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絶刀・鏡花水月  作者: さのだいき
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六章

 鈍い痛みによって目が覚めた。特に右手の痛みは頭に音を響かせているほどだ。縄で縛られているが、それだけが原因ではない。美空は自分が置かれている状況を覚醒したばかりの頭で考えていた。

「ようやくお目覚めか」

 美空に声をかけたのは右手の痛みを作った張本人、棗紋次郎だった。

「棗!貴様…」

「あまり騒ぐなよ。傷に響くぞ」

 紋次郎はニタリという擬音が聞こえてきそうな笑顔を浮かべて言った。美空は怒りと殺意を込めた視線を紋次郎に突き刺した。

「さて、今の状況を改めて説明しようか」

 美空の視線を受け流しながら紋次郎は話を続けた。現状、彼に手を出せない美空は大人しく自分の置かれた状況についての話を聞くしかなかった。

 紋次郎の刀の柄によって右手を打たれた後、当て身を喰らわされ気絶した美空は、今いる廃屋に連れてこられ縄で縛られ柱に固定されている。建物の内装を見る限り、恐らく廃寺だろうと美空は見当をつけた。リップと儀エ門は命までは奪っていないから恐らく無事だろうと興味なさげに紋次郎は言った。

「成程。無様にも打ち負かされてしまったという訳か、私は」

「そういうことだな。まぁ、無理もない。所詮お前の剣術は、お行儀と見映えが良い道場剣法に留まっていた。本当の戦を想定して腕を磨いてきた私に敵う道理はない」

「それを誇示する為だけに、こんなマネをしたのか?」

「バカか。お前は琳太郎を釣るための餌だ」

「琳太郎様を?」

「あぁ、お前を餌にヤツを呼び寄せる。秋月の書を持ってこさせた上でな」

「何を言っている?秋月の書は盗まれたのだぞ。琳太郎様が持っている訳がないだろう」

 美空の発言を聞き、紋次郎は腹を抱えて笑った。憐憫の情を隠そうともしていない。

「本当に貴様は滑稽そのものだな、柊。片想いもここまで来ると悲劇を通り越して喜劇だ」

「どういう意味だ!」

「そうだな。互いに嫌いあっていたとは言え、同門だ。その誼で教えてやろう」

 廃屋に月明りが降り注いでいる。その光の下で紋次郎は舞台役者のような振る舞いで話し始めた。

「将軍家の剣術御指南役、秋月家。その流派である光陰流の技の全てが書かれた秋月の書と呼ばれる武芸帳、これは鏡花の巻、水月の巻という二つの巻物で構成されており、二巻揃って光陰流の奥義である鏡花水月の全貌が明らかになる。しかしそれは表向き」

 紋次郎の言葉に帯びた熱はどんどん上がっていき、彼の興奮の波動が廃寺を揺らしているような錯覚が美空を襲った。

「一大名に過ぎなかった徳川葵は様々な巡り合わせにより、幕府という巨大な組織を作り上げるに至り、天下をその掌中に掴んだと言えよう。しかし、世の中出る杭は打たれるもの。徳川家を失墜させようと、多くの武家、果ては皇族までもが動き出した。徳川も黙ってはいない。自身の剣術指南役であった秋月を遣い歯向かう者たちを悉く殲滅した。その時に徳川家から秋月家に出された暗殺司令書が存在する」

「!まさか…」

「察しがいいな。そうだ。それが秋月の書の真の姿だ!」

「では秋月の書を盗み出したのは…」

「ご明察。私だ。どうやら琳太郎はその事に気づいたようでな。盗人を遣って私の持っていた巻物を盗み返したのだ」

「バカな!琳太郎様はそのようなこと…」

「だから貴様は剣士として大成できんのだ。貴様の眼に映る琳太郎はさぞ清廉な人間に見えるかもしれん。だがいいか、人も剣も本性は獰猛で野蛮だ。自分の命や名声を守るだけに固執したケダモノにすぎん。琳太郎もあの善人面の下にはさぞ醜い貌が隠れているだろうな」

「黙れ!貴様が琳太郎様を語るな!あの人はそんな人ではない」

「何故、そう言い切れる?」

「それは…!」

「やれやれ。恋する女に理屈を求めても無駄だったな。聞いた私が悪かったよ」

 呆れたように肩を竦め、紋次郎は腐った椅子に腰を下ろした。ギシリと不快な音が響く。

「秋月の書のことが本当だとして、貴様はどうやってその秘密を知ったのだ」

「ふん。そこまで教える義理はないな。ただ、この世界に完璧に隠蔽できる秘密などない。それだけの話だ」

「棗。何が目的だ」

「今日はよく喋るな、柊。道場では私と言葉を交わすのも避けていたのに」

「あぁ、お前の声が耳に入る度に三半規管が狂って気持ち悪いよ」

「無理はするな。どうせ後、数時間の命だ。残された時間を大切に使うんだな」

 やはり紋次郎は美空も殺すつもりだ。琳太郎を誘き出す為の餌とは言っていたが、ここまでの秘密を知った美空を生かす理由などないだろう。

「棗」

 美空の声に紋次郎は顔だけ反応させた。

「どんな策を張り巡らせようと、琳太郎様は貴様のような卑怯な男の剣には負けない」

「ご忠告どうも。卑怯な私の剣は琳太郎には勝てないか。では、何故あいつから剣を学んだ貴様は私に負けたのだろうな、柊」

 美空は返す言葉が見つからず、口を噤むしかなかった。

「お前が剣にどれだけ清らかさを求めようとも、私がどれだけ剣を薄汚く使おうとも、正しい者が勝つのではなく、強い者が勝つ。剣の世界はそれが正義。いや、そうでなくてはいけないのだ」

 雲がかかったのか、差し込んでいた月明かりが消えていく。真っ暗になった廃屋で互いの姿は見えないが、紋次郎の眼が一瞬寂しい色を放っていたように美空には見えた。




 儀エ門とリップが倒れていることを聞いた清兵衛はすぐに2人が運ばれた医療所に駆けつけた。馴染みの医者であり菫の父親である鴨治の話では命に別状は無く、数時間もすれば目を覚ますだろうとのことだった。

 清兵衛は2人に命の危機が無いことに安堵した。だが、同時に解せない。リップは大の男の束になっても敵わないほどに武術の腕は優れている。儀エ門もリップほどではないにしろ、辻斬り程度にやられるほど柔ではないのだ。

この2人を同時に倒したとなると、相手は相当の手練れと見ていいだろう。清兵衛の頭の中には何故か伊予藩邸で遭った光陰流の遣い手である棗という男の顔が思い浮かんだ。

「ン…」

 かすかな吐息と共にリップの声が漏れた。

「リップ!大丈夫か?」

「え…親分?ここは?」

「鴨治先生の診療所だ。具合はどうだ?」

「具合って…そもそも何で私は鴨治先生のところに…」

 自分の置かれた状況を整理していたリップは掛けていた布団を吹き飛ばす勢いで急に起き上がった。

「おい。急に起き上がるな。体に障るぞ」

「親分!美空ちゃんは?」

「美空?いや、見てないが」

「こうしちゃいられない。行かなきゃ」

 ベッドから降りたリップは地に足をつけた瞬間にふらつき、膝を折った姿勢となり清兵衛は駆け寄った

「無理するな。まだ安静にしてろ」

「それどころじゃないよ!美空ちゃんを助けなきゃ!」

「どういうことだ。お前たちに何があった?」

「それは俺から説明するよ、親分」

 清兵衛とリップは声の主の方へ顔を向けた。

「儀エ門。大丈夫か?」

「まだ体は痛むけどね。それより親分。リップの言う通り俺たちの体はこの際、後回しだ」

「…わかった。お前たちに何が起きたのか教えてくれ」

 儀エ門は頷き、自分たちに起きた出来事を話し始めた。話を聞き終わった清兵衛は自分の頭をなでた。困った時の彼の癖だ。

「つまり、その棗とかいう侍が美空を攫った可能性が高いということか」

「恐らく」

「ごめん。親分」

「謝る必要はないさ。悔しい気持ちは解るがな」

 悪い予感が的中した。清兵衛は悪い予感ほど良く当たる自分の勘に嫌気が差した。

「その棗って侍だが、実は俺も遇ったことがある」

「え?何で?」

「詳しいことは後で話す。とにかく今は美空の安否確認が最優先だ」

 儀エ門は清兵衛が棗に遇ったことに驚いたが清兵衛の言う通り、今は美空の居場所を突きとめることが自分たちのするべき事だった。

 リップも同じ気持ちなのだろう。2人は清兵衛の言葉に強く頷いた。




 行燈の灯が揺らいだ。琳太郎は暗い部屋の中で手紙を読んでいる。秋水の絵のファンからの手紙ではない。棗紋次郎からの手紙だった。

 美空が捕まった。無事に返して欲しければ、秋月の書二巻を持って婆々が茶屋にある廃寺まで1人で来い。手紙に書かれていたことは概ねそのようなことだった。ご丁寧に呼び出し場所が記された地図まで用意されている。

 紋次郎はどうやら秋月の書を琳太郎が二巻とも持っていると勘違いしているらしい。何故、紋次郎がそのような勘違いをしているのかはわからなかった。だが、確実に一巻は琳太郎が持っている。

 今はあれこれと考えている時ではない。琳太郎は眼鏡を外し、腰に刀を差した。紋次郎からの手紙と水月の巻を懐に入れ、長屋を出た。

「こんな夜更けに何処へ行くんだ?」

 声の主は清兵衛だった。

「清兵衛さん…」

「秋水先生。眼鏡を外しても男前だね。それとも今は秋月琳太郎と呼んだ方がいいのかな?」

「何かご用ですか?今、急いでいるんですが」

「棗紋次郎からのお呼び出しですか?」

 時間が凍りついた。本当に驚いた時、人間という生き物は声を出せないものだと琳太郎の表情が語っている。

「儀エ門とリップがその男にやられましてね。一緒にいた美空の行方がわからない状況なんですよ」

「…それで何故、私のところへ?」

「何かご存知ではないかと思って。その様子だとビンゴだったかな」

「儀エ門さんとリップさんのことは申し訳ありませんでした。しかし、これは我々、秋月家と光陰流でカタをつけないといけない。何よりこれ以上、清兵衛さんたちに迷惑を…」

 閃光が走った。琳太郎は飛び下がり、刀に手をかけた。

「さすがは光陰流の達人。不意打ちは通用しないか」

 清兵衛の居合によって放たれた刀は、まだ月明りに照らされ光を放っている。

「貴方は私の敵ですか。それとも味方なのですか。清兵衛さん」

 琳太郎は腰を落とした。刀は手にかけたままだ。清兵衛は何故か紋次郎の名前を知っていた。考えたくはないが、清兵衛が紋次郎と通じている可能性がある。その考えが琳太郎の戦闘態勢を解かせない。

「俺はあんたの敵でも味方でもないよ」

 清兵衛は刀を鞘に納め、懐から取り出した物を琳太郎へ向かって放った。

「これは?」

「秋月の書。鏡花の巻ですよ」

 地面が縮まったのではないか。そう思ってしまうほど琳太郎は刀を抜き、一瞬で清兵衛の喉元へ刀を突きつけるほど距離を詰めた。

「…殺さないのか?」

「貴方は一体何者なんですか」

「この町を守る、助人屋だよ」

 夜風に吹かれた枯葉が地面を齧る音が辺りに響いた。琳太郎の放つ剣気を清兵衛は打ち返さない。

 琳太郎は清兵衛からゆっくりと距離を取り、刀を下げ残心を示した。

「敵ではないようですね」

「ご自由に。俺はこの町を守るために生きている。厄介事には早急に去って貰う方が助かるからな」

「そうですね。では疫病神は用事を済ませて、早くこの町から去ることにしますよ」

 刀を納め、琳太郎は一礼し清兵衛の下を去っていった。

「大層な悪役だったね」

 物陰から現れたのは篝だ。

「盗み聞きか。趣味が悪い」

 清兵衛は振り向かずに言った。

「盗賊だからね。盗めるモノは何でも盗むさ」

「で?何の用だ」

「いやいや。用なんて。ただ夜の散歩をしていたら、相変わらず肝心なところでは憎まれ口しか叩けない、カワイイ男の言動を楽しんでいただけさ」

カラカラと笑う篝に清兵衛は、やっぱりこの女を助けたのは間違いだったかもしれないと思った。

「用が無いなら行くぞ」

「えぇ。どうぞ。でも気をつけなさいな。今宵は浪人たちが大勢この町に入り込んだみたいだからね」

「何?」

「あれだけの数の浪人。どこかの藩のお偉いさんが手引きでもしたのかね。怖い怖い」

 篝はいつの間にか闇夜に紛れて、その場からいなくなっていた。

「本当にこの町は、騒がしいことばかり起きるな」

 笑いながら清兵衛は走り出した。




 踏みしめた草の音から霜が降りているのだと琳太郎はわかった。夜の寒さは一段と増している。目的の廃寺に到着した。

「秋月琳太郎。ご要望により参上した」

 吹きすさぶ風の音が死神の歌声のように聞こえる中、琳太郎は声を上げた。

「よく来たな」

 廃寺の扉から棗紋次郎が現れた。

「美空は無事か」

「奥で眠っている。何、まだ死んではいない」

 ギシギシと腐った木を踏みしめる音を立てながら紋次郎が下りてくる。琳太郎は左手の親指を鍔にかけた。

「まだ…か。私が秋月の書を貴様に渡せば美空は無事に返す約束だったはずだが」

「言葉の綾だ。気にするな。約束を破るほどこの棗紋次郎、落ちぶれていない」

「同門の剣士を人質に取る人間が落ちぶれていないとほざくのか」

「そう突っかからないでくれないか。私は秋月の書を手に入れることさえできれば、それで良いのだ」

「渡す前に1つ良いか?」

「何だ」

「鏡花の巻を兄上から盗み出したのは、お前だな」

「あぁ、そうだ。それを知ったお前は盗賊を差し向け私から鏡花の巻を奪い返したのだろう?」

「いや、私はお前が鏡花の巻を盗んだことなど知らなかったよ」

「何だと?」

「お前が秋月の書を狙っているのは、この巻物が単なる武芸帳では無いことを知ったからだろう。何故、お前がその事を知ってしまったのかは、この際どうでもいい。知られたこちらの落ち度だ」

「ふん。そうだな。天下の秋月家も堕ちたものだ。私の放った忍の存在にすら気づけないとは」

「返す言葉も無いよ」

「そうだろう!秋月家は所詮、徳川家の陰となり手を汚し、今の地位を築いたに過ぎん。墜ちるも何もなかったな。お前らのような者たちが剣の頂点などと私は認めん!そして、この国の仕組みもだ!家柄に恵まれただけ。長男というだけで実力が無い者が人の上に立つことなど、あってはならんのだ!」

 紋次郎の感情が吐き出された後、琳太郎は懐から二巻の巻物を取り出した。左手は刀に手をかけたままだ。

「ほう。それが…」

「秋月の書だ」

 紋次郎の眼が妖しく光った。それは大金を目の前にした欲深い大人のようでもあったし、同時に新しい玩具を手にした子どものような無邪気さも孕んでいた。

「よし。では、そこから放って私に渡せ」

「棗」

「何だ。早く秋月の書を寄越せ」

「わかっている。ただし、それは私との勝負に勝ってからだ」

「やはりそう来るか」

「あぁ、どうせお前は私も美空も生かしておく気はないのだろう?ならば、ここで私を斬って秋月の書を手に入れても不都合はあるまい」

「言葉の割に、私に斬られるなど微塵も思っていない顔に見えるが?」

「戦いの場で己の感情を顔に出す剣客が何処にいる?」

「なるほど。筆を握っていても、剣客としての心構えは失くしてはいないか。腐っても秋月家の者という訳だ」

 紋次郎も左手を刀にかけた。琳太郎は秋月の書を地面に置き、両者は睨みあう。互いの剣気が風と溶け合い、木霊する。

 ふと、紋次郎が笑った。

「秋月家、当代きっての遣い手である秋月琳太郎と手合わせできる機会。一端の剣客として心が躍らぬ訳ではない。だが、今回は遠慮しておく。代わりと言っては何だが、総勢50名を超える浪人共がお前の相手をしよう!」

 紋次郎は右手を高らかに挙げる。

「さぁ!全員でかかれ!この男を殺すのだ」

 紋次郎の声が響いた。しかし、そこにはネズミ1匹も現れなかった。




「悪いな。お前が雇った浪人たちは不慮の事故により、お休みするそうだ」

 廃寺を囲む木々の中から現れたのは清兵衛だった。

「な!?バカな」

「全く。あんな雑魚の大群、いくら相手にしても修行の足しになりゃしない」

「だから、俺に任せとけって言ったじゃん」

「暴れたい気分だったのよ」

「怖っ」

 清兵衛に続き現れたリップと儀エ門の姿を見て、紋次郎は更に驚きを顔に浮かべた。

「貴様ら…」

「どうも。昨晩はお世話になったわね」

「まさか、貴様らが浪人共を…」

「我らは、この巽町の助人屋。あれだけの浪人たちが町に入り込めば、放ってはおけないのでね」

 想定が狂った。琳太郎が浪人たちの相手をしている間に、秋月の書を奪い、美空を眠らせている廃寺に火を放ち逃げるつもりだった。今回の紋次郎の目的は秋月の書だった。美空を殺した自分のことを琳太郎は放ってはおかないだろうが、秋月の書さえ手に入れてしまえば後はどうにでもなる。

 しかし、雇った浪人たちは来ない。清兵衛たちに倒されてしまった。4対1では紋次郎の分が悪すぎる。このままでは目的を達成できない。焦った紋次郎は廃寺へと引き返した。

「あぁ、言っとくけど美空ちゃんは、もうそこにはいないわよ」

「な…」

 紋次郎と琳太郎が対峙して、時間はさほど立っていない。そのわずかな時間で美空まで奪還されてしまった現実を紋次郎の頭は理解できなかった。

「バカな、バカな!はったりだ!」

「はったりではない」

 木の陰から出てきたのは、美空だった。木に体重を預けている。まだ回復はできていないのだろう。

「そんな…こんな事が…。琳太郎!貴様、謀ったな!」

「この現実を理解できないのはわかるよ。棗。私も同じ気持ちだ」

 琳太郎が始めから清兵衛たちと手を組んでいたと紋次郎は思っていた。だが、琳太郎の口ぶりや表情から、彼は本当にここまで1人でやって来て、清兵衛たちがここにいることは想像していなかったのだろう。

「清兵衛さん、儀エ門さん、リップさん。何故、来たんですか」

「言わなきゃわからないか?」

「…いや、大丈夫です。ありがとう」

 琳太郎は3人の顔を見て、お礼を言った。3人は微笑みで返事をした。

「さて。どうする?紋次郎。ここで謝るお前でもあるまい」

「黙れ!…よし。良いだろう。まとめて相手になってやる」

 紋次郎は気炎を上げた。目の前にいる自分の敵は5人だが、美空、儀エ門、リップは手負いだ。琳太郎と清兵衛という双璧がいるが、隙を作れば逃げ出せないことはないと算段をつけたのだ。

「清兵衛さん」

「わかってる」

 清兵衛と短く言葉を交わした琳太郎は紋次郎へ視線を向けた。

「棗」

「何だ」

「この一件、俺とお前だけでケリをつけよう」

「…よかろう」

 紋次郎は上げていた気炎を鎮め、琳太郎の提案に乗った。

「ただし、私が斬られても、美空とこの人たちには手を出すな。秋月の書を持って大人しくこの町を去れ」

「琳太郎様!」

「美空。決して手を出すなよ」

 再び琳太郎と紋次郎は向かい合った。

 勝てる。紋次郎は心でそう呟いた。準師範代として紋次郎は秋月光陰流の技は奥義の鏡花水月以外、習得済みだ。そして光陰流の極意は居合術にある。その居合術を封じる技を紋次郎は独自に開発していた。それは美空にも放った技であり、こちらの刀の柄を抜刀しようとする相手の右手に叩き込む。奥義、鏡花水月がどのような技であれ、居合術である事は間違いないだろう。居合術である以上、琳太郎の右手が刀にかかった瞬間に柄を叩き込む。そして琳太郎の体勢がわずかでも崩れた瞬間に、こちらが抜刀し、袈裟斬りにする。

 勝利の道筋を描き出した紋次郎から笑みが零れた。

 刹那、琳太郎は左手で刀の柄を掴んだ。




 睨みあった時間はどれくらいだっただろう。決着は一瞬だった。琳太郎の目の前に紋次郎が倒れている。

 儀エ門は何が起きたかまるで理解できず、美空とリップはかろうじて琳太郎の技を捉えていた。清兵衛のみが、琳太郎が放った秋月光陰流の奥義、鏡花水月を見切った。

 琳太郎は腰に差した刀の柄を左手で掴んだ。反りを返した刀を真上に抜き上げ、右手を柄に掛けた。通常の握りとは逆に左拳が鍔近くを握り、右拳が柄頭を握った状態だ。そして、振りかぶった刀を振り下ろした。

 左腰に差した大刀は右手で抜く。それが常識だ。左手で抜刀するなど、剣を学んでいる者ほど考えない。

 紋次郎はその常識に捉われ、琳太郎が刀を左手で掴んだことで何が起きたのか、何が起きるのかが読めなかったのだろう。自分が斬られたことすら気づいていないのかもしれない。

 清兵衛は総毛立った。技の理屈は見抜いたが、誰にも真似できるものではない。今、自分の目の前に立っている男は間違いなく、この国でも5本の指に入る剣豪だ。

「…棗殿」

 目の前に倒れている紋次郎に琳太郎は膝を曲げ優しく声をかけた。

「貴方が剣術に真摯に向き合っている事はわかっていたつもりでした。私も剣術を愛していますから」

 開かれたままの紋次郎の眼。琳太郎はその瞼をそっと閉じた。

「貴方と私の剣に差があるとしたら、それは家柄や才能ではない」

 琳太郎は立ち上がり、清兵衛たちの方を向いた。

「大切な友達がいるかどうか。きっと、それが大きな差だったのだ」




 棗紋次郎は幼い頃より文武共に優秀であった。兄よりも全てにおいて優っているのに、生まれてきたのが1番目ではなかったというだけで家督を継げない。

 通っていた学び舎でも、勉強もせずに遊び呆け、出された宿題を自分で解くこともせずに紋次郎のやってきた宿題を写すだけのやつが、クラスの中心であったり、大人たちに気に入られたりする。そんな環境に紋次郎は疑問と憤りを抱いていた。

 いつものように、自分の宿題を写しにこようとした奴に間違えた答えを書いた宿題を見せた。結果、そいつは間違えた答えを皆の前で自信満々に発表し、先生に間違いを指摘され赤面していた。

 人を陥れることの快感。その経験が紋次郎を歪め始めた。

 秋月光陰流の道場に通い、準師範代まで昇りつめた紋次郎は、この場所でやっと1番になれると思った。取り巻きたちも増え、まるで道場主のように振る舞うようになった。

 ある日のこと、紋次郎は琳太郎と御前試合をすることになった。通常、御前試合は他流派の者と行うことが多いが、秋月光陰流は将軍家御指南役ゆえ、同門の準師範代同士で御前試合を行うことがある。

 秋月琳太郎。紋次郎は彼にはシンパシーを感じていた。それは同じ次男であると同時に、琳太郎は兄の大治郎よりも剣の腕は優れている。それなのに次男だからという理由で彼は秋月家の当主にはなれない。

 そんな琳太郎と共に、今の世の中を変えたいと思った。彼の剣の腕は確かだが、自分には及ぶまいと紋次郎は見積もっていた。

 御前試合、当日。一瞬だった。琳太郎の持っていた竹刀の剣先が紋次郎の眉間に触れるか触れないかの距離にあった。

やはり生まれた環境で全てが決まってしまうのだろう。不貞腐れていた紋次郎は酒を浴びるように飲んだ夜の帰り道、道場から空を切る音が聞こえた。

ひょいと覗くと、琳太郎が一心不乱に竹刀を振っていた。誰も見ていない時間と場所で。

自分が酒に溺れ、取り巻き達に管を巻いている間も琳太郎は御前試合での勝利に酔いしれずに剣と向き合っている。環境が実力を育むことは間違いない。だが、その環境を生み出す努力を怠ったのは自分自身だった。

しかし紋次郎の肥大化し歪んだ自尊心は自分の努力不足を否定した。道場での振る舞いも益々横暴になり、美空を始めとする門下生数名から紋次郎を準師範代から外して欲しいという署名があがった程だ。

紋次郎の処分を決める前に当主の拓馬が病に倒れた。紋次郎は、秋月家の次期当主になる為に狡猾に立ち回り表面上は拓馬の体を気遣う素振りを見せた。その振る舞いで門下生たちは紋次郎がこれまでの態度を反省したのだろうと結論づけた。

そして知った秋月家の秘密。伊予藩主、清川丑蔵との結託。秋月光陰流を破るための技の開発。

紋次郎の行動力は凄まじかった。しかし、最後の最期で彼の計画は瓦解した。御全試合以来の琳太郎との立ち合い。死ぬ間際で光陰流の奥義、鏡花水月の正体がわかった。

 決して1番にはなれなかった。生まれた順番は変えられない。ならば、せめて何かで1番になりたかった。誰かに認めて欲しかった。

 地面の冷たさすら感じなくなる間際、琳太郎の声が聞こえた。話している全ては聞き取れない。だが『友達』という言葉だけはわかった。

 友達。

そうだった。紋次郎は琳太郎と友達になりたかったのだ。今にしてわかった。無駄な意地など張らず、相手のすべてを受け入れ、くだらないことで盛り上がる。学び舎で見下していた者たちも、ただ一緒にいるだけで楽しそうだった。それが羨ましかった。

生まれ変われることがあれば、今度はどうか素直な人間になれますように。そう願い、紋次郎の命の灯火は静かに消えていった。



 夜。伊予藩邸は多くの役人たちに取り囲まれていた。役人たちの持つ提灯で、空から見ると伊予藩邸は光の中に浮かんでいるようだった。

「殿!屋敷は取り囲まれ、鼠一匹逃げ出すことが叶いません」

(こなくそ!何故このような事に… さては紋次郎め。しくじったか)

 秋月の書を手に入れるため、丑蔵は密かに巽町へ引き入れた浪人たちを紋次郎のもとへ向かわせた。秋月琳太郎に浪人共を何人斬られようが秋月の書さえ手に入れることができれば、こちらの勝ちである。そう算段をつけていた。

 しかし、現状は丑蔵が全く想定していないものだった。

「殿!役人共が殿を出せと。出てこなければ強硬に踏み込むと言っております」

「…よかろう。私が捕らわれる謂れは無い。寝巻では失礼だな。着替えるゆえ、もう少々お待ちいただけ」

「承知いたしまた」

 家臣が廊下を走る音が遠ざかっていくのを確かめ、丑蔵は部屋にある掛け軸に近づいた。周囲に誰もいない事を確認し、掛け軸を捲り、後ろの壁のへこみに手をかけ、羽目板を外した。外した羽目板の先は長く狭い通路が続いている。

「こんなところで捕まってたまるか」

 隠し通路に入る、慎重に羽目板を付け直すと、丑蔵は体を闇に預けた。壁伝いにゆっくりと歩く。突き出した丑蔵の腹が通路の壁をこする。窮屈な思いをするのも僅かな時間だ。行き止まった場所の頭上にある蓋を外せば外に出られる。後はその場所で待機させている忍の者たちに逃走経路を準備させれば良い。

 頭の中で今後の計画を考えながら歩いていると、行き止まりに当たった。丑蔵は頭上にある石に似せた蓋を押し上げる。

 ゴトリと蓋を地面に置いた音が響く。外に出た。月の明かりが、この上なく眩しく感じる。冷たい夜風が丑蔵の息苦しさを開放させた。

「おい。私だ」

 丑蔵の声に反応する者はいない。決して大きな声ではないが、忍たちは耳を始めとした五感を鍛えているので、丑蔵の声に気づかない筈がない。

「どうした!早く出てこい」

「悪いな。雇った忍たちは不慮の事故により、お休みするそうだ」

 丑蔵の前に現れたのは篝だった。

「な…貴様は」

「どうも。その節はお世話になりました」

「何故、貴様が。いや、それよりもどうして貴様が忍たちのことを…」

「だから言ったでしょう。不慮の事故に遭ったと」

「バカな!我が配下の忍たちはどんな罠も掻い潜る手練ればかりだ。事故にぞ遭うなどあり得ん」

「赤い蜘蛛の巣に引っかかってしまったのでしょう。可哀相に」

「貴様、さっきから何を言っている!えぇい、今はコソ泥に構っている暇などないわ」

 丑蔵は篝に背を向け、駆け出した。

「あぁ、お気をつけください。ここにはまだ赤蜘蛛の糸が…」

 篝の声は最早、丑蔵には届かない。彼の首と胴は既に別れを告げていた。

「赤蜘蛛の糸が巣を張っているのですから」




「伊予藩主の清川丑蔵は藩邸から逃走を図りました。しかし、藩邸より程近い森の中で首を切られた清川の遺体を発見したとのことです」

「そうか。わかった。報告ご苦労」

 従者は失礼しますと告げその場を去った。報告を受けた巽町奉行、田沼喜一はしばし目を瞑ったまま、天井を仰いだ。

「篝、いるのであろう」

 眼を闇に預けたまま、田沼は呟くように言った。掛け軸をめくり、篝が姿を現した。

「流石は旦那。鼻が利きますね」

「臆病者だからな」

「成程」

「清川も同類さ。だが、まぁ…まさか隠し通路の作りまで同じとはな」

敵襲に備えて、どの藩邸や奉行所にも抜け道は作ってある。丑蔵は今回、それを逃走に使った。

「旦那の予想が見事に的中したという訳ですね」

「…あぁ」

 喜一は傍にある作業台の引き出しから、小袋を取り出した。ジャラジャラと音を奏でて篝の手に渡された。

「今回の報酬だ」

「毎度。しかし、旦那。やっぱりあんたにはこの仕事は向いてないんじゃないかい?」

「そうかもな。だが、我が師、秋月石舟斎様の遺志だ。死ぬまでやり遂げてみせるさ」

 秋月石舟斎がまだ将軍家御指南役になったばかりの頃、田沼喜一は初代将軍、徳川葵の暗殺を狙う刺客の一人に過ぎなかった。葵の首を狙った際に、護衛を務めていた石舟斎に討たれた。

 幼い頃に両親を喪い、暴力の世界に身を投じた喜一は自分の命など顧みなかった。だが、石舟斎に救われた。どうせ手を汚すなら、これからの世の中の平和の為に自分と共に汚さないかと言われ、彼の下で剣術を学んだ。

 かつての自分と同じように、徳川を狙う者を返り討ちにすることもあれば、命令で徳川に敵対する者の命を刈り取ったりもした。

 多くの屍と怨嗟の上で成り立った徳川の天下も永遠ではない。平和を築く為に人の命を奪うことは矛盾している。だが、人間に闘争本能がある以上、話し合いだけでは解決できないこともある。暴力をねじ伏せる為に自分の武力を使うと葵と石舟斎は言った。

 徳川家の正義が絶対なのか、喜一にはわからなかった。だが、葵の天下を視る眼と石舟斎の剣で平和を切り拓こうとする心意気に、無味乾燥であった自分の心に火が灯った。そして徳川家が幕府を開き、その地位を盤石にした頃、喜一は幕府の影の部分を背負うことを決めた。

石舟斎は反対した。喜一のような若者にこそ、光の部分を背負って欲しいと言われた。石舟斎のその言葉だけで充分だった。石舟斎に貰った命だ。自分が汚れることで守れる命や世界があるのなら、喜んでその役目を引き受けたいと言葉にすると、石舟斎も解ってくれた。

「旦那は汚れ仕事を請け負うには優しすぎるんだよ。いつか私みたいな悪党に寝首をかかれちゃうよ」

「初めから温かい布団の上で死ねるとは思っていないさ。それにお前のような女に殺されるのも悪くない」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「弟分を助ける為に自らを犠牲にした女だからな」

 かつて豪商の家に忍び込んだ時、篝は喜一に捕まった。その時に自分の命を差し出す代わりに清兵衛を始めとする子分たちは助けて欲しいと願った。

 篝や清兵衛の眼はかつての自分と同じだった。自身の悲しみや怒りを暴力に変換するしかなかった日々。彼らのような人間を救うことも喜一の生きる意味の一つだった。頭目の篝を無罪放免にする訳にはいかない。彼女自身、悪党として生きることを辞めるつもりはないとハッキリいった。なので、表向きは清兵衛たちを置いて逃げたことにした。各国を廻り徳川に弓を引く者、天下の平和を乱そうと画策する者たちの動向の調査、暗殺を実行する者として喜一に雇われたのだ。

「…口の軽い男は嫌われるよ」

「ははは。そうか。気を付けよう」

「次に余計なことを言ったら、その唇を切り落とすからね」

「おいおい。私は仮にも雇い主だぞ」

「そうね。じゃあ縫い付けるぐらいで勘弁してあげる」

「お手柔らかに頼むよ。それで次の仕事なのだが…」

 伊予藩主の清川の怪しい動向を報告し、江戸への参勤に合わせ喜一の命で巽町へやって来た。

 清兵衛に会う気はなかった。だが、聞いてもいないのに喜一はしょっちゅう清兵衛のことを世間話をするように篝に報告をする。

 清兵衛と一緒に悪党への道を突き進みたいと思ったこともあった。しかし彼は真っすぐすぎる。自分とは違う。喜一に捕まった時に、ここが清兵衛が進んだ悪党の道の終着点にしなければいけないと篝は強く思った。

 今では巽町を守る、立派な助人屋。そんな彼の成長が嬉しくもあり、一抹の寂しさも感じた。

 篝が悪党として生きることを辞めることはない。いつか、この命は正義を名乗る者に討たれるだろう。同じことであれば、かつての弟分の清兵衛に討たれたい。彼も自分が悪党である限り、助人屋を辞めることもないだろう。

 とは言え、自分にも悪党の矜持がある。そう簡単に捕まる訳にはいかない。清兵衛が自分を捕まえられる程に成長するまで、赤蜘蛛の篝は明日も悪の糸を張り巡らすのだった。

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