【53:所長、俺が焼きますよ!】
「平林君、お疲れ様。はい、乾杯」
「お疲れ様です、所長! 乾杯っ!」
俺はビールのグラスを、所長のチューハイのグラスとかちんと合わせた。
ここは駅近くの焼き肉屋。
神宮寺所長に「どんな店に行きたい?」と訊かれて、反射的に焼き肉屋と答えてしまったのだ。
俺は焼き肉が大好きだけど、なぜか焼き肉屋さんって一人では入りにくい。牛丼屋は入りやすいんだけれど。
東京では一人焼き肉屋なるものが結構流行っているが、地方都市にはまだほとんどない。
だから志水営業所に転勤してきて、こりゃしばらく焼き肉は食う機会がないなぁと、日々悲しく思っていた。
ところが、そんな中での「どんな店に行きたい?」という所長のお言葉。
俺が反射的に焼き肉屋と答えたからと言って、誰も俺を非難することはできないはずだ。うん。
だがしかし──
所長が「わかったわ」と答えた後になって、こんなモデルみたいな見た目の女性は、果たして焼き肉屋なんて行くのだろうかという、変な疑問が湧いてきた。
でも所長が「私も焼き肉は大好きよ」と言ったものだから、今日は焼き肉屋ということで確定したのだ。
「さぁーて、早速焼きますか」
神宮寺所長はスーツの上着を脱いで、白いブラウスの袖をまくってそう言った。
いつも上着を着ているから気がつかなかったけど、所長はやっぱりスレンダーで、だけど出るところはしっかりと出ている。さすがにスタイル抜群だ。
そして所長が肉を掴むトングを握りしめたので、俺は慌てて手を伸ばした。
「あ、所長スミマセン。俺が焼きますよ!」
「いいって、いいって。今日は平林君の慰労会みたいなものだから、私が焼くわよ」
「いえいえ。所長にそんなことさせられませんって。俺が焼きますよ」
所長の手の中にあるトングを掴もうとしたら、所長が俺から手を遠ざけようとした。俺の手はそれを追いかけて、トングを掴んだら……
──むぎゅ。
「あっ……す、スミマセン! わざとじゃありません! 信じてくださいっ!」
うっわ! やっべぇ!
トングを掴むつもりが手元が狂って、トングを持つ所長の手を上からぐいっと握ってしまった。
とんだセクハラ野郎だと軽蔑されたかも……
「平林君。そんなに焦らなくても大丈夫よ。わざとじゃないのは、充分わかってるから」
「あ、すみません。でも女性の手を握るなんて……」
「高校生じゃあるまいし、それくらい大丈夫だって」
「そ……そうですよね、あはは」
「でしょ? ははは」
神宮寺所長は、なんとなく顔が引きつっているようだけども、笑って許してくれた。
だけど、高校生じゃあるまいし、とか言ってる割には照れた顔をしている。そして所長は照れを隠すかのように、チューハイをグイと飲み干した。
俺も照れ隠しに、所長に合わせてビールを飲み干す。
「あ、平林君イケるね。もう一杯おかわりする?」
「はい、お願いします」
そう言えば、ついこの前もルカの手を握ってしまった。ホントにわざとじゃないのに、なぜかこんなことが続いている。
俺のうっかりだ。気を付けなきゃいけないな。
それにしても……
ルカの手は柔らかい感じだったけど、所長の手は細くて華奢な感じ。
女性の手も、色んな感触があるんだな。
──なんてことに、生まれて初めて気がついた。
「でもホントに、加賀谷製作所さんの件では平林君様々だわ。ありがとう。よくがんばってくれたわよね」
「いえ、所長。実は俺……所長の言葉に感動して、がんばりたいって思ったんですよ」
「私の言葉? なにそれ?」
「ほら。専務と会った日。帰りの車の中で、所長はおっしゃったじゃないですか。『私には自分のことよりも、営業所のみんなを守る責任がある』って」
「えっ? ああ、言ったわね」
「俺、あれにぐっときたんですよ。そんなことを言ってくれる上司の下で、仕事をできるって最高だなぁ……って」
「平林君……別に……そんな大したことじゃないわよ」
「いえ。あの言葉があったから、俺は、俺たち所員には所長を守る責任がありますって言ったんですよ。いや、言っただけじゃない。ホントに心からそう思いました」
所長は黙ったまま、真顔で俺をじっと見つめている。
酔いでほんのり染まった頬。
少し切れ上がった綺麗な目。
小顔で鼻筋が通って、美しく整った顔。
襟元でお団子にした黒髪が、より一層凛として見える。
そんなモデルばりの美人にじっと見つめられたら、やっぱりちょっと照れ臭い。
「平林君……」
「はい……?」
「まあ飲みなさいっ!」
「へっ?」
所長は俺のグラスを手に取って、俺の目の前にぐいっと差し出した。
「あ、はい」
所長からグラスを受け取って、俺はビールをグイッと飲む。
「よしよし。なかなかいい飲みっぷりよ」
嬉しそうな顔で、所長もまた自分のチューハイをぐいぐい飲んだ。
「うーん、美味しいっ! 今日のお酒は最高だわ」
今日の所長は、なんだかとても嬉しそうだ。
加賀谷製作所の件がうまく行ったのが、俺が想像していたよりも随分と嬉しいようだった──
「こら、平林ぃ〜 ……飲んでるか~?」
──うわ、しまった。
焼き肉をつつきながら雑談をして飲んでいたら、ふと所長の目が据わっていることに気づいた。口調も普段の冷静で上品な感じから、ちょっと荒くなっている。
俺の歓迎会で所長がベロベロになっていた姿が頭をよぎる。
ジューシーで旨い焼き肉のせいで酒が進む。
そして何より、所長があまりに楽しげに飲んでるものだから、ガバガバ飲んでいる所長を抑えることを忘れていた。
しまったと今さら後悔しても、もう遅い。
「あ、はい。飲んでますよ」
「よろしいっ!」
そう言って所長は、またグイッとチューハイを飲み干した。