二章
一
絵師・秋水が講師を務める絵画教室は不定期に開催される。菫は応募をしているものの一度も参加できたことはない。参加した女性が藤屋へやって来た時に秋水の風貌などは聞いていた。だから、落とした財布を拾ってくれた男性が聞いていた秋水の風貌と一致することから思わず、もしかして秋水先生ですか?と声をかけたら、照れながらそうですと答えてくれたのだ。感激のあまり喜びが弾けて大声で叫んでしまった。
藤屋ではリップが土下座をしていた。勘違いで蹴飛ばしてしまったのが大ファンの秋水だったのだ。
「あの、そろそろ顔を上げてくれませんか。怪我もしていないことですし…」
秋水は困った顔をしながらもリップに話しかけている。
「いえ、勘違いで人を蹴ってしまうなど武道に生きる者としては最も恥ずべき行為です。本当に申し訳ありませんでした」
「…俺たちは頻繁にしょうもない理由で蹴られてるよな、親分」
「…だな」
蚊の鳴くような声で話す清兵衛と儀エ門の声を耳聡く聞いたリップは怒りで尖らせた視線を2人に向けてきた。
「秋水さんでしたか。この度はウチの者が大変失礼いたしました」
「いえ、本当に良いんですよ。気になさらないでください。えっと…」
「あぁ、申し訳ない。挨拶が遅れました。私はこの巽町で助人屋を営んでおります、清兵衛と申します。以後、お見知りおきを」
清兵衛が頭を下げる。それに倣って儀エ門も、そしてリップも改めて頭を下げた。
「助人屋の清兵衛さん…」
「はい」
「略して助兵衛さんでもいいですよ!」
「よくねェよ!」
儀エ門の発言にすかさず拳骨と共に清兵衛はツッコミを入れた。その光景に秋水はどう反応を示してよいか迷っていた
「秋水先生。気にしないでくださいね。彼らのお約束の件なので」
「はぁ。そうですか」
菫はいつもの何倍増しの笑顔で秋水に話しかけお茶を差し出した。
「ところで、助兵衛さんは…」
「清兵衛ですが!?」
二
日ノ皇国という国の政治は皇族ではなく幕府と呼ばれる機関が動かしている。形式上は国の軍事機関に過ぎないが、度重なる内乱や海外からの侵略に対し軍功を挙げ『侍』という官位を与えられた武人たちがいつしか皇族以上の発言力を持ち始め、今となっては幕府と長である統将軍がこの国を支配する王と言っても過言ではない。
首都である江戸で一番栄えており幕府のお膝元が、初代統将軍。徳川葵の名にちなんでつけられた、葵町である。秋水はその葵町から巽町へやってきたのだ。
「へぇ、大都会の葵町から」
「はい」
「まぁ、巽町は職人や芸術家が多く住む町だからね。その道を志す者ならわざわざ葵町から来て根を生やすのもわかる」
儀エ門の言う通り、巽町は職人の町として有名だ。発明や芸術だけではなく、刀鍛冶や建築、工芸、音楽などなど、自身の腕で創造をする者たちにとって一度は訪れ、住みたい町である。
「本当のこの町は絵師にとっては理想郷ですね。葵町でも見たことのないような貴重な画材がたくさんありますから」
「わかります!私も絵は大好きなんですよ!」
「おや、それでは貴女も絵を描かれるので?」
「あ、いや私は観る専門でして」
「そうですか。絵は観ても楽しめますものね。貴女のお眼鏡にかなうような絵を描けるよう、精進します」
「秋水先生の絵は素敵です!今までもこれからも私はファンでいます!」
「ありがとうございます。リップさん」
先ほどのことは反省しているが、やはり一ファンとして秋水と話せるのは嬉しいのだろう。先ほどからリップは興奮を隠しきれていない。
「ところで、清兵衛さんたちがやっている助人屋というのはどんな依頼も引き受けてくれるのでしょうか?」
「公序良俗に反しない限りは。何かお困りごとでも?」
「困っている訳ではないのですが…」
そう言う秋水の顔には確かに困惑よりも照れている表情が貼り付いていた。
「秋水先生。遠慮なく申し付けてください。発明と絵画、分野は違えど同じ創造の世界に生きる者同士。そこの武道娘の無礼の詫びも兼ねてお安くしときますよ」
「黙れ、儀エ門!あ、でも秋水先生。依頼は引き受けますよ。遠慮なく言ってください!」
「ありがとうございます。実は先日新作の絵が完成したばかりでして…」
「あ!そうだった。まだ買ってないや」
「菫…」
「あ、ごめんなさい」
つい話の腰を折ってしまった菫に清兵衛は叱るような、呆れるような声を出した。秋水にすみませんと謝り、続きを催促した。
「それで新作の絵が完成したので、パーっとどこかで呑みたいなと思っておりまして。1人で呑むのも味気ないので、清兵衛さんたちに付き合っていただけたらと」
「…それが依頼の内容ですか?」
「えぇ、まあ」
清兵衛たちは呆気にとられていた。互いに視線で会話をする。秋水の表情を見る限り冗談を言っているとは思えなかった。
「わかりました。その依頼、お引き受けしましょう」
「本当ですか!ありがとうございます」
秋水の希望で宴会は2日後に藤屋でということになった。清兵衛たちにお礼を言った後に秋水は店を出て行った。
「しかし飲み相手をしてくれとは…」
「ただで飲み食いできると思えば、まぁお得なのかもね」
清兵衛と儀エ門がこれまでに無い依頼内容を不思議がっていた。秋水は物腰が柔らかで好青年だったが、やはり絵描きの持つ感覚とは何処か浮世離れしているのかもしれない。
「あんな依頼をしてくるなんて」
「やっぱり秋水先生って素敵よね」
大ファンである2人は、秋水の新たな魅力の発見に更に心を奪われていた。
三
清兵衛たちが営む助人屋は藤屋の隣にある。仕事の大半は奉行所からの指示で派遣先へ向かうのだが、時折、店へやってきて直接仕事の依頼を頼む者もいれば秋水のように、藤屋にいる時に頼まれることもあった。
秋水からの依頼を受けた後、店へ戻った清兵衛たちは今日はもう依頼は来ないだろうと思い店じまいの準備を始めていた。そんな時、店の出入り口から凛とした声が聞こえてきた。
「失礼」
そこに立っていたのは純白の道着を纏い腰に刀を差した女武者だった。鋭い目元や佇まいから、見かけではなく実力が備わっていることを清兵衛とリップは見抜いた。
「いらっしゃいませ。何か御用で?」
「うむ。ここは助人屋ということで、人捜しも引き受けて貰えるだろうか」
「えぇ、人だけではなく犬猫の捜索も常日頃行っておりますよ」
「そうか。では是非とも頼みたい」
「かしこまりました。ではこちらへ」
清兵衛が声をかけると儀エ門が椅子を引き、リップがお茶を用意する。刀を取り腰を下ろした女武者と向かい合う形で清兵衛も席についた
「助人屋せいべえ、社長の宗像清兵衛です」
「柊美空と申します」
「では柊さん。貴方の捜している人について教えていただけますか」
清兵衛が美空から捜したい人の特徴などを聞き出そうとした時に、店の扉を叩く音が聞こえた。
「何だ。今日は来客が多いな。儀エ門。出てくれ」
「あいよ。はいはい、どちら様ですか」
儀エ門が扉を開けると、そこに立っていたのは秋水だった。
「おや、秋水先生。どうしたんですか?」
「えぇ、実は2日後の宴会のことでちょっと…」
「琳太郎様!!!」
大声を上げたのは美空だった。驚いた表情をしているが、その美空よりも秋水は驚いた表情をしていた。
「琳太郎様!お会いしとうございました」
「いえ、人違いだと思いますよ」
秋水は美空から目を逸らしながら、裏声を使っている。本人は真剣かもしれないが、その行為自体が美空の捜している人物が自分と裏付けている事に気づいていない。
「す、すみません。話はまた今度ということで」
「あ!お待ちください!」
裏声のまま秋水は駆け出した。そして美空も後を追うようにして店を出て行った。助人屋の3人は僅かな時間に起きた出来事の処理が完了できずに固まったままである。1番始めに再起動したのが儀エ門だった。
「一体何が起きたんだ」
儀エ門は裏声でそう呟いた。
四
美空がせいべえに訪れてから2日経った。この日は秋水と約束していた宴会が行われる。約束の時間より15分前に秋水が貸し切りにした藤屋へ到着した。
「おや、皆さん。もうお揃いでしたか」
「秋水先生。いらっしゃい。どうぞこちらへ」
菫に案内され、秋水は席へ着いた。既に料理が出来上がっており、あとは乾杯の音頭を取ればいつでも始められる状況である。
「いやぁ清兵衛さん。先日は色々と申し訳ありませんでした
「あ~急に現れたかと思ったら、これまた急にいなくなったので驚きましたよ」
「本当に申し訳ない。その詫びも兼ねて今日は遠慮なく飲み食いしましょう。無論、お代は私が持ちますので」
「その気持ちはこの上なくありがたいのですが。秋水先生。始まる前に1つよろしいでしょうか」
「悪いが先日の件でしたら、お答えは…」
「いや、まぁ、その事と言えばその事なのですが… 出てきて良いですよ」
清兵衛は店の奥に向かい声を向けた。秋水の視線も自然とそちらへ向く。店の奥から出てきたのは美空だった。
「琳太郎様…」
「清兵衛さん。コレは…」
「申し訳ないね、秋水先生。俺たち助人屋は困っている人からの依頼は必ず遂行すると決めてんだ」
清兵衛の決心の灯った目の光に、清兵衛はこの場は観念するしかないのだと悟った。
「まぁとりあえず乾杯しましょう。話はそれからだ」
「そうですね。せっかくの料理が冷めてしまう」
美空も席に着いたところで、リップが乾杯の音頭を取り宴会は始まった。
「さて、美空さんからおおよその話は聞いている。が、秋水先生。勿論この事は他言はしない。俺たちの仕事は貴方と美空さんを会わせることだ。席を外した方がいいなら外しますよ」
「いえ、大丈夫です。身内が迷惑をかけました。美空も…すまなかったな」
「そんな!私の方こそ、このような罠に嵌めるような形になってしまい…」
「私が逃げ出したからな。無理もないさ」
2人の間に険悪な空気が生まれないことに清兵衛たちは安堵した。
「では皆さん。美空から聞いているかとは思いますが、私の本当の名は秋月琳太郎と申します。秋水は雅号です」
「秋月というのは、光陰流の…」
「はい」
「やはりそうか」
秋月光陰流― 恐らく日ノ皇国で1番有名な剣術の流派だ。開祖の秋月信綱は武者修行の末、光陰流を興し、当時一介の武人に過ぎなかった初代将軍・徳川葵にその剣術を惚れこまれ、臣下となった。その後も信綱は戦だけではなく、政にも的確な助言を行い、幕府が誕生した頃には将軍家の剣術御指南役を賜った。
将軍家御指南役という看板は侍の家だけではなく、一般市民の稽古希望者が殺到した。今となっては道場も全国にあり、剣術とは秋月光陰流といって差し支えないほどの影響力がある。
「なるほど。ただの絵描きではないと思っていましたが、秋月家の者なら納得です」
「え?私が剣術をしていることを見抜いていたのですか?」
「そりゃわかりますよ先生!私が、その…飛び蹴りをしてしまった時、蹴りが当たる瞬間に自分から体を後ろに下げて飛ばされたフリをしたでしょ?」
「それに先生の歩き方やその腰の落とし方は武芸をしていないと身につかないものですよ」
清兵衛とリップには初めから自分が剣術をやっていたことを見抜かれていた事実に秋水は驚いた。
「そうですか。生まれてから身に着けたものというのは隠せないものらしい」
「まぁ見る人が見ればわかるということですよ。儀エ門は気づいてたか?」
「いや、全く」
「ね?なので無理に隠すこと必要もないですよ。武芸をしている人間なんざ、この国には腐るほどいますからね」
「そうですか」
「まぁ、秋月家の生まれということには驚きましたがね。しかし益々わからん。何故先生は…」
「すみません。ちょっと良いでしょうか」
清兵衛から秋水への質問を美空が遮った。
「美空。今は清兵衛さんが私に」
「申し訳ありません。どうしても気になることがありまして。そこの…リップさんでしたか」
「え?はい。リップは私ですが」
話題の標準が急に自分に合ったことにリップは驚いた。美空のリップを見つめる視線は鋭く、抜き身の刀を突き付けているようだった。
「貴女、先ほど琳太郎様を蹴り飛ばしたと言わなかったか?」
「え!?…あぁ、ソレはその」
自分に負い目があるだけにリップは言い訳の仕様もなかった。
「貴様!この方が誰だかわかっているのか!?そこになおれ!!」
咆哮と共に美空は刀に手をかけた。彼女の殺気に当てられリップも戦闘態勢をとった。2人の殺気が藤屋に漲り、ぶつかり弾けた。そして美空が鯉口を切った瞬間、秋水が彼女の掴んでいる刀の柄に手を当てた。
「美空。落ち着きなさい。彼女は何も悪くない」
「でも…!」
「もう終わった話だ。お前は私に恥をかかせる気か?」
美空を諫める秋水の声は絵師のものではなく紛れもなく剣に生きる者にしか出せない威圧感を孕んでいる。その場の全員が息を呑んだ。扉を叩く風の音が妙に大きく聞こえる。
「…申し訳ありません。ついカッとなってしまいました。リップさん。無礼を働きました。真に申し訳ない」
「いえいえ。元はと言えば私が悪いので。さぁせっかくだし、美空さんも飲みましょう!」
頭を下げる美空にリップは努めて明るく話しかけた。張りつめていた空気は和らぎ、改めて乾杯をし、宴会が再開された。
五
「そう言えば美空ちゃんは何で秋水先生を捜してたの?」
宴会が大いに盛り上がった頃、リップは美冬へ訊ねた。捜し人は早々に見つかってしまったので、美冬が何故、絵師秋水として生きる琳太郎を捜していたのかは知らずじまいだった。
「おい、リップ。俺たちの役目は美冬さんと秋水先生を会わせるまでだ。それ以上は助人屋として踏み込んではいかんぞ」
清兵衛は好奇心で美空の行動の真意を訊きだそうとするリップを諫める。
「ごめんごめん。つい気になっちゃって」
「いえ、良いのです。せっかくなので皆さんにも聞いていただきたい」
「おい、美空」
「私は琳太郎様に秋月光陰流の次期師範になっていただく為にやってきました」
秋水の制止を聞かずに美空は話した。清兵衛たちも黙って美冬の次の言葉を待つ。
「現師範であり秋月家当主の秋月拓馬様は今、病床に伏しております。命のある内に次期の師範を決めておきたいと仰せです」
「だから、それは兄上が引き継げばよかろう。大体私は剣術は好きだが、人へ教えることは、からっきし駄目だ。父上も兄上もそれを承知の上で私が絵師として生きることを許してくださったのだぞ」
「確かに大治郎様も素晴らしい剣客です。しかしいつも琳太郎様には勝てぬと仰せでした。それに教えるのが駄目などと嘘です。私は琳太郎様の御指南のお陰で準師範代にまで昇り詰めることができました」
「それはお前自身の実力だろう」
「いえ、光陰流には琳太郎様が必要なのです。当主は大治郎様が、そして師範は琳太郎様が継ぐべきなのです」
「美空」
熱くなっていく美冬に反して、秋水は先ほど以上の威圧感と冷たさを醸し出しながら静かに言葉を発した。
「お前は兄上が師範に相応しくないと申すのか?」
「い、いえ… だから大治郎様も素晴らしい剣客ですが琳太郎様には…」
「それはさっき聞いた」
秋水が言葉を発する度に美空が静かになっていく。まるで悪戯をした子どもが親に叱られているようだった。何とかしろよと儀エ門たちは清兵衛へ目で訴えた。わかった。任せろと清兵衛は同じく目で応えた。
「い、いや~秋水先生。そろそろ宴もたけなわ。どうです?これから男だけで二軒目のお店へと繰り出しませんか?」
「そうですね!男同士でしか話せないこともあるでしょう」
「それじゃあ、私はここに残って美冬ちゃんとお話し続けようかな!武道女子として色々と語り合いたいし!菫ちゃん、まだ居てもいいかな?」
「いいよ!今日はリップちゃんたちの貸し切りだったし、大将には話通してく」
清兵衛の提案に儀エ門たちは即座に対応した。この辺りは流石に日々行動を共にしているだけのことはある。
「…そうですね。私も何処かで飲みなおしたい気分だ」
「よし!じゃあ行きましょう!菫、ご馳走様」
秋水を連れて清兵衛と儀エ門はそそくさと藤屋を後にした。残されたリップと菫は顔を伏せている美空の方を見た。膝に乗せた手にポタポタと涙が零れている。それは好きな人に冷たくされて泣く、どこにでもいる女の子ようだった。