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絶刀・鏡花水月  作者: さのだいき
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四章

「今日で3日目… やっぱり考え過ぎだったかな」

清兵衛は伊予藩邸を見張っている。先日、秋水を狙った男たちの1人が「こなくそ!」と叫んでいた。アレは伊予国の方言だったはずだ。出身が伊予であるだけかもしれないので、藩との関係はわからない。だが、伊予藩主の清川丑蔵が江戸への参勤のために巽町の藩邸へやってきたのはつい先日のことだ。確証は無い。取り越し苦労であればそれで良いと思い、清兵衛は伊予藩邸の見張りを続けている。

「夜も更けてきた…帰るか」

 冷たい夜風に体の熱が奪われていく。清兵衛は組んだ腕をさすりながら帰ろうとした。

その時だった。藩邸からジャーンジャーンと半鐘が鳴り響き、人の叫び声も重なった。

「盗人だ!であえ!であえ!」

藩邸から侍たちが続々と出てきた。益々、この藩はクサいと思いつつ、清兵衛は助人屋として盗人の捕縛へ乗り出した。

「お忙しいところ失礼!盗人が現れたとのこと。微力ながら、助人屋の宗像清兵衛がお力に」

「助人屋?何だそれは。今は忙しいのだ。邪魔をするな!」

助人屋は人口の多い江戸にしかない職業だ。伊予から来た侍たちがその存在を知る筈もなかった。

「おい。協力を申し出てくれた方にそのような口の利き方をするな」

「な、棗様」

 侍たちを一喝したのは若いが物腰の落ち着いた剣客だった。

「失礼。何分、田舎者ゆえ助人屋の存在自体を知らぬ者たち故、ご容赦いただきたい」

「いえ、こちらこそ出過ぎたマネを」

 礼儀正しく振る舞う目の前の剣客から蛇のような不気味さを感じた。腕も相当なものだろう。おまけに血の匂いがする。清兵衛の背中に冷や汗が流れた。

「盗人が現れたとか」

「えぇ。侍女として藩邸へ潜り込んでいましてね。しかし見つかるのも時間の問題でしょう」

「と、言うと?」

「私が斬りました。命までは取れませんでしたが、浅くない傷です。遠くへは逃げられないでしょう」

「…左様ですか」

「はい。なので助人屋さんのお手を煩わせることもありません。我が藩邸で起きたことです。けじめは我々でつけます」

「そうですか。わかりました。また事件が起きた時は遠慮なく。仮にもこの町の助人屋なので」

「えぇ。その時にはよろしく」

 侍たちに指示を出し、その男は藩邸へと去っていった。

「あっ、すみません。ちょっといいですか?」

「はい?」

提灯を片手に盗人の捜索へ乗り出した侍の1人に清兵衛は話しかけた。

「先ほどのお方、伊予では有名な剣客なのですか?」

「あぁ、棗様は出身は伊予ですが江戸にお住まいの方ですよ。今回の参勤にあたり藩主滞在中に我々に剣術の稽古をつけてくださっています」

「そうですか。流派はどちらで?」

「光陰流ですよ」

「なるほど…ありがとうございます。お勤め、頑張ってください」

「はい。どうも」

 見るからに人の好さそうな侍は仲間たちの後を追っていった。

 伊予出身の光陰流の遣い手。気になる存在ではあるが、清兵衛はそれよりも侍女として藩邸に潜り込んでいたという盗人のことを考えていた。

「あいつが仕事をしくじるとは思えないが…」

 冷たい夜風は先ほどよりも勢いを増している中、清兵衛は走り出した。




 琳太郎はは巽町でも比較的大きな長屋の部屋で絵師、秋水として暮らしている。部屋の中は画材の匂いで満たされていた。その部屋で琳太郎と美空は向かい合っている。

「なるほど。秋月の書が盗まれてしまったのか」

「はい。大治郎様の部屋に保管していた物が盗み出されました」

「父上はこの事はご存知なのか?」

「いえ、大治郎様が秋月家に伝わる大切な巻物が盗まれたことを師範が知れば、心労で病気が悪化してしまうだろうからと」

 先日の一件で秋水と気まずくなってしまった美空だがリップと菫の助力のもと、秋水に謝罪に行った。最も秋水も叱りはしたが美空を嫌った訳ではなかったので、今では問題なく話せている。そして、美空は秋水…琳太郎を探しに来た本来の目的を話すため彼の下へ訪れた。

「なるほど。兄上のご判断は懸命だな。それで、この役目を受けたのは美空だけなのか?」

「いえ、私と…棗殿です」

「そうか。棗殿も…」

 棗紋次郎は秋月光陰流本家の道場で現在3本の指に入るほどの腕前だ。美空と共に準師範代を務めている。伊予の名家の次男である彼は少々傲慢な性格であり、道場でも派閥を作り、まるで次期師範は自分であるという振る舞いをしていた。美空はそういう紋次郎の態度を露骨に嫌っているため、今回役目を仰せつかったとは言え、行動を共にしていないであろうことは察しがついている。

「すまん。苦労をかけるな」

「いえ、私は琳太郎様のためであれば…あ、いや秋月家のためであれば!」

 美空が巽町へやって来た本来の目的は琳太郎に秋月家で起きた事件について知らせることだったが、彼に秋月光陰流の師範になって欲しいという想いは嘘偽りない気持ちだった。彼の優しさに触れ、その気持ちはより一層高まるばかりであった。

「それで?兄上からは他に何か言伝は預かっていないのか」

「はい。琳太郎様にこの事を伝えるようにとだけ」

「そうか。ところで美空。お前は今回盗まれた秋月の書についてはどの程度知っている?」

「はっ。秋月光陰流の技の全て、そして奥義である鏡花水月が書かれた武芸帳で師範のみが所持と閲覧を許されていると伺っております」

「そうだ。そして現師範が次の師範に相応しいと思ったものに秋月の書と奥義、鏡花水月が授けられる」

 美空が秋月の書が二巻の巻物であることは知らないようだ。そうであれば琳太郎がもう1つの巻物を持っていることも当然知らないだろう。

琳太郎は秋月の書に隠された秘密を知る者に万が一でもその情報を知られないために兄が手紙ではなく、美空や紋次郎に直接自分に今回の事件を伝えに来させたのだとわかった。

「話は良くわかった。私も近い内に一度実家へ戻ろう。美空。今日はもう遅いから泊っていきなさい」

「はい。…え?」

 美空は琳太郎からの言葉につい返事をしたが、彼の言葉を改めて頭で再生すると、つい間抜けな声を出してしまった。

「え?いや琳太郎様。今何と?」

「ん?お前も疲れているだろうし、今から宿屋へ戻るのも辛いと思ったのだが」

「そんな!お気遣いなく…いえ、そうですね。確かに今日は特に疲れているのでお言葉に甘えて…」

 理性と恋心の戦いは一瞬にして恋心が勝利を収めた。一度、湯屋へ行ったほうが良いだろうかと美空は様々な考えを巡らしていた。

「そうか。では隣の部屋が空いているからそこで寝なさい。大家へは私から話を通しておく」

「…はい。ありがとうございます」

 美空の思い描いた幸せな未来が音を立てて崩れた。気恥ずかしさやほんの少しの怒りに染まった表情で琳太郎を見て、部屋を去っていった。

 琳太郎は美空のあんな表情を初めて見た。そして初めて彼女に恐怖を感じたのだった。



 肺が凍りそうだ。篝は息を整えながらそう思った。仕事を失敗したのは久しぶりだった。侍女として伊予藩邸へ入り、折を見て秋月の書の1つ『鏡花の巻』を盗み出す。途中までは上手くいってのだが、藩主の懐刀である棗紋次郎に見つかってしまった。いや、見つかったというよりは初めから篝が巻物を盗むのをわかっていたとしか思えない。それほど紋次郎の行動には無駄がなかった。おまけに剣の腕も相当なもので、左腕を斬られてしまった。止血はしたが、逃げる間に血を流しすぎた。裏路地に身を潜めているが見つかるのも時間の問題だろう。

「赤蜘蛛の篝も年貢の納め時か…」

 自嘲しながら空を見上げた。憎たらしいほどに月が輝いていた。自分の居場所を侍共に知らせているのではないかと思えるほどだ。

「見つかったか?」

「いや、まだだ。裏路地も徹底的に探せ!」

 侍たちの声が聞こえる。ただで捕まるのはゴメンだ。せめて1人か2人は首を飛ばしてやろう。篝は糸を用意し構えた。

 侍たちの動向を裏路地から探っていると急に口を塞がれた。腕も関節を極められ動かせない。自分の動きを封じた相手を確認する間もなく篝は暗闇へ連れ込まれた。

 先ほどまで自分がいた場所から侍たちの声が聞こえた。もう少し遅ければ見つかってしまっただろう。侍たちの声と足音が遠ざかり、あたりが静寂に包まれてから篝はようやく口を開いた。

「…どういう風の吹き回しかしら」

 篝が連れ込まれたのはカビのにおいのする空き家だった。暗い部屋に月の光が差し込み目の前にいる清兵衛の姿を浮かび出した。

「怪我をした女が目の前にいたからな。助人屋として助けるのは当然だろう」

「相変わらず嘘が下手ね」

 清兵衛は篝に関節技をかけた。それは糸の動きを封じるためだ。人を助けるのにそんな事はしないだろう。

「何で私を助けたの?かつて貴方を置いて逃げた悪女を」

「そんな昔のことは忘れたよ」

「あらそう。じゃあ本当に善意で助けたのかしら」

「聞きたいことがある」

 清兵衛が目を鋭くして篝に訊いた。

「伊予藩邸から何を盗もうとした?」

「あら、そこまで掴んでるの。でも残念。盗賊が自分の目的をそう簡単に喋る訳ないでしょう」

「そうか。じゃあコレは何の関係も無いんだな」

 そう言って清兵衛が懐から巻物を取り出した。篝は目を開き自分の着物の中を探った。

「…手癖が悪いわね」

「誰かさんに鍛えられたからな」

 清兵衛がバラガキと呼ばれていた頃、篝からスリの技術を教わっていた。

「やれやれ。教え子にスラれるとは。本当に年貢の納め時なのかしら」

「聞かせて貰おうか。お前が狙ったこの巻物が何かを」

 しばし沈黙の時間が流れた。篝は目を瞑り観念したように一息つき話し始めた。

「秋月の書よ」

「秋月の書?」

「そう。鏡花の巻と水月の巻、二巻からなる秋月光陰流の技の全てと奥義が記された武芸帳。表向きはね」

「どういうことだ」

「秋月の書の実態は初代将軍の徳川葵が秋月家に遂行させた暗殺指令書なの」

「……」

「幕府が成立した頃、徳川に反感を抱く者は少なくなかった。武家や町人は勿論、皇族さえね。徳川に縁にある者もかなりの数が暗殺されたらしいわ」

「ありえなくは無い話だな」

「えぇ。そして業を煮やした徳川葵は自身の剣術指南役であった秋月石舟斎に反乱分子の暗殺を命じたって訳」

「成程な。そうして政敵を葬った徳川家の権威は盤石になり、秋月家も将軍家御指南役という役目を賜った」

「そんなところね。この秋月の書の存在が公になれば幕府は滅びるとさえ言われている」

「幕府にとっては最悪の極秘文書って訳か。で?何でお前がそんなモノを狙った?」

「悪いけどそれは言えないわね」

「死んでもか?」

 刀を抜き篝へと向けた。清兵衛の眼は殺気を宿し篝を見ていた。

「悪党にも悪党の矜持ってモノがあってね」

 眼を逸らさずに篝は言った。その眼を見た清兵衛は何をしてもこれ以上の情報は引き出せないだろうと悟った。何故秋月の書についての秘密を篝が知っているのかも問い詰めても無駄だろう。裏社会の情報網というのは、複雑であり発生源を探すのは砂漠で一粒の石を探し出すようなものだ。

「わかった。だが、この巻物は預かっておく」

「私を奉行所に突き出さないのかい?」

「あぁ。御上が絡むと俺が知りたいことが知れない気がしてな」

 そう言うと清兵衛は持っていた袋を篝の前へ投げた。

「何だい?これは」

「包帯や薬が一式入ってる。手当が終わったら、さっさとこの町から出ていきな」

篝が目をぱちくりさせている間に清兵衛は去っていった。

「全く、相変わらず甘い男だ」

 暗い部屋に篝の笑い声が響いていた。




 琳太郎は美空が去った後、父の拓馬から託された『水月の巻』を目の前に置き、実家での出来事を思い返していた。

 絵師として生きていく。その事を告げた時、病気の父はしばらく目を瞑り、重い口を開いた。

「わかった。ただし条件がある。明日、大治郎と共にわしの部屋へ来てくれ」

 そう告げられた翌日、兄の大治郎と共に父の部屋へ訪れ、秋月の書にまつわる話を聞かされた。

「これが秋月家に伝わる秘密…いや罪と言った方が良いかな。わしも父から聞いた時には度肝を抜かれた。秋月の剣が血に塗れ、多くの屍の上に成り立っていたのだからな」

 大治郎は大きな眼を更に見開いていた。隣にいる琳太郎もあまりの事実に頭の中が混乱していた。

「代々、秋月の書は当主の子ども2人が一巻ずつ所持する決まりとなっている。だがお主らも知っての通り、わしの弟は病で亡くなった。だから今、わしの手元に秋月の書が二巻ある」

 琳太郎と大治郎の叔父は2人がまだ子どもの頃に亡くなっている。本来であれば自分たちが跡を継ぐ年齢と剣の技術が相応しい域に達した時に叔父の元から当主の父の元へ巻物が渡り、この話をすることになっていたのだろう。

「琳太郎」

 拓馬は静かに、しかし力のある響く声で琳太郎を呼んだ。

「お主の人生だ。父としては好きに生きて欲しい。だが、秋月家の当主としてこの話をせずに送り出すことはできなかった」

「父上!では私にだけにこの話を告げたら宜しかったのでは!?」

 大治郎が叫ぶように言った。豪放磊落だが誰よりも他人を視て、他人のために動ける。そんな大治郎のことが琳太郎は好きなのだ。家の秘密を告げられて驚きはしたものの、こうやって弟のことを気遣ってくれる。

「そうだな。だがな大治郎。秋月の書は鏡花の巻、水月の巻の2つが揃って初めて秋月家が過去に行った暗殺の全貌がわかる仕組みになっておる。つまりお前が二巻とも持っていると…」

「万が一、盗まれた時に徳川と秋月の秘密が一気に世に知れ渡ってしまう」

「うむ。だからこそ巻物は一巻ずつ別の者が所持する必要があるのだ」

 琳太郎の推察に拓馬は肯いた。大治郎も何故兄弟で2つの巻物を所持しなければいけないのかを理解はしたが、納得はしていない様子だった。

「このような物はさっさと燃やしてこの世から消してしまえば良いのかもしれん。だが、そうなると上様は我々を消すかもしれん」

「え?何故でございます?寧ろ所持を続けている方が危ないと思うのですが」

「…琳太郎はわかるか?」

「はい。何となくは」

 大治郎は良くも悪くも物事を複雑に考える事が出来ない。なので秋月の書が未だに残り続ける理由がわからないのだろう。

 一方で琳太郎が朧気ながら、その理由がわかった。推測になるが、謂わば秋月の書は徳川家と秋月家の共犯の証明書だ。徳川家は秋月家に命じた暗殺の事実を公表させない為に将軍家御指南役という地位と名誉を与えた。秋月家にしても暗殺の事実を公表すれば自分たちが失墜するだけだ。仮に徳川家が暗殺が公表される事を恐れ秋月家を改易などすれば死なば諸共と秋月の書の存在を世に出すかもしれない。暗殺という手段もあるが、徳川家の支援があったとは言え、秋月家の者たちの剣の腕は本物だ。簡単に暗殺などできる筈もない。暗殺にかけるリスクとコストを考えれば互いに今の関係を未来永劫保つ方が良いと考えるだろう。

「青臭いかもしれんが、わしは徳川家と秋月家は仁義で結ばれた絆があると思いたいがの」

 琳太郎の考えた推測を見透かしたように拓馬は告げた。この世の中は綺麗ごとだけではない。人の上に立てば立つほど汚れ仕事を引き受ける覚悟も必要なのだろう。それでも人間同士の打算のない清廉な繋がりを父は信じているのだと琳太郎は思った。

「かしこまりました。父上。秋月琳太郎、光陰流の家に生まれた者として秋月の書、守り通してみせまする」

「そうか。ありがとう。琳太郎。大治郎はどうだ?」

「私も引き受けます。ですが父上、1つだけ伺いたい」

「何だ?」

「この秋月の書に隠された秘密は分かりました。しかし光陰流の技の全てと奥義が書かれていることも真でございますよね?」

 確かに秋月の書とは表向き、光陰流の武芸帳となっている。稽古生には口伝で技を教えているが、剣術の流派として技を書き記した武芸帳が存在し無いとは考えられないので、中身を見ていないが目の前の巻物にはそれが書かれているのは間違いないと琳太郎も考えている。

「そうだな。確かにこれには光陰流の全てが書かれている。先ほど言った通り暗殺の全貌は二巻揃って初めてわかるが、一巻ずつ見れば本当にただの武芸帳だ」

 と言っても誰にでも見せる訳ではなく、奥義を授けられる程に技を極めなければいけないがなと拓馬は付け加えた。

「そうですか。では父上。秋月光陰流の奥義ですが、琳太郎に授けていただきたい」

 大治郎の発言に琳太郎も拓馬も驚いた。

「お待ちください兄上。私はこの家を出ていこうとしているのですよ?そのような者に奥義を授けるなどと…」

「そうだぞ大治郎。奥義は次期当主でもあり次期師範に最も近いお主が授かるべきだとわしも思うぞ」

「確かに当主は長男である私がなるのが道理かもしれません。しかし父上、剣の腕は琳太郎の方が上なのでは?」

 拓馬は大治郎の言葉を否定できなかった。大治郎は剣の腕も自分が同じ年齢の時と比べても遥かに優れているし道場の者からも慕われている。奥義を授けるに相応しい剣客だ。しかし琳太郎の剣がより優れていることもまた事実であることを拓馬はわかっていたのだ。

「私も琳太郎が絵師として生きることは反対しません。ですがいくら道場を去るとは言え、剣客として自分より優れた者がいるとわかっているのに、おこぼれのように奥義を授かることは承服できかねます」

 大治郎の不器用とも言える真っ直ぐさに琳太郎も拓馬も返す言葉がなかった。

「つまり琳太郎に奥義を授けなければ…」

「はい。私は秋月の書を引き継ぎません」

 はっきりと大治郎は告げた。こうなったらテコでも動くまい。

「琳太郎、大治郎はこう言っておるがお主はどうだ」

「父上も兄上も私の我儘を聞いてくださったのです。そして父上からの願いも聞いた。それなのに兄上からの願いだけ聞かぬのは不公平でしょう」

 琳太郎は姿勢を正し、拓馬と大治郎に向け頭を下げた。

「秋月琳太郎。光陰流の奥義、ありがたく習得させていただきます」

「ありがとう。琳太郎。だがな、次に試合をして俺が勝ったらちゃんと俺に奥義を授けるのだぞ!」

 快活に笑いながら大治郎は言った。引き込まれるように琳太郎も拓馬も笑い、親子3人の笑い声が室内に木霊した。

 そして奥義習得のための稽古が行われ、数か月後に琳太郎は『水月の巻』を持って家を出た。

 兄の大治郎が持つ『鏡花の巻』が盗まれた。犯人は秋月の書の秘密を知っているのか。だとすれば次に狙われるのは自分が持つ『水月の巻』だ。

先日の覆面の男たちも絵師の秋水を狙っての襲撃では無く初めから自分を秋月琳太郎と知っていたのかもしれない。

容易に家を離れることの出来ない大治郎は琳太郎に『水月の巻』を守り、奪われた『鏡花の巻』を取り返して欲しいのだ。絵師として生きようとも自分は光陰流の剣客であり、秋月家の人間だ。命を賭して秋月の書を取り返す。

琳太郎はその夜、久しぶりに刀を研いだのだった。


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