【77:ひらりんはもう少しここにいたいんでしょ?】
「ああ。ここは一時間に一本しかバスがないから、これを逃したら次はまた一時間後だ」
「ひらりん、よく知ってるね。もしかしたら今までもここにバスで来たことがあるとか?」
──それって誰か他の女の人と一緒に来たとか?
急にほのかの胸に、ざわざわとしたものが広がる。
「いや。さっきバスを降りた時に、念のために帰りのバス停の時刻表を見ておいたんだ。なかなか帰れなくなって、ほのかを困らせたくはないからな」
「あ、そうなんだ……」
別に他の女性と来たわけじゃないのだとわかって、ほのかはほっとした。
──でもなんて抜け目のない男……
ちょっと驚きなながらも、凛太のそういう機転がきいて、相手のことを考えられるところがいいのよね、と思い直す。
──だけど、あたしは別にまだ一時間、ここにいてもいいんだけどね。
いや正直に言うと、凛太と二人でもっと海を眺めていたいと思っている。だけどそんなことを素直に口にできない。
「でもホントは、ひらりんはもう少しここにいたいんでしょ?」
「へっ? なんで?」
「あ、いや……」
もう少しここに居たいのはあたしです……
喉までそんな言葉が出るけど、やっぱり口にはできない。
ついさっき、もっと素直にならなきゃと考えたばかりなのに、なぜかなかなか素直になれない。
「だってこんなに可愛い女子と二人っきりで海を見てるんだよぉ。こんなチャンスは滅多にない。だからひらりんは、もうちょっとこの雰囲気を楽しみたい……そう思ってるんでしょ?」
ひらりんのことだ。きっと気を遣って、『そうだな』とか答えるだろう。願わくば気を遣うんじゃなくて、本心からそう思っててほしいけど。
ほのかはそう願った。
「いや別に。思ってない」
──なぁぁにぃぃぃ! そそそ、即答ですかぁ!?
こんな時こそ、気を遣って『思ってる』って言ってよぉぉー!
「あ、そうなの……」
──なによ、ムカつく。
ホントは自分の希望なのだから、そんな遠回しにしなくても、ほのかが自分からもう少しここに居ようと言えばいいことなのだけれども。
凛太にムカつく理不尽なほのか。
「だってさほのか。俺特に海が好きなわけじゃないから。もう充分堪能したし」
「あっそ」
──そんな話を聞きたいわけじゃない。
「それに今日は俺がどうしたいって言うより、ほのかのために行動してるんだから」
「あ、ああ。そうだね。じゃああたしがもう少し海を見ていたいって言ったら、もうちょっと付き合ってくれるの?」
「ああ、もちろん」
──そっか……そういうヤツだよね、ひらりんは。じゃあもうちょっとだけ一緒に……
「まあほのかが俺と一緒に海を見たい、なんてことはないだろうからなぁ、ははは」
「はぁ? も、もちろんそんなこと、あ、あるはずないでしょ。なにを言ってんのかな、ひらりんは?」
「もちろん冗談だよ。ちょっと場を和ませようと思って俺なり滅多に言わない冗談言ってみたんだけど……」
「そんな冗談笑えないから」
「あ、ごめん」
苦笑いをしながら頭を掻く凛太。その顔を見つめていたら、ほのかはふと凛太の唇に目線が言った。
引き締まった口元。そこに目が惹きつけられて離れない。
今、ここには凛太と二人きり。周りにいるのはニャーニャーと鳴くウミネコだけ。
海が見えるシチュエーションで二人きり。
二人きり。
思いっきり二人きり。
こんなチャンスは滅多にない。
──この雰囲気で、もしもあたしがキスをねだったら、きっとひらりんはグラっと来るよね。間違いなくグラっとくるよね!?
こんな美女がキスしてほしいような顔をしたら、いくら超鈍感な凛太でもその気になるに違いない。
そう思ったほのかはゆっくりと目を閉じる。そして少しあごを上げて、唇を尖らせて……
そうしようと思った瞬間、火照る頬にペチャっと冷たい水滴を感じた。
「あっ、雨が降ってきた! ほのか、行くぞ! バス停まで走ろう!」
「へっ?」
ほのかが目を開けると、凛太はほのかの肩をぽんぽんと叩いて、国道の方を指差していた。
突然振り出した雨は大粒で、いきなりざーざーと強い雨足になる。確かにこれはヤバい。
「あ、うん」
──んもうっ! なんでこんなに間が悪いのよぉぉ!
心の中で叫びながら、ほのかは凛太の背中を追いかける。砂浜から上がるコンクリートの階段を駆け上がり、バス停の屋根の下に逃げ込んで雨をしのぐ。
ほんの数分待っていたら、凛太が言っていた帰りのバスがやって来て、二人でそれに乗り込んだ。
***
「これからどうする? もうほのかのお母さんは帰っちゃったし、擬似デートを見せるっていう意味では、駅に着いたらもう解散だな」
帰りのバスの中。二人で並んで座席に座り、凛太はほのかにそんなことを訊いてきた。
確かに凛太は、擬似デートだという思いしかないのだから、この判断は妥当だろう。しかしほのかには、このまま凛太とのデートを続けたい思いもある。
けれどもほのかも、服が雨に濡れてしまったことも気になる。それにさっき自分の中で最高潮に盛り上がっていた気持ちが、雨のせいでそれこそ水が差されて気が抜けてしまったのも事実だ。
そしてそれよりも何よりも、ほのかは急に母のことが気になり出した。
さっきはとにかく母の目の前から逃げ出したかったし、凛太と二人になりたかった。しかしあれから少し時間が経って、母親のことはきちんと対処しなきゃいけないのだという気持ちになっている。
これはもう『お見合いを避けるため』なんてものじゃない。自分も自覚してしまった凛太への想い。それを成就させるためには、なんとしても母に凛太を認めさせなければならない。
ほのかは考える。
今の自分は、昨日までの自分と違う。
昨日までの自分は、うまく言い繕って母に見合い話を諦めさせようと考えていただけだった。
しかし今の自分なら母に自分の想いをきちんとぶつけることで、なんとか母を説得できそうな気がする。
それならばできるだけ早くちゃんと母と話をして、凛太のことを認めさせたいと思う。
「うん。今日はもう帰ろうか。ウチに帰って、きちんとママと話をするよ」
「そうだな。それがいいと思う」
「うん」
「でも……ごめんなほのか」
「なにが?」
「いや、俺の力不足のせいで、お母さんが認めてくれないなんて、今日の目的をまったく果たすことができなかった」
「なに言ってんのよ、ひらりん。今日はホントにありがとう。めちゃんこ感謝してる」
「気を使ってくれてありがとう。でも俺は役立たずだったからな。詫びしかないよ」
凛太は心底申し訳なさそうな顔をしている。
自分が擬似デートなんてことをお願いしたせいで、凛太にこんな想いをさせてしまって自分の方こそ申し訳ない。だけど今日は凛太のことをたくさん知れて良かった。
ほのかは心からそう思った。
「ひらりん。役立たずなんかじゃないから。ホントにありがとう。あとはママにちゃんと理解してもらうのは、あたし自身の仕事だから」
「そっか、わかった。うん。ほのかならやれるよ。また俺が協力できることはなんでもするから言ってくれ」
「うん。また何かお願いしたことがあった時はお願いする」
「うん。わかった」
そんな会話をしているうちに、バスはターミナル駅に着いた。バスを降りて二人は駅前で手を振って別れる。
「さあ、いっちょがんばりますかっ!」
さあ、母親と決戦だ。
凛太と別れたあと、ほのかはそう自分に気合を入れて、電車に乗って自宅に向かった。