第三十一話 再会~揺れる心~ ②
「……ひどいなぁ~~何も思いっきり引っ叩かなくてもいいじゃないか……」
唇を尖らせるジュリアンが、頬にくっきりと刻まれた赤い手形を擦りながら悄然と呟くや、その痛々しい印を刻んだ張本人は、未だ火照って冷めやらぬ顔を背けたまま棘のある台詞を返す。
「誰が? 何時っ? 私に気安く触れて良いと言ったの? 痴漢行為は唾棄すべき犯罪よっ! GPOに突き出されなかっただけでも有難いと思いなさいッ!」
「ち、痴漢って事はないだろう……だって、本当に嬉しくてさ。頭の中が真っ白になって、気付いたら抱き締めていたんだ……悪気はなかったんだよ」
そんな二人のやり取りを傍で見ていたサクヤは、ジュリアンが弁解の台詞を口にした途端、そっぽを向いたユリアの頬を彩る朱が益々その色を濃くしたのを目聡く発見し、その初々しい反応に笑みを漏らさずにはいられなかった。
(あっ……また赤くなったわ。やっぱり『嬉しくて……』という部分に反応したのかしら? ツレナイ態度をとってはいても、やはりユリアさんも彼を……)
如何にも恋愛慣れしていない少女の反応が微笑ましくて口元を綻ばせたサクヤだったが、それを見咎めたユリアから雷鳴の如き糾弾の声が飛んで来れば、首を竦めて表情を取り繕わざるを得ない。
「サ、サクヤさんっ! 何ですかっ? 何か仰りたい事があるのですかっ!?」
半分涙目で抗議する姿までもが愛らしく、いけないと思いつつも含み笑いが零れるのを我慢できないサクヤ。
「どうして笑うのですかっ? わ、私は怒っているのですからねっ! 断じて! そこの不埒者の言葉が嬉しかったとかじゃないんですからぁッ!」
語るに落ちるとはこの事なのだが、羞恥に煽られて速射砲のごとき勢いで文句を並べるユリアは、それに気づかず頬を大きく膨らませて拗ねてしまう。
そして、そんな彼女の仕種が新鮮だったのか、陶然としてユリアに見惚れているジュリアンの様子が、更にサクヤの笑いのツボを擽るのだった。
しかし、お茶会の席での談笑ならばいざ知らず、自分達を取り巻く事態も逼迫しており、悠長に和んでいる余裕がないのも事実だ。
折角の楽しい会話を中断させるのを残念に思いながらも、サクヤは表情を改め居住いを正した。
「さて、お互いに余り時間もありませんので、本題に入らせて戴きます」
その声を潮時にジュリアンは表情を引き締め、一瞬で【鬼才】と呼ばれる商人の顔へと変貌を遂げ姿勢を正す。
「そうですね。伺いたい事が山ほどあります……」
彼のその言葉に頷いたサクヤは、これまでの詳しい経緯を語るべく口を開いた。
◇◆◇◆◇
「我らの盟主である白銀達也が目指す世界の姿と、今後の戦略構想は以上です……また、アルカディーナの方々の同意を得た上で、領地となりました惑星セレーネと他の惑星や衛星については鋭意調査中です。有用な資源等の有無については、その調査結果を待って検討課題としたいと考えております」
無言で聞き役に徹しているジュリアンから一度も視線を切ることなく、サクヤは何一つ包み隠さずに自分達が置かれている現状を開陳した。
(この一か月の間……我々が死んだと思われていた間にロックモンド財閥の方針が変化したのか否か……それが最大の問題だわ)
如何に優れた英雄であっても、死んでしまえばそれまでだ。
死者に期待する者は誰もいないし、剰え、資金協力や投資をしようという物好きな商人が存在する筈もないだろう。
ジュリアン・ロックモンドが、傑出した才能を持つ天才商人であればあるほど、その時勢を見極める慧眼には超一流のものがあり、甘い情に拘泥して判断を誤るとは考えにくかった。
最悪の場合、一度は確約された協力関係を白紙に戻されるのではないか……。
サクヤはこの一点のみを懸念していたのである。
しかし、ジュリアンを純粋な取引相手、もしくは同志だと認識できないユリアは、心中複雑な想いを持て余さずにはいられなかった。
久しぶりに再会した彼からは、出逢った時の何処か鬱屈した傲慢さは欠片ほども感じられず、それどころか、鋭利な商人としての風格さえ漂わせているのだから、ユリアが困惑するのも無理はないだろう。
然も、嘗ては忌み子と忌避された己の無事さえ涙ながらに喜んでくれる人情家の一面を目の当たりにすれば、ジュリアンに対する想いが大きく変化していくのを朧気ながらも自覚せざるを得なかった。
その想いとは、彼女がこの世で何よりも大切にしている家族に向けている愛情と何ら代わるものではなく……。
しかし、それを認めるのは気恥ずかしくて、つい辛辣な言葉で罵倒し、ぞんざいな態度を取ってしまうのだ。
そんな相反する想いの狭間で心を揺らすユリアだったが、ジュリアンという人間を好ましく想っている気持ちに偽りはなかった。
自らの過ちに気付くや、それを悔い改めることを躊躇わない真摯な性格の持ち主だし、彼女の素性が帝国十八姫……呪われた忌み子だと知っても嫌悪や憐憫の情を懐くでもなく、それどころか身を挺して護ろうともした。
そんな素晴らし人間だと知るからこそ、父と自分達の困難な状況に捲き込んで、曾祖父の代から営々と築き上げてきたものを、可惜危険に晒させることに引け目を感じてしまうのだ。
(寧ろ、これで良かったのかもしれない。私達が死んだと知った彼が冷静になって熟考したのであれば、選択した行動が如何に無謀な賭けかは認識できた筈)
自分達を取り巻く劣悪な状況を理解しているからこそ、彼女の懸念は至極当然のものだったし、だからこそ、それを理由にして協力関係を破談にされたとしても、ジュリアンに対し不条理な怨みを懐きたくはない……。
その一念でユリアは自分自身を納得させたのだ。
それは、ある種の自己防衛本能だったのかもしれないし、彼に対する特別な感情が、少女にそう決意させたのかもしれない。
とは言え、ロックモンド財閥総帥として責任ある立場にいるジュリアンが、無謀な選択をする筈がないと、ユリアは半ば諦観していたのだ。
しかし、それぞれの思惑を胸に秘めた女性たちを前にした彼は顔色一つ変えず、然も当然の様に肯定の意を示して彼女達を驚かせるのだった。
「なるほど、前回の会談の時から大きく状況は好転していますね。何よりも本拠地を手に入れたのが大きい。星系内の他の惑星の状況次第では、想定外の不運による出遅れを挽回するのも充分可能だと思います」
微塵も迷いを感じさせない流麗な物言いには強い意志が込められており、唖然とするサクヤとユリアは返す言葉を失ってしまう。
だが、直ぐに我を取り戻したユリアは激昂し、無謀な決断を下したジュリアンに食って掛かった。
彼が示した意志は、本来ならば自分達にとって喜ぶべき事ではあるのだが、その所為で、否応なく困難な道を歩むのを余儀なくされる人々の存在を彼が軽視した様にも思えてしまい、どうしようもなく腹が立ってしまったのだ。
「あ、あなたっ、いったい何を考えているのよっ!? 勝算の低い博打に大財閥の命運を賭ける気なの? 関連する企業連合まで入れれば、どれだけの従業員とその御家族の人生を巻き込むか分かっているのっ!? その程度の損得勘定ができないあなたじゃないでしょう!」
いつもは波紋ひとつたたない水面のように物静かなユリアが、柳眉を吊り上げて激情を露わにしたものだから、まだ付き合いは短いとはいえ、ともに一つ屋根の下で暮らしているサクヤでさえ、彼女の剣幕に驚き言葉を失ってしまう。
しかし、ジュリアンは一切動じず、峻厳たる眼差しを以てユリアの想いを正面から受け止めた。
「そうだね……相手は銀河連邦という巨大なバケモノだよ。気安く喧嘩を吹っ掛けていい相手じゃない……だが、勝てない相手でも……ないッ!」
片方の口角を軽く上げて笑みを浮かべるジュリアンは、不敵にもそう言い切って見せた。
その強い意志を目の当たりにしたユリアは反論する言葉を失い、呆然と彼を見つめるしかない。
「ユリア。僕は軍人じゃない……商人だよ。僕の仕事は君のお父さんを最後の戦いの場に送り出すこと……その為ならば、持ちうる全ての財を投げ打っても惜しくはないし、財閥の総力を駆使してでも、必ず道を切り開いて見せる!」
そう強く言い切った彼は、小さく吐息を零して間を置いてから再び口を開く。
「どれほどの困難が待ち受けていたとしても、成さねばならないことがあるのなら逃げる訳にはいかない。また、他人事の様に傍観することも許されないんだよ……ならば戦って勝つしかないだろう? この世に百%勝てる勝負なんかひとつもありはしないけれど、勝算が低いのならば、あらゆる手段を講じて上げれば良いのさ。そして、最後に勝つ算段をつける……それが僕の戦争だ」
そう言い放つジュリアンからは、自分の不遇な生い立ちや薄い家族との縁を嘆いていた、嘗ての少年の面影など微塵も感じられない。
聡明なユリアは自分の認識が甘かったのを理解し、同時に彼を見縊っていた己の不明を恥じ入るしかなかった。
(覚悟を決めたのね。果てしない暗夜の道を歩いていくと……まるで……)
眼前の少年の顔が、つい先日垣間見た敬愛する父親の横顔と重なる。
そんな馬鹿なと、慌てて頭を振って不埒な妄想を振り払おうとしたが、不意打ち同然にポンポンと軽く頭を叩かれて思考停止状態に陥ってしまった。
いつの間に距離を詰めたのか、目と鼻の先に立つジュリアンに頭を撫でられている状況に驚きを禁じ得ないユリア。
「ちょ、ちょっと! な、なにを……」
「心配してくれてありがとう。でも、もう決めたんだ。君のお父さん、白銀達也に僕の持つ全てのものを賭けるってね。そして、その上で勝つ! 財閥も社員もその家族も……そしてユリア、君も絶対に護ってみせる」
その言葉を受けたユリアは身体の熱量が一気に膨張するのを弥が上にも理解するしかなかったが、朱色に染まった己の顔を想像するだけで更なるパニックに見舞われるのだった。
(な、なにを言っているのよ、コイツはっ!? こ、この男はゾウリムシでっ! 我儘なガキでっ! そ、それが、私を護るってぇ─っ? う、嘘よっ! こんなの幻よぉッ! こんなのジュリアンじゃないぃ──ッ!!)
その混乱の最中に、真横から生温かい視線が向けられているのに気付いたユリアは、反射的に首を巡らせて隣のサクヤを睨んだ。
そこには、『あらあら、まあまあ……これは、これは。クレア姉さまに報告しなくては……うふふふっ!』と、心の声が駄々洩れ状態のサクヤが、清々しいまでの微笑みを浮かべているではないか。
近い未来に陥るであろう羞恥地獄を脳裏に思い浮かべたユリアは、信条でもある冷静さを投げ捨てるや、盛大な自爆を遂げるのだった。
「あっ、あぁ……ち、違いますからっ! サ、サクヤさんが考えているようなことは……絶対にそんなんじゃないんですからあぁぁッッ!!」
豪奢な執務室に少女の羞恥に満ちた絶叫が響き渡った件は、耳朶の先まで真っ赤にした少女の必死の懇願により、その場にいた三人だけの秘密にされたのだった。
◇◆◇◆◇
「銀河系内の我が財閥の活動拠点を結んだ輸送ネットワークは構築済みです。関係各省に認可されれば、直ちに運用を開始する予定です」
「そこまで手筈が整っているなんて……達也様に成り代わって御礼申し上げます」
ジュリアンとサクヤは会談を再開したのだが、どうにも居心地が悪くて仕方がなく、会話も何処かぎこちないものになってしまう。
それもその筈で、ふくれっ面のユリアから恨みがましい視線で睨みつけられているのだから、二人が落ち着かないのも当然だった。
しかし、下手に慰めたり言い訳をしようものならば、完全にヘソを曲げてしまいそうな雰囲気だったので、二人は素知らぬ顔を取り繕うしかなかったのである。
「とんでもないです。この程度は計画の手始めに過ぎませんよ。ですが白銀軍……いえ、この際ですから梁山泊軍と呼ばせて貰いますが、この輸送部門を物資の輸送や情報収集、そして人員の移動や連絡手段として活用すれば大きな戦力になるでしょう。対外的にも我が財閥内の一部門扱いですから、どんな活動をしても疑われる事はないでしょう」
「その事実を知るのは?」
「私と一部の重役だけです。実質的に財閥の最高経営会議のメンバーですね。信頼の於ける者達ばかりです。その点は僕を信用して貰うしかないのですが……」
達也やユリアと出逢った時の騒動で、親族や重役達に裏切られた過去があるだけに、ジュリアンは自虐的な微笑みを浮かべたのだが……。
サクヤは身動ぎもせずに泰然とした微笑を浮かべて言いきった。
「全てを投げ打って支援下さる貴方様を疑う様な不実な真似はできません。万が一にも不測の事態が起こり裏切り者が出たならば、私がこの命を以てお兄様に御詫び申し上げます……ですから、些細な事は御気になされますように」
見惚れる美貌の主が口にした凄絶な覚悟を目の当たりにし、今度はジュリアンが息を呑んで刮目する番だった。
こうして最低限度の合意を果した二人は達也との会談を実現するべくセレーネ星へと向かい、任務を継続して地球に向かわねばならないユリアとは一時的に別れる事になる。
あれ以降一言も口を利こうとしない少女にせめて別れの挨拶を……。
そう渇望したジュリアンだったが、転移の為に窓辺に歩み寄るユリアの背中から立ち昇る拒絶オーラに当てられ、言葉を掛けそびれてしまう。
(仕方がない……今度再会した時にでも謝ろう)
そう諦めかけた時だった。
「ジュリアン……」
強化ガラスの手前で立ち止まったユリアが、背を向けたまま彼の名前を呼んだ。
「ありがとう……私達が生きていると信じていてくれて……本当に、う、嬉しかったわ……」
感情が抜け落ちたかの様な素っ気ない感謝の言葉。
だが、それがユリアにとって最上のものであるのをジュリアンは知っている。
だから嬉しくなって返事をしようとしたのだが、まるで逃げる様に少女は転移してしまうのだった。
(直ぐにまた逢えるさ……その時はちゃんと話をしよう。再会できる日を楽しみにしているよ、ユリア)
ジュリアンは彼女が立っていた場所に優しげな視線を投げて、そう心の中で呟いたのである。
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