深夜のバスで
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「まずい!やっぱりもう一回行ってくるわ!」
そう言い残して、春林紅はこのバスターミナルに着いてから五回目のトイレに走った。もっとも紅は、自身が敬愛するお笑い芸人がそう言うように、トイレのことを「便器ステーション」と呼ぶが、とにかく紅はまたトイレに行った。彼は頻尿なのだ。特に12月と冬の盛りになると本領を発揮する。
トイレの方を見やると、トイレの中にいったん入るがまたすぐに出てくる紅が目に入った。どうやら中にも行列ができているようだ。自身の膀胱のあたりを心配げに見つめている。トイレを我慢している時の紅の癖だ。
私たちが今いるのは、東京駅近くの深夜の高速バスターミナルだった。これから長距離バスに乗る人でごった返している。夜に出発、寝ているうちに目的地に到着している、という、安さと時間の有効活用が売りの交通手段だ。そのターミナルの一角の、植え込みと植え込みの間に申し訳程度に設置されたベンチに座っている。足元には、これから4日間、バスでの移動を含めないとすると二泊三日分の着替えなどが入った旅行鞄を置いている。地味な茶色の鞄が私の物で、ラスタカラーのド派手で悪趣味な鞄が紅の物だ。私が特にすることもないのでバスターミナルを見渡すと、女性の軽快なアナウンスがターミナル中に響き渡った。
「お待たせいたしまして申し訳ございません。遅れております22時20分発、オリエントエクスプレス大阪行きのお客様は、2番乗り場までお越しくださいませ。繰り返します・・・」
私たちと同じ行先の一つ前のバスだろうか。スマートフォンを取り出し、現在の時刻を確認する。22時32分。私たちが乗る大阪行きのバスは22時50分発車予定のため、このままだと23時過ぎの出発になるだろうか。時刻が表示されているディスプレイは、同時に現在の気温が2度であることも教えてくれる。今日は特に寒く、深夜ということもあるだろうが、コートを突き抜けて寒さが押し寄せてくる。普段静岡の大学に通っている私としては、身に応える寒さだ。
スマートフォンをしまおうと思った矢先、充電が残り30%であることにも気がついた。先ほどまで東京駅の中を紅とぶらぶらしていた際、「トムとジェリー」のショップではしゃいでいる紅がおかしくて、今思うと、これから旅に出ることにテンションが上がっていただけなのかもしれないが、写真を何枚も撮ってしまったこと、そして、紅がトイレに行くたびに、これからの旅の目的地である大阪について色々と調べていたことが原因だろう。おそらくバスに乗り込めば電源プラグがあるだろうから充電もできる・・・。そう考えてこの問題に決着をつけた私は、再び賑やかなバスターミナルに目をやる。
思うに、ここにいる人たちは、二種類の人間に分けられる。「これから旅をする人」と、「もう既に旅を終えた人」だ。
これから旅をする人、私と紅もそうだが、は総じて顔が明るい。これからの旅への期待を胸に、そして言葉に出して、テンションが高い。深夜という時間帯もそうさせているのだろう。そして、おそらくは東京近郊に住んでいる人だ。この東京駅からほど近いバスターミナルからは、夜行の高速バスが数多く出ている。深夜に出発するバスに乗り込み、眠りにつき、目覚めたら大阪や名古屋、東北に着いているのである。費用は安く済み、お金を多くは出せないが時間は有り余っている学生(私と紅も大学4年生である)が多く利用する。バスでもなかなか寝付けないだろう。
一方、既に旅を終えた人々は、地方在住の場合が多い。東京観光、ねずみの遊園地で遊びまわり、ヘトヘトになった人たちが、自分たちの町へ戻っていく。遊んだ後の疲れ、現実へと戻っていくやるせなさから、顔は暗い。バスではすぐに眠りの世界へと落ちていくだろう。
そんなことを考えていると、紅が男子トイレから出てきた。濡れた手を、お気に入りのスヌーピーのハンカチで拭いている。ちなみに、紅はハンカチのことをハンケチと呼ぶ。前時代的な言葉遣いを好むのだ。
「おまたー。もうすぐ発車かな?」
「あと20分くらいでバスが来ると思う」
「そうかー。いよいよだな、大阪旅行」
恋人と二人で大阪に卒業旅行に行く。姉の咲奈にそう告げると、「近場だねー、安上がりだねー」と若干の嘲笑が混じった声で返された。私もせっかくの恋人との卒業旅行、せっかくだから海外、少なくとも沖縄などの非日常が味わえる土地に行きたかったので、最初は大阪に行くのに乗り気ではなかった。
しかしあまりにも紅が熱っぽく大阪の魅力について語り、それがあまりにもくどく、しまいには「大阪に行かないのなら二度と旅行には行かない」とまで言い出したものだから、ああ、面倒くさいと思いながら最終的には折れた。それから、紅が買ってくれた旅行雑誌やご丁寧に自作してくれた「旅のしおり」を見たりしているうちに、大阪に行くのも悪くないなと思えるようになったからよかったが。
そしてこの旅行は・・・。そう思ったところで、紅がスマートフォンを取り出し、素っ頓狂な声を上げる。
「まずい!充電がもうない!ちょっとトイレ!」
そして再びトイレへと駆け込んでいった。なぜ充電が切れかかったことが原因でトイレに駆け込んだのか。その奇妙な理由も、私にはわかる。紅は、私以外の女性と連絡を取ろうとしているのだ。充電が切れる前、バスに乗り込む前に、しばらく連絡が取れない旨を伝えるのだろう。いくら紅が頻尿だからといって、こんなにも頻繁に行くのはおかしいのだ。私は気づいている。一か月ほど前から、紅が他の女と親密に連絡をとっていることに。私に隠れて、コソコソ会う約束をしていることに。世間一般でいうところの、浮気という奴だろう。この旅行は紅との最後の旅行にするつもりだ。最後にうんと楽しんで、そして、最後にはさわやかに別れを告げるのだ。この大阪旅行の私の目的は、紅からの卒業だ。
「大変お待たせしております。22時50分発、大阪行きの高速バスにご乗車の方は、3番乗り場までお越しください」
「お、菜乃葉、いよいよだぜ、行こう」
紅はスマートフォンを取り出し、意気揚々と告げた。高速バスの乗車には紙のチケットではなく、紅が事前にインターネットで予約した際にダウンロードしたQRコードが必要になるらしい。インターネットには疎い紅が苦労して予約してくれた。こういう旅行などのイベントになると、張り切って、ちょっと格好つけて、
紅が珍しく私の手を取り、乗り場まで向かう。このバスターミナルの構造を全て把握しているかのように迷いなく、ずんずんと、お目当てのバスまで進んでいく。私は、繋がれた紅の手が少し湿っていることが気になって、ちゃんとさっきのトイレで手は拭いたのか?と紅の左手ばかり見ていた。気が付くと私はバスの乗降口の段差を越えていて、座席に座ろうとしていた。紅から手を離しさりげなくハンカチで手を拭く。このような次第で、旅が始まるのだ。
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しんと静まりかえったバスは、いつも乗っているバスとは全く異なる異様なものだった。深夜ということもあり、寝てしまう客が多いため、カーテンは完全に閉められ、スマートフォンやパソコンなど、光を発する電子機器の使用は禁止されている。幸い電源プラグの差込口はあったため、充電だけはすることができた。そして、もちろん会話も厳禁。バスに乗ってすぐは、紅の大好きな芸能人のラジオを録音したものをイヤホンで二人で聴いていた(紅はイヤホンの差込口が二つ付いている端子を持っているため、紅と同じ音源を両耳で聞くことができるのだ)ためその他の音には全く気がつかなかったが、イヤホンを外した今、車内では、乗客の発する寝息以外の音は聞こえない。また、運転席と乗客の間はカーテンで仕切られていて、運転手の姿は見えない。それがなんだか不思議な感じがして、少しワクワクする。
窓際の席に座っている隣の紅の方を見やると、大口を開けて寝ている。ご丁寧によだれを少し垂らして。目にはアイマスクをしている。これは私が買ってきたものだ。せっかくの最後の旅、行きのバスで寝付けずに目的地である大阪に着いてしまうと、疲れと不眠で楽しめないと思ったのだ。私と紅はどちらかというとロングスリーパーで、しっかり寝ないと調子が悪い。そういったことを考慮して、お互いラジオを聞き始めると同時につけていたのだが、紅のスマートフォンの充電が残り3パーセントとなっていたため、聞くのをやめた。同時に、紅がスマートフォンの充電器を忘れたことにも気が付いた。紅はわざとらしく頭を抱えていたが、私と紅とは同じ機種のスマートフォンを使っているため、大事には至らないだろう。
寝付けもしない、スマートフォンや本を見ることもできない、そうなるともはや、考え事をするしかない。深夜の高速バスでは、選択肢が少ない。
再度、隣の紅の方に目をやる。一か月ほど前、紅の浮気に気づいた時のことを思い返す。
その日は、私の家で紅と大阪旅行の計画を立てていた。計画を立てるというより、紅が作ってきた旅のしおり(今はインターネット上で無料で凝ったデザインのしおりを作ることができるみたいだ)を見ながら、紅が旅行ガイド本(3冊も買い込んでいた)も参照して詳細な説明をしてくれた。朝昼晩全て食事はタコ焼きにする、という極端な紅の案をやんわりと否定し、それに少し拗ねた紅が「ちょっとトイレ」と頻尿ぶりを発揮しトイレに消えた後、ちゃぶ台の上のガイド本の横に放置されていた紅のスマートフォンが光った。メッセ―ジアプリの通知が来たのだ。
今まで恋人のスマートフォンをチェックする、などという行為はしたことがなかったが、その時は何気なしに覗き込んだ。そして、すぐに後悔した。
「こっちはいいけど、紅君大丈夫?」
「彼女さんいるんでしょ?」
「彼女さんに悪いなあ」
「こっちは良いけど」
そのようなメッセージが、画像アプリで加工した女性のアイコンから立て続けに送られてきたのである。アカウント名は「Megumi」である。「彼女さん」が私のことであることにしばらく時間がかかったが、これはつまり、私に内緒でMegumiとかいう女と会うこと、「彼女さんに悪いなあ」という文言から、何やら後ろめたいことをしようとしていること、そして、恐らくこれは浮気というやつで、紅の方から誘っているらしい、ということ。
この前に紅はどんなメッセージを送っているんだ?気になった私が、紅のスマートフォンに手を伸ばした、その瞬間…
「放尿のコツは最後の一振り!」
と箸にも棒にもひっかからないことを言いながら紅がトイレから出て、洗面台へと向かった。いや、最後の一振りが紅の棒にひっかかるかもしれない…。そんな下らない思考を中断して、急いで紅のスマートフォンに伸ばした右手を引っ込めた。
洗面台で最近買ったというお気に入りのマンダリンオレンジのハンドソープで入念に手を洗った後、紅は何食わぬ顔で戻ってきた。その後、紅はすぐに大阪旅行の詳細、例えば大阪風お好み焼きと広島風お好み焼きとの違い、通天閣の歴史などをくどくど話し始めたが、私の耳には全く入ってこなかった。そして、私がその日帰るまで、紅が自身のスマートフォンを見ることはなかった。
それから今日までの間、疑惑は確信へと変わってきている。私と二人でいるとき、急な着信で「めんごめんご」と言いながら離れていく回数が増えた。今までとは違う香りが、紅からするようになった。そして決定だった、あの発言…。
「じゃあめぐみ、今度行くから待っててな」
元来女性が得意でなく、基本的に同級生の女子のことは「さん」づけで呼ぶ紅。私のことを名前で呼ぶようになったのも、付き合ってから一年が経ったころからだ。間違いない。紅は浮気をしている。
回想をふとやめると、バスはサービスエリアに入ったようだった。しばらくの減速の後、停車する。この高速バスは、目的地である大阪に到着するまで、20分ずつ二回の休憩タイムがある。今がどのあたりなのかよく分からないが、おそらく豊橋か名古屋のあたりか。名古屋は紅の実家があるところだ。
ずっと同じ姿勢でいるためか、体がいたく凝っている気がする。紅の頻尿がうつったか、少し尿意もある。降りるかどうか、カーテンの隙間から外を見ている紅に、他の乗客の邪魔にならぬよう小声で聞いてみる。おそらくトイレに行きたいだろうから「もち」と答えが返ってくると思いきや、「まだいいかな」という答えが返ってきた。意外であったが、私一人でもトイレだけなら行けるだろう、と思って、
「じゃあ、私はちょっとトイレに行ってくるね」
と言って立ち上がろうとしたが、その瞬間に左腕をがしっと紅に掴まれた。少し痛い。
「それって我慢できないのかい?」
私を一人で行かせるのが怖いのだろうか。それとも、一人でバスに残るのが寂しいのだろうか。いずれにしても、私に着いてきてくれればいいのに。
「そうだね。まだ到着するのはずっと先だろうから、一回行っておきたいよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあ俺も行くよ」
しぶしぶ、というよりは、覚悟を決めたような様子で紅も立ち上がった。最初からそう言ってくれればいいのに。
バスから外に出るのは、乗客の三分の一ほどだ。残りの客は、みな寝ている。当初の私たちと同じように、お揃いのアイマスクをしている人もいる。外に出る人に配慮してか、通路の上の照明がほのかに光っている。それでも足元は暗い。アイマスクを付ける前、もういいかと思ってコンタクトレンズは取ってしまった。リュックの中に眼鏡はあるが立ち上がった手前探すのも億劫だ。そんなことを考えながら通路側にいた私がそろりそろりと和泉元彌よろしく移動していたら、紅がぬっと私の前に出現して、ぱっと屈み、両手の平を私に向かって差し出した。そう、おんぶをしたいかのように。
「コンタクトも取って、通路が暗いから歩きにくいだろ?」
紅が振り返りながらそっとささやく。どうやらこの暗くて狭い通路、私をおんぶして通りたいようだ。
「いいよ、恥ずかしいから」
私もささやきで返す。知らない人の前でおんぶされるのと、最近食べ過ぎで太った体の重さを知られるのが嫌だった。
「あらそ」
紅はそれだけ言うと、そっと私の手を取り、再びそろりそろりと和泉元彌よろしく通路を歩きだした。いつも傍若無人、優しさもあまり見せない紅には珍しいことだと思う。もしかしたら…。自分の浮気がバレていることに勘づいて、ジェントルマンを今更演じているのだろうか。その手には乗らないぞ、と私は固く心に誓う。浮気男が優しくなるというのは古からの定理なのだ。
そしてバス前方のドアまで着き、タラップを降りる。紅の手だけでなく、しっかりと下も見て足元に気を付けていたつもりだったが、ぼんやりとした視界の中、やはり少し躓いてしまった。そんな私を紅はさっと支え、再びおんぶの体勢をとった。
「危ないだろう、やっぱりおんぶしてやるよ」
「いいよ、恥ずかしいから」
「大丈夫、暗いし誰も見てないって。だっこよりはおんぶがいいだろう?ほら」
そう言って紅は再び先ほどと同じようなおんぶの姿勢をとった。紅の背中を見る。たまには、最後には、こういうのもいいのかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
私は足を紅の手の外側にかけ、手を首に回し、身体を紅に預けた。
「しかし…やっぱり寒いな」
照れ隠しのためか、紅はそっとつぶやく。それとは反対に、首筋には汗が伝っている。
「さて、行きますか」
よっと声をあげながら紅は立ち上がった。深夜のサービスエリア、人もまばらで、こちらを見ている人もいないが、元来が恥ずかしがり屋の私は思わず俯き、紅のスニーカーを見つめる。
「あれ、なのは太った?重いぞ」
デリカシーのない紅の発言にも、ただ無言で胸元を小突くだけだ。紅はそれには気にも留めない様子で、すたすたと小走りに近い速度でトイレがあるらしき方向へと向かっている。頻尿の人間は、トイレのある場所が本能的に分かるのだろうか。バスから出てすぐに、私たちはトイレの前に到着した。
「じゃあ、お互いトイレを済ませて、終わったらトイレの前で集合しよう」
「わかった」
「ちなみになのははどのくらいトイレかかるかな?」
なぜそんなことを聞くのか、と思ったが、尿意が意外とすぐそこまで迫っていたため、「4分くらいだよ」と答えてトイレに入った。後ろから、紅の何かしらの声が聞こえた気もしたが、内容までは分からなかった。
3
トイレが済み外に出ると、そこにまだ紅の姿はなかった。頻尿であるが一回当たりの時間が短い紅にしては珍しい。それにしても外気が冷たい。東京にいるときも相当冷たかったが、それ以上だ。ここはどのあたりだろう。サービスエリアの名前を見ても、出身が鳥取県の私にはピンとこない地名だった。何となく歴史の授業を思い出す名前だったが、詳しくは分からない。地理に疎いことを呪う。スマートフォンも充電するためにバス車内に置きっぱなしだ。
それにしても、紅が出てこない。待つのは嫌いではないが、いかんせん寒すぎる。紅はトイレの前で待っていてほしいと言っていたが、まあ待たせているのは紅の方なのだから仕方ないだろう。私はサービスエリアの中へと向かうことにした。
サービスエリアの中に一歩足を踏み入れると、まずはその眩しさに一瞬目がくらんだ。バス車内は眠っている乗客に配慮して消灯するとともに、パソコンやスマートフォンなどの電子機器類の使用も禁止されているからだ。
深夜のサービスエリアは、私の知っている、家族や団体の旅行客で込み合う、昼間のサービスエリアとは全く雰囲気が異なっていた。土産物を見る客は一人もいない。陳列棚の近くまで行ってみたが、どこにでも売っているようなお菓子や雑貨が置いてあるだけで、ご当地物はもうなかった。きっと昼間のうちに売り切れてしまったのだろう。入荷するのは早朝なのだろうか。
フードコートでは、うどんやそばなどの麺類を無言ですすっているトラック運転手らしき男の人の姿が目立つ。日本の物流を支えている正体を見た気がして、少し胸が温かくなっていると、紅の咎めるような、焦っているような声が後ろから聞こえてきた。
「ちょっとー、トイレの前で待っててって言ったじゃんかよー」
「ごめんね、あまりにも寒かったから」
「そうですか、そうですか」
紅はトイレからここまで走ってきたのか、肩で息をしている。あの程度の距離を走っただけで息が上がるとは、日頃の運動不足のせいだろう。上気した顔で、紅は息を切らしながら私に尋ねる。
「どうだい、なのは、深夜のサービスエリアは?」
「なんだか、胸が温かくなった」
「それだけ?」
「それだけ」
「そうか、それならよかった」
妙に安堵したような表情を見せた後、紅はまたいつもの紅に戻った。
「いやー、しかし寒いなー。さっきおしっこしたらさ、湯気が出ちゃったよ、湯気が。冬ですなー」
ふと紅のジーンズに目をやると、チャックが中ほどで止まっており、裾は中途半端にめくれ、紅お気に入りの鼠色の股引が見えている。だらしのない姿に、温かくなっていた心が急速に冷めていく。
「さあ、紅、バスに戻ろう。そろそろ出発するんじゃない?」
サービスエリア内にも関わらず寒気を感じた私は提案した。紅もそれに応じる。
「そうだな、そろそろいくか。その前に、念のためもう一度トイレに行っていいかい?」
4
バスに戻ると、温かさにすぐ眠気がきた。それほど外は寒かったのだ。反対に車内はよく暖房が効いている。紅は窓際の席に座り、何やら考え事をしているようだ。ウトウトした私は、特に考えたいこともなかったので、眠りについた。少しだけ、夢を見た。
城のような大きな建物の中に入った紅が、紅の好きなお笑いコンビと一緒に、なぜか三人で椅子取りゲームをしていた。そして、三人は、遠巻きにその様子を見ていた私を誘うように手招きをして・・・。
そこでパッと目が覚めた。少しの間だけの眠りであったとは思うが、のどが少し乾いている。エアコンの暖房が効きすぎているのかもしれない。乾燥を感じる。それにしても、さっきの夢は何かの隠喩なのだろうか。いや、きっと思い過ごしだ。これを話したら紅は喜ぶだろう、と思って隣を見ると、紅は使用が禁止されているスマートフォンを一心不乱に操作していた。眠っている人の邪魔にならないようにと低く屈んだ姿勢で操作をしているが、ルール違反はルール違反だ。
「ちょっと紅、だめだよ。スマートフォンを使っちゃ」
小声で、そっと注意する。なのはが起きていたことに気づいていなかったのか、紅はハッとしたように肩をびくつかせ、目にも止まらぬ速さでスマートフォンを私の見えない方に隠した。そして怯えたような目で私を見つめ、「ごめんよ」と小さな声でつぶやいた後、ばつが悪そうにカーテンに目をやった。
一瞬の出来事であったが、私は見逃さなかった。紅が開いていた画面はメッセージアプリのもので、やり取りをしているのは「Megumi」とアルファベットで表記された、アイコンが若くてかわいらしい、ショートカットの女性であったこと。
紅は、深夜のバスの掟を破ってまで、浮気相手と連絡を取っていたのだ。きっとさっき、サービスエリアでも、トイレに行くふりをして、そのめぐみとかいう女と電話などをしていたのだ!
紅はいまだにカーテンの方に顔を背けている。スマートフォンを操作することはやめているが、それを私に奪われてはお仕舞とでもいわんばかりに、ぎゅっと両手で握りしめている。ここが深夜のバスでなければ叫んでいるであろう私は、きつく唇をかみ、怒りと悔しさに震えた。浮気をしているのは、前から気づいていたからまだいい。何より許せないのは、こうやって旅行に来ているのにも関わらず、隙あらば私に隠れて、嘘までついてその女とつながりたいという紅の腐った欲望だった。
なんで、旅行に来てまで。もしかしたら、二人にとって最後の旅行になるのかもしれないのに。なぜ私は最後にこんな思いをしなければならないのか。笑って別れを告げたかったのに。紅はなぜ、私と旅行に来たのか。その浮気相手と行けばいいのに。それとも、その相手とはただの遊びで、あくまで、本命は私なのか?それとも、その逆?
いつまで考えても思考がまとまらない。ふと、今は何時なのか気になった。バス車内は、明かりを出さないという目的であろうが、デジタルの時計が置いていない。アナログの時計はあるのかもしれないが、暗い車内と低い視力では確認できない。
一瞬ならスマートフォンを見てもいいだろう。先ほど紅を注意した手前、少し恥ずかしさもあったが、充電ケーブルの先にある自分のスマートフォンを取り、電源ボタンを押した。しかし、スマートフォンは私の意に反して明るくならなかった。試しに長押しをしてみてもうんともすんとも明るくならない。おかしいな、さっきまでたしかに充電していたのに。そこで私は、充電ケーブルの先が電源タップから抜かれていることに気づく。
なぜ?
もしかして、これも紅が?一体何のために?
いやしかし、それでもおかしい。たしかに私のスマートフォンの充電は少なくなっていたが、それでもバスの乗車前に30パーセントは残っていた。紅のスマートフォンのように、10パーセントを切っていない限り、何もせずにバスの乗車中に勝手に充電がなくなるなんてことは・・・
もしかして。紅は充電器を忘れている。そして、紅は私と同じ型のスマートフォンを使用しているが、怪しげな通販サイトで購入したものであるからか、バッテリーがすぐに切れるといつも嘆いていた。
私はすぐさま、自分のスマートフォンのバッテリーを確認するため、スマートフォンをケースから取り出した。紅が横目でこちらをちらちら窺っているのが分かるが、かまってられない。そして、バッテリーを確認した。間違いない。これは、私のスマートフォンのバッテリーではない。そう、紅は、自身のスマートフォンの充電が切れたのにも関わらずめぐみとかいう女と何としても連絡を取りたいがために、私が寝ているすきにでも、バッテリーを入れ替えたのだ。
そこまでして、そこまでして連絡をとりたいなんて!!ありったけの軽蔑の思いを込めて、私はカーテンを掴んでビクビクしている紅を睨みつけた。暖房が効きすぎているからか、額には汗が浮かんでいる。そこで、眠っている人を起こさないよう配慮した声で、アナウンスが流れた。
「お休みのところ失礼いたします。間もなく当バスは、二回目の休憩のため、サービスエリアに駐車いたします。繰り返します。間もなく当バスは、二回目の休憩のため、サービスエリアに駐車いたします。休憩時間は20分となります。お降りになられる方は、お足もとにお気を付けて、時間厳守でお願いいたします」
どうやらさっきの眠りは、案外長い時間であったようだ。さっきの休憩から、体感としてあまり時間が経ったようには思えない。しかし、私に「決意」をもたらすには十分な時間だった。隣の紅に有無を言わさぬ冷たい声色で、そっとささやく。
「降りるよ」
そして、紅から本当のことを聞いて、別れを告げて、そして。
この旅を続ける意思はないことを宣言するのだ。このバスに再び戻るつもりはない。ホテルを予約したり、予定を立てたりしてくれた紅には申し訳ないが、全ては紅のせいだ。今は夜だが、朝になったら、サービスエリアに止まる路線バスか、それがなければヒッチハイクでもなんでもして、ここから脱出するつもりだ。おそらく今は大阪から車で2時間ほどの距離、岐阜か滋賀のあたりだろう。駅まで着くことができれば十分だ。乗務員さんには、その旨伝えれば大丈夫だと思う。お金も乗る時に払っているし、問題はないはずだ。
そのようなことを考えていると、バスは徐々に減速し、やがて止まった。再び車内アナウンスが入る。
「それでは、ただいまから20分の休憩に入ります。お降りになられるお客様は、時間厳守でお戻りいただきますよう、お願いいたします」
私はその声を聞くや否や、紅の腕をつかむ。顔面蒼白とはこのことで、紅は全てを観念したように頷く。さっきの休憩時、ひたすらに私をおんぶしたがっていた人とは思えない。今思うと、あの時の紅は焦っていた。自分への点数稼ぎでもしたかったのだろうか。
まあ、今はそんなことはどうでもいい。
つかんだ腕をぐいと引き上げて、私はバスの通路をずんずんと進んでいく。
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バスから外に出た瞬間、さっきの休憩の時以上の寒さがおそってきた。東京にいた時と比べ、段階的に気温が下がっているようだ。しかし、この寒さはそれだけが理由ではない。
私は、車の走行がないことを確認して、早歩きで駐車場を抜ける。自動販売機近くのベンチまで紅を連れてたどり着くと、意志のなくなった人形のような紅をベンチに強制的に座らせ、私はその前に仁王立ちする。
「もう、全部気づいているんだからね」
開口一番、私はそう云い放った。紅が、弱々しい声で返す。
「いつからだい?やっぱり、さっきの休憩のときかな?」
紅は、私が一か月前からうすうす勘づいていることに全く気付いていなかったのだ。
「違うよ。もう一か月前から気が付いていたよ」
そう言うと、紅は、え?というように私を訝し気に見つめる。それほど自分の浮気がバレていない自信があったのだろうか。こっちは、もう一か月前から気が付いていたというのに。
「とりあえず、紅、スマートフォンを見せて。さっきのやり取りを見せてみなさい」
「え、そのことを一か月前から気が付いていたのかい?」
そのことを、って、他にも何か隠していることがあったのか?まどろっこしいので、紅の手に握られていたスマートフォンをひったくる。パスワードは知っている。紅が数年前まで好きだったアイドルの生年月日だ。
「ああ、ああ」とおろおろしながらスマートフォンの奪還を試みる紅の手を払いのけ、メッセージアプリを開く。予想通り、一番上に「Megumi」という若い女がアイコンの人物とのメッセージの送受信記録が残っている。私は、その画面を紅に見せつける。
「紅、ずっとこの女と連絡とってたんでしょ。知ってるんだからね!」
いざという時には気の弱い紅だから、あっさりと非を認め土下座でもするかと思ったが、首をぶんぶんと横に振り、思いがけないことを口にした。
「違うよ、違うよ、菜乃葉。こいつは女じゃない、男だよ」
一瞬思考が止まりかけたが、聞き苦しい、この期に及んでまだ紅は言い逃れをしているのだと悟った。
「嘘つかないでよ。どう見たってこのアイコンは女でしょ」
「違うよ。ほら、男だって好きなアニメのキャラクターやアイドルの写真をアイコンにすることだってあるだろ?それと一緒だよ。そいつも、自分の好きなアイドルの写真をアイコンにしてるんだよ」
そんなまさか、と思ったが、まだこちらには、「名前」という切り札がある。
「でも、でもMegumiっていうのは女の人の名前でしょ?」
「たしかに下の名前だったらMegumiは女の人の名前かもしれない。菜乃葉は、トリビアの泉をよく見ていたしね。だけど、苗字だったら、男の人でもたくさんいるじゃないか。エアホッケーが異常に強いあの司会者だってMegumiだろう?こいつも男だよ。恵翔平。小学校からの同級生で今は大阪に住んでる。この旅行で、ちょっと会えたらって思って連絡をとってたんだよ」
嘘だろう?私は愕然とした。全部私の思い違いだったというのか。私は、寒さと恥ずかしさで震える指で「Megumi」とのメッセージ記録をタップした。たしかに、「Megumi」は一人称が「俺」であった。
「でもなんで、私のスマートフォンとバッテリーを入れ替えたりしてまで、今日その恵って人と連絡を取り合ったりしてたの?一か月前、一緒に大阪旅行の計画を立てているときだって、その人と連絡を取ってたよね?それで、私にその人とのやり取りを見せないようにもしてた。第一、その人と会うんだったら、最初からコソコソ隠さずに、私に知らせておけばよかったじゃないの」
「そ、それは・・・」
冷たい風が吹き抜ける。先ほどまで青ざめていた紅の顔色が、少し明るくなった。頬を赤らめている。
「サ、サプライズを・・・」
「はい?」
「菜乃葉に、せっかくの卒業旅行だからサプライズを仕掛けようと思ってたんだよ。この恵翔平ってやつ、俺の好きなお笑い芸人いるだろ、ピンクのベストを着た。その芸人に背格好や顔がそっくりだから、本人のふりをしてもらって、大阪駅に着いた俺と菜乃葉の前で一発ギャグをやってもらう予定だったんだよ。え、紅って実はあのお笑い芸人と知り合いだったんだって、なのはに驚いてもらいたくてさ。めちゃくちゃくだらないとは思ったんだけど、俺が考えた中でこれが一番しっくりきたから・・・」
「嘘でしょ、そんなこと考えてたの?」
もしかして、さっきの紅と紅の好きなお笑い芸人が私を手招きしているという先ほどの夢は、この計画のメタファーだったのかもしれない。いや、それにしてもおかしい。そのような計画を立てていたのはまだわかるが、なぜ紅はあんなにも怯えた、情けない顔をしていたのだろうか。
「もしかして、このバスって時間がけっこう遅れたりしているの?そういう時間の遅れとかを紅はその恵って人に伝えたくて、連絡をコソコソ取っていたの?」
「いや違う、バスの時間が遅れているわけではない。いや、正確には遅れているのかもしれないけれど」
「じゃあなんで?紅、さっきからすごく元気ないじゃん。そんなにサプライズを私に見破られたのが悔しかったの?」
「違うよ、たしかにもうサプライズを仕掛けることはできなかったけど。いや、逆にいうと、俺もサプライズなんだけれど」
私だけじゃなくて、紅もサプライズ?意味が分からない。
「どういうこと?」
そう私が聞くと、紅は口許に寂しげな微笑を浮かべたかと思うと、右手の人差し指をサービスエリアの方に向けて呟いた。
「ほら、あれをごらんよ」
その先には、サービスエリアの名称が、煌々と輝くネオンの光で表示されていた。バスから降りたときは、紅への怒りから目にもくれなかったため、全く気にも留めなかった。コンタクトレンズも眼鏡もつけていない私でも、その文字はしっかり認識できた。一瞬喉から悲鳴が出そうになったが、なんとかこらえた。
「会津若松SA」とそこにはあった。
驚愕に、開き直ったかのような紅の声が重なる。
「いやー。バス乗り違えちゃったみたいでさー。今、福島県。猪苗代湖の近くだな。そして、最終目的地は山形県の米沢市。どう、驚いた?」
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「いやー、参っちゃったよね。大阪で菜乃葉を驚かせるつもりが、自分の方が驚いちゃうんだもの!」
憑き物でも落ちたみたいに、紅はいつもの紅の調子に戻った。そうか、紅は間違ったバスに乗って間違った方向に前から気が付いていたから、既に状況の整理はついているのだろう。しかし、私はまだ駄目だ。ここが福島?到着地が山形?一体全体、どうして?震える声で、紅に問いかける。
「なんで、乗るバスを間違えちゃったのかな?」
「それなんだよねえ。詳しいことは分からないけれど、あの時どのバスも遅延してたし、バスが次々ときていたから、それで間違えちゃったのかもしれないねえ」
「それでも、チケットはちゃんと買ったんだよね、大阪行きの」
「確かに買ったつもりだった。だけど、スマートフォンでささっと購入したからなあ。日時も時刻も確かに今日のものを購入するためにお金を振り込んだけど、行先だけ間違っていたのかもしれないな」
「でも、乗るバスに行先とか書いてあるよね。それでなんで気が付かなかったの?」
「分からない。あの時は、アナウンスの乗車口にだけ気をとられていたからなあ。チケット自体も、QRコードをかざすだけだったから目的地が書いてあるわけでもなかったし」
間違ったバスに乗ってしまったことには、私にももちろん非がある。あの時、たしかに私は乗るべきバスのことよりも、これが最後の紅との旅行だ、紅は浮気をしている、そしてつないだ手が湿っているなどという今考えると甚だ恥ずかしい、どうでもいい思考に必死だった。
紅のスマートフォンが暗くなっていたため、ボタンに触れてみる。今の時刻が知りたかったのだ。3時12分だった。その表示の下に現在地と天気も表示される。福島県福島市、天気は晴れ、気温はマイナス3度とある。東京から西に向かっていると思いきや、北へ向かっていたのだ。どんどん寒くなっている気がしたのも当然である。
「紅は、いつから気が付いていたの?乗っているバスが大阪行きじゃないことに」
気になっていたことを聞いてみる。
「完全に気がついたのは、最初の休憩のためにサービスエリアに止まる直前、カーテンを少し開けた時に見えた足利の文字だけれど、最初にこのバスに乗った時から、少し変だな、とは思っていた」
「どうして?」
「あまりにも眠っている人が多いからさ。ふつう、東京から大阪に行く人だったら、俺たちみたいにこれから旅を始める人が多いから、そんなにすぐには寝付けないはずさ。実際、俺たちもアイマスクを付けていたけど、結局外しただろ?それなのに、あのバスの車内は、すぐに寝付く人が多すぎた。多分、東京観光やねずみの遊園地で遊び疲れた人たちなんだろうな。まあ、その時は少し疑問に思っただけだったけれど」
それについては、私も考えていたではないか。ここにいる人たちは、これから旅をする人ともう既に旅を終えた人の二種類に分けられる、と。そして、深夜バスを利用するのは若者が多い。山形は、若者が観光目的で行くような県ではないはずであるから、あのバスに乗っているのは、山形から東京観光にきた人々なのだろう。
「なんで、私に乗るバスを間違えたことを話してくれなかったの?」
それを聞くと、紅は頭を掻いて、先ほどのように申し訳なさそうな顔になった。
「いやあ、何となく、取り返しのつかないミスをしてしまったショックで、とりあえず隠そうとしてしまったんだよな、ごめんよ」
「別に隠してても絶対にバレるのに」
「そうだよな。たった4時間の間だけなのにな」
「だから私をあんなにおんぶしたがってたんだね」
「そうだよ、バスを振り返ったら、目的地が表示されているかもしれない、と思ってさ。なんとか他のことに意識を向けさせようと思って」
「でも、サービスエリアの名前を私が知ってたら、おしまいだったんじゃない?」
「たしかにそうだな。でも足利って地名は地味だから、もしかしたら菜乃葉は知らないかも、と思って。実際知らなかっただろ?」
そう、たしかに私はあのサービスエリアの名前を知らなかった。「足利」という名前を見ても、「足利義満」しか思い浮かばなかった。何となく、歴史の町なのかもしれない、と思っただけだった。
「でも、さすがにサービスエリアに入ったらどこにいるかくらいは分かりそうだけどね」
「それでも、菜乃葉は気が付かなかったよね。深夜だから外の地図とかも暗くて見づらいし、菜乃葉はコンタクトも眼鏡もつけていないから」
あの時のサービスエリアの記憶を思い返してみても、たしかに場所を特定できるような情報は何もなかった。ご当地物のお土産も売り切れからか、何も置いていなかったし・・・。え、もしかして。
「あそこにあったお土産って・・・」
「あ、バレた?そうそう、菜乃葉がトイレに行ってる間に、全部買い占めたよ。総額3万5千円。ストラップとか饅頭ばかりだったから、思ったよりはいかなかったけど」
「そこまでして隠したかったの?というより、商品はどこ?」
「買った後、すぐにバスに戻って座席の上にある棚に置いたよ。そして全速力でサービスエリアに戻って菜乃葉に声をかけた」
トラックの運転手に思いを馳せているとき、異常に息のあがった紅の姿を思い出す。きっと荷物を置きに一旦戻った時、ついでに私のスマートフォンのバッテリーを自分の物と入れ替えたのであろう。わずかの時間で、いずれはバレることと自分でもわかっていたのに、ご苦労なことだ。
紅が、もういいだろう、とばかりにさりげなく私の手からスマートフォンを取り返し、時間を確認した。
「もうすぐバスが出発する。あと二時間くらいで米沢に到着するけど、どうする?着いたらすぐに電車で帰るかい?それとも、米沢牛だけでも食べる?」
相好を崩し、それとも、の後は冗談を言うように両手を広げて笑いながら言った。
ふと、福島県の夜空を見上げてみる。星にあまり興味のない私でも、うっとり見とれてしまうような、不思議な力をもつ星たちが、夜空に浮かんでいた。鳥取生まれの私にとって、東北とは未踏の地だ。まさか、このような形で、訪れるとは思っていなかった。紅がおそらく考えていない選択肢について考えてみる。この一か月、私の思い違いから、紅に対しては警戒心や少しの嫌悪感を感じながら接していた。その勘違いが、紅のミスがきっかけだとしても、きれいさっぱりなくなった。
私は裏切られていなかった。よしんば、紅は、私のために、本当に下らない計画だったけれどサプライズを仕掛けようとしてくれていたのだ。おそらく紅が苦手であろう、サプライズを。
「山形で3日、過ごすのはどうかな?」
自然と私の答えが、気持ちが口をついてでた。さくらんぼしかイメージがない県だけど、今は紅と、何かの間違いで辿り付きそうな山形という土地を、旅したい。そう思ったのだ。
紅は、一瞬私の言ったことができなかったらしく眉根を寄せたが、徐々に元の位置に戻り、目を光らせ、ニヤリとしながら言った。
「いいとも!」
7
そこからの時間はあっという間だった。私たちは自分たちの山形行きのバスまで走り、山形へと帰っていく若者たちを起こさないように注意しながらそっと自分たちの席に座った。眠気は全くなかった。多分紅もそうだろう。バスの最初でそうしたように、紅は自分のスマートフォンを取り出し、イヤフォンを私につけさせて、録音しておいたスーツとピンクベストのお笑いコンビのラジオを再生した。ピンクベストが鎌倉でデートをするという、紅お気に入りのトークが入っている回だ。
二時間のラジオを、笑いを懸命にこらえながら聞き終わるのとほぼ同時に、車内アナウンスが流れた。さっきの放送とは違い、少し声が大きい。
「まもなく、バスは米沢へ到着いたします。お降りのお客様は、お忘れ物等ございませんよう、お気をつけてお降りください。繰り返します・・・」
8
そのアナウンスの数分後、バスが止まり、再び降車を促すアナウンスが入った。
「さあ、行こう」
紅の声を合図に、私は二泊分の荷物が入った荷物を、紅はそれに加えて足利のお土産を手に持って、バスを降りた。
時刻はまだ朝の5時。ほぼ暗闇であったが、かすかに灯る街灯で、雪が降っていることが分かる。しんしんと、という表現がふさわしい雪だ。
米沢市に、到着した。