幕間
一
包丁は食材を切り、人々の腹を満たす食事を生み出すことができる。同時に簡単に人を殺めることもできる。どんな道具も技術も使う者の心一つ。
刀も剣術も同じだ。己のためだけに使うな。大切な者を守る為に使え。
それが祖父の秋月石舟斎の口癖だった。初代統将軍、徳川葵に仕え、彼の覇道を支えた功績から秋月家は将軍家の剣術御指南役に任命され、富と名声を得た。
だが、石舟斎にその事について話すと、いつも寂しそうな色を眼に浮かべ、口癖である言葉を孫である自分へと告げた。
15歳になる時、石舟斎は亡くなった。当然のように父の拓馬が秋月家を継ぎ、当主となったぐらいで自分を取り巻く環境は大きくは変わらなかった。幼い頃から木刀を振り、竹刀を使って立ち合い、模造刀で居合の型稽古をする。
剣術の稽古が終われば、絵を描く。部屋に籠りひたすら自分の心を吐き出すような絵を描くこともあれば、山や川に出かけ自然の風景を描くこともあった。
充実した日々。剣術の稽古も絵を描くことも大好きだ。
18歳になる時、道場に通う若い門下生に剣を教えるようにもなった。柊美空が光陰流の門を叩いたのもその頃だった。
秋月道場は入門を望む者は老若男女を問わない。とは言え全員が同じ場所で稽古をするのではなく、父の拓馬や兄の大治郎が入門希望者の実力を見てクラスを分ける。実力が上がれば、より上のクラスに行ける。逆に力が無い者や怠け者は老人や子どもと共に稽古をすることもザラだ。
美空が生まれた柊家は多くの武功を挙げた侍の一家だ。生まれた頃から武芸が身近にあったのだろう。美空は入門してからすぐに上級者のクラスへと入り、道場でも指折りでも実力者へと成長していった。
しかし、美空が頭角を現せば現すほど、周囲の者たちは「女の癖に」と彼女を蔑んだ。試合に負けても、本気ではなかったと言い訳するばかり。
負けて悔しい気持ちはわかるが、女も男もない。剣は強い者が勝ち、弱い者が負ける。それだけだ。
美空はそんな状況など、どこ吹く風だった。誰と言葉を交わすこともなく淡々と剣の腕を磨いている。入門時に立ち会った父は彼女の剣を氷のように美しく冴えわたっているが、悲しい剣だと評していた。
常に無表情の美空が悲しんでいるのか、彼女に負けた連中が女だからと彼女の剣を蔑む理由も剣術をやっていて楽しいとしか感じたことのない自分にはわからない。だが、せっかく学ぶのであれば楽しんでもらいたい。我ながら単純でバカみたいな理由だが、心が訴える声に耳を塞ぐことはできなかった。
父に美空との立ち合いを願った。初めは驚いていたが、美空に剣術を楽しんで貰いたいと告げると笑いながら、立ち合いの場を設けてくれた。
向かい合う。互いに木刀は直に構えていた。
父が評していていた通り美空から立ち上る剣気は氷のように冴えわたり冷たかった。
静寂。美空が放つ剣気が周囲の時空すら氷らせたようだった。
こちらも剣気を放つ。右足を前に出し、体を開く。剣は右へと傾けた。切っ先は相手に向けたままだ。
強い。間違いなく美空は強い。父や兄と立ち会った時と同じくらいの威圧感。だが、こちらの血肉や魂が湧き上がる高揚感は無い。
勝たなければいけない。理由はわからない。ただそう思った。
二
吸い込まれそうな剣気だ。
目の前にいるのは、秋月光陰流の現師範、秋月拓馬の次男である秋月琳太郎。理由はわからないが彼が自分と立ち合いを望んでいると師範に言われた。琳太郎は兄の秋月大治郎をも凌ぐと言われているほどの剣客だ。普段は門下生に稽古をつけているだけで、真の実力の程はわからない。琳太郎は自分の力を誇示するような人間でもないのだ。
そんな彼が何故私との立ち合いを望んだのか。考えたくはないが、これまで通ってきた道場と同じように、女である自分を晒し者にしようとしているのかもしれない。
物心ついた時から父に武道を教えてもらった。母も反対はしなかった。初めは女性だけの道場に通っていた。そこでは時間をかけずに一番になれた。慕ってくれる者も多かったが、それ以上に一番上に立つ私のことが気に入らずに、嫌がらせを受けてきた。首謀者と協力者たちを完膚なきまでに叩きのめし、その道場は辞めた。
女は自分より目立つ者を許さない。そう思っていたが、どうやら男でもその考えは同じらしい。寧ろ侍の家で生まれた男の自尊心は人一倍強く、自尊心に比例して嫉妬心というものも強い。更に男尊女卑の考えが未だに垢のようにこびりついている連中ばかりだった。自分よりも剣の腕が立つ女の存在など認めたくないのだろう。
老若男女を受け入れる道場だが、天下の秋月光陰流の門下生でもそれは変わらなかった。
所詮、剣の道というのはこの程度のものなのだろうか。秋月琳太郎もこれまで立ち合い、打ち負かしてきた男どもと同じような考えであれば、容赦なく倒す。そして、もう二度と剣は握らない。
しかし、目の前に立つ男の放つ剣気は自分を見下すものではなかった。こちらが放つ剣気、怒気、殺気、すべてを受け止めて包み込むと語りかけてくる。こんなにも優しく恐ろしい剣客と私は立ち会っているのか。
秋月琳太郎から水面に映る月のような引力を感じた。息を吸う。吸い込んだ空気を全身に張り巡らせる。木刀を頭上へ構えた。息を止めた瞬間、腰から全身へ力を走らせる。手へと伝わった力は木刀を握り締め、全身全霊を秋月琳太郎から発生する引力に従うまま木刀を振り下ろした。
一瞬だった。木刀のぶつかり合う音が短く響く。その響きと同時に私の握った木刀は打つべき相手を見失かったかのように宙に止まっていた。
何が起きたのか、わからなかった。真っ白になった自分の頭に少しずつ起きた出来事の輪郭が浮かんでくる。
秋月琳太郎は放たれた攻撃が自ら構える木刀の切っ先に近づいたその瞬間に右腰を入れ、剣をほとんど動かさずに自分の木刀を逸らしたのだ。
一切、無駄のない動き。こちらは攻撃を逸らされ体勢を崩されたのに、秋月琳太郎の重心はほとんど動いていない。呆然とする私から目を離さずに残心を示した後、彼は一礼をして去っていった。
三
最近、剣術の在り方について考えることが増えた気がする。
立ち合いの後から美空を包む空気は柔らかくなった。門下生ともよく話すようになってきている。話しかけられた方も初めは緊張していたが、今では多くの者たちが美空を慕っている。
そして、美空自身、私を慕ってくれている。やめて欲しいと言っているのだが、私のことを琳太郎様と呼ぶ。
家族や門下生、そして美空と過ごす日々は穏やかで充実していた。いつまでも、このような日々が続けばいいと思った。
だが、季節が必ず巡るように人を取り巻く環境も変化が訪れる。父の拓馬が病に倒れた。今日明日に死ぬという病ではないが、完治する方法もないらしい。父は長く苦しい戦いに身を投じることになった。
道場は主に師範代である兄の大治郎が取り仕切ることになった。そして、準師範代である私と美空、そして棗紋次郎が門下生の指南をしている。
棗紋次郎は有名な侍の家の次男坊だ。豪商との繋がりも太く、とにかく羽振りが良い。彼に従う門下生も多く、秋月光陰流の中に一大派閥を作り上げていた。
一方で、剣の教え方は人を見下すような言葉を使い、あからさまに女性の門下生には、剣とは男が扱うもの。女が遊び半分で学ぶべきではないとハッキリと言っている。
美空を初めてとする女性陣には、このうえなく嫌われており、紋次郎の指南が嫌で辞めていった門下生も多い。確かに紋次郎の教え方は横柄で横暴だ。それでも彼自身の剣術は相当なものだ。人間としては私も好きにはなれないが、剣に対するひたむきさは尊敬すら覚える。
父が病に倒れてから、秋月光陰流の後継者は誰になるのかという話が頻繁に出てくるようになった。そして、その頃から紋次郎は剣術の指南よりも稽古終わりに門下生たちを花街へ連れていくことに勤しんでいた。
他の流派では、宗家の血筋の者が当主や師範になることが多い。その理屈で言えば、秋月光陰流の次期当主は兄の大治郎になり、次期師範は私ということになる。だが、秋月光陰流は次期当主や師範は試合と門下生からの投票で決まる。これまで秋月家の宗家の血筋が当主や師範になれたのは、まだ歴史が浅い事もあるが、純粋に剣の実力と門下生からの信頼があったからにすぎない。
紋次郎が門下生たちを花街に頻繁に連れていくのは、次期当主の座を狙っているからだと美空は私に告げた。そして、彼女は私に秋月光陰流を継いで欲しいとも言った。美空の眼は真剣だった。本気で私に当主になって欲しいのだろう。私が当主になった暁には、師範へとなりたい訳でもないと言った。
紋次郎が次期当主になるための根回しをしているのだろうということは私にも察しがついていた。美空が私を次期当主に推す理由の1つには紋次郎が当主になることだけは阻止したい気持ちもあるのだろう。
剣術を己のために使うな。大切な者を守るために使え。尊敬する祖父の言葉を信じて剣を学んできた。しかし、自分を取り巻く剣術の環境は、誰もが自分のためだけに動いているように私の眼には映る。
剣術は好きだ。それ以上に祖父が言っていた剣術の在るべき姿に惚れ込み、いつか自分が大切だと思う者のために剣の道を進み、極めるのだと、今日まで邁進してきたのだ。
秋月光陰流を己の名声のためだけに、手に入れようとする紋次郎やそれに反発する美空の行動を目の当りにして、最早ここには居られない。いや、いたくはないと思った。絵師として生きていくと父に告げた時、兄と共に秋月光陰流の秘密も知った。どれだけ理想を描いても、剣を握る人生は血で彩られた絵画なのだと思い知った。それでも祖父は、剣術は自分の大切な者を守るために存在するという気持ちを信じ続けていたのだろう。父も同じ想いのはずだ。
自分は剣の道から逃げることになる。だが、大好きな家族が背負った業からは逃げずにいようと決めた。
秋月の家から去る日、見上げた空は描けそうにないほどに青く澄んでいた。