそこに彼の左手があった。
無論オークの腕力にそんな不自然な体勢からの彼女の蹴りが効くはずもなく、その勢いが止められるはずもない。
だがそれでいい。
その腕の勢いに自らの体を乗せて宙に浮き、先瞬過ぎ去った斧を振るった彼の右手首めがけてエストックを払うように振るい、そのまま背後に大きく宙返りをしながら着地、それと同時に地を蹴って横に飛びのき、一切止まらず突撃してくるであろうそのオークの猛進をギリギリで避けてのける。
「オオ…!」
最後の突進まで華麗に躱され、むしろ感嘆したような表情でクラスクが振り返る。
と同時にその右手の甲から血がぼたぼたと地に落ち、足元の草を朱に染め上げた。
「あの一瞬で手首を返すか…!」
キャスバスィはあの一瞬、確かに彼の右手首を狙った。
大量の失血とそれによる疲労を狙っての一撃である。
だが血の落ち方から見て彼の傷は手の甲にある。
おそらく攻撃の瞬間咄嗟に腕を回転させて手首への傷を避けたのだろう。
単なるタフネスだけではない。
このオークは致命傷を避けるための直感、いわば戦闘勘が尋常でなく高いのだ。
「凄イナお前、そンナ戦イ方あルノカ」
クラスクが瞠目しながら称賛の声を上げる。
「さっきまデトハ違ウ。別ノ戦イ方ダ。少シ俺達ニ近イ」
そう、彼女の今の戦法は騎士の戦い方ではない。
騎士になる前の、彼女が貧民街にいた頃に相手を撹乱するために用いていた喧嘩殺法である。
騎士になってからは邪道と蔑まれるため長らく封印していたものだった。