第二十九話 流転する世界 ①
「おはようございます皆さま。今日も朝から快晴のようで気持ちの良い一日になりそうですわね」
白銀邸の忙しない朝の食堂に於いて、そのサクヤの朗らかな言葉に違和感を覚えなかったのは、当の本人と子供達ぐらいのものだろう。
クレアや由紀恵ら、その場にいた大人たちは皆一様に驚いて目を丸くする他はなく、サクヤの乳母であるバーグマン伯爵夫人マリエッタに至っては、顔を蒼白にして取り乱し、今にも卒倒しかねないほどだ。
大人達と子供達で反応が分かれたとはいえ、その原因がサクヤの容姿にあるのは間違いなく、彼女のトレードマークだった美しい藍青色の長髪が短く切り揃えられているのだから、大人達が驚くのも無理はなかった。
一体全体何が原因でこの様な仕儀に至ったのか、推し量る術もないクレアは狼狽するしかなかったが、この場で姫君を問い詰める悪手は選択せず、由紀恵や秋江を促して子供達を学校に送り出すのを優先したのである。
※※※
「姫さまッ! 皇王家の婦女子が髪を切るという行為が如何なる意味を持つのか、御存知ないとは言わせませんわよっ!?」
まるで此の世の終わりを見たと言わんばかりに取り乱すマリエッタは、掌中の珠である姫君に対して珍しくも非難の声を上げる。
それもその筈で、皇王家の婦女子が髪を切るという行為は、大切な伴侶や許婚を喪った時、永遠の操を奉げるという決意を表明する儀式に他ならないからだ。
そのマリエッタの説明を聞いて、サクヤの身に何があったのかを正確に看破したクレアと由紀恵は、慚愧の念に囚われて表情を曇らせてしまう。
しかし、当のサクヤは微苦笑を浮かべながらも、柔らかな口調で乳母を窘めた。
「今更その様な仕来りに縛られる必要などないでしょう? 大袈裟に騒がないで、マリエッタ。クレアさまや由紀恵さまが吃驚されているじゃない」
「し、しかしっ!?」
柳眉を吊り上げて反論しようとするマリエッタを手で制した皇女は姿勢を正すや、その真っ直ぐな瞳をクレアに向けた。
「昨夜、あの浜辺の木立の傍に私もいたのです……御二人のお話を盗み聞きした破廉恥な行為をお許しください」
真摯に頭を下げて謝罪するサクヤに対して掛ける言葉が見つからないクレアは瞑目し、続けて姫君が吐露した切ない話を黙って聞くしかなかったのである。
「達也様は私の気配に気づいていたらしく、クレア様がお帰りになった後で告げられたのです……『君を異性としては愛せない』……と」
その独白にマリエッタは息を呑み、由紀恵は小さな溜め息を漏らしてしまう。
そして、クレアは沈痛な面持ちで無言を貫くしかなかった。
サクヤの一途な想いが必ずしも報われるとは限らない……。
年嵩の二人は、半ばそう考えていた。
それでも強く反対しなかったのは、一方の当事者であるクレアが自分の心を押し殺し、サクヤの恋心を後押ししていたからだ。
それ故に彼女達にしてみれば、残念だとは思いながらも、この結末は想定内だったと納得するしかなかったのである。
しかし、達也がサクヤの好意を拒んだという事態は、クレアにとっては青天の霹靂以外の何ものでもなく、己の所為で姫君の願いが潰えたのだと知れば、遣る瀬ない想いに胸が痛んだ。
仮にどんなに言葉を尽くして慰めたとしても、サクヤにとっては残酷な追い打ちにしかならず、そこに救いはないだろう。
そう思えば尚更後悔が募るクレアは、臍を噛む思いに悄然として俯くしかなかったのである。
(アナスタシア様の熱意に絆されたとはいえ、結局は何もして差し上げられなかった……達也さんにも要らぬ心労を掛けたばかりか、私の考えが足らなかったばかりに、サクヤ様に御髪まで切らせてしまった……)
落胆し悔恨の情に苛まれるクレアだったが、そんな彼女を救ったのは、他ならぬサクヤの言葉だった。
「心から感謝いたしますクレア様。貴女様の御厚情がなければ、私は今でも皇宮の自室に籠ってウジウジと思い悩んでいたでしょう……ですが、私は貴方様に背中を押して頂いて自分の想いを形にできました。願いは叶いませんでしたが、この結果に納得している自分を誇りに思えます。これも偏に貴女様のお蔭ですわ」
クレアは居ても立ってもいられずに姫君の手を自分のそれで包むや、掠れた声で詫びた。
「私が軽々に突っ走ったばかりに姫様に辛い想いをさせてしまいましたね。どうかお許しください……叶うのであれば御気の済むまで罵って下さいませ」
重ねられた彼女の手をサクヤも両の手で包み返すや、微笑みと共に頭を振る。
「そんな不義理な真似はできません。達也様には貴女様が必要なのです。苦しみを抱えながら必死に戦っていたあの人の心の悲鳴に私は気付けなかった……彼の痛哭を察して支えたのはクレア様、貴女だけです。どうか御自分を責めないで下さい。私は本当に心から感謝しているのですから」
「サクヤ様……」
クレアはその言葉に救われた思いがして、彼女の温かい手を強く握り返し潤んだ瞳で謝意を伝えたのである。
厄介な事態には至らず、由紀恵はホッと胸を撫で下ろしたのだが、大切な姫君を粗略に扱われたと憤るマリエッタは、どうにも無念が治まらないようで……。
「それにしても、あまりに薄情な仕打ちではありませんか!? 幼い頃からお慕いしている姫様の想いを一度は受け入れておきながら……今更……今更っ!」
と涙ながらに訴える。
彼女とて今回の件でクレアがどれだけ親身になってサクヤの為に献身してくれたかは理解している。
だからこそ、行き場のない怒りを達也に向ける他はなかったのだが……。
「それは違います。マリエッタ。達也様は御自身の損得よりも私の未来を慮って下さったの。そして、敢えて悪者になって御自分が憎まれる様に仕向けたのです。それは偏に傷ついた私を気遣ってくれたからに他ならないのですから」
その言葉に姫様大事の伯爵夫人は不満げであったが、クレアと由紀恵は彼の性格を知るだけに納得するしかなかった。
「たとえ嘘でも『愛している』と言われていたら、私は何も気づかないフリをして傍にいることを選択したでしょう……でも、嘘で塗り固めた未来にあるのは虚しさだけです。だから、達也様は私が幸せを掴む道を残して下されたのです。その厚意を無にしてはランズベルグ皇国第一皇女の名が廃りましょう?」
そう言ったサクヤは今まで見た中で最高の笑顔を浮かべていた……少なくとも、この場にいた三人にはそう見えたのだ。
「ですから、私も達也様に負けぬよう精進します。妻にはして貰えませんでしたが、【出来の良い妹】ぐらいには思って下さるそうですから、今日からは兄を助ける妹として頑張ります。クレア様……いえクレア姉さま。これからも宜しく御願い致しますね」
そう決意表明をしたサクヤの美しい顔には、晴れ晴れとした彼女の心情が滲んだ微笑みが浮かんでいたのである。
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『白銀達也死す』という報は銀河連邦評議会に所属する各勢力に少なくない動揺を齎したものの、騒動は早期に沈静化していった。
どれだけ世間的に認知された有能な人間だとはいえ、達也は銀河連邦のいち軍人に過ぎず、然も反逆者のレッテルまでもが貼られたとあっては、それも至極当然の成り行きだろう。
その所為もあって、表面的には平穏な日常を取りもどした銀河連邦であったが、水面下では【神将】の死と同時に勃発した激震とも言うべき災禍によって、混乱の極みといえる様相を呈していた。
『ゲルトハルト・エンペラドル元帥の死』……この突然の訃報が連邦内外に齎した影響は計り知れない。
少なくとも、銀河連邦という巨大組織の実に六割方を占める貴族閥。
その大勢力を二分する一方の雄であるエンペラドル派総領の死は、大なり小なり銀河連邦に関わる者達の未来を左右するに足る一大事に他ならなかった。
※※※
真新しくなった階級章に時折注がれる羨望と嫉妬の視線……そんな卑小な輩を一顧だにしないローラン・キャメロット大佐は、僅かな感情の揺らぎもない表情のまま恭しく頭を垂れる。
彼の正面、数段高くなった壇上に設えられた豪奢な肘掛け椅子に身を委ねるのは、今や銀河連邦の実質的な支配者になったと言っても過言ではない、カルロス・モナルキア大元帥その人だった。
大元帥に昇進し位階を極めたモナルキアは、彼の眼前に居並び頭を垂れている、三百人にも及ぶ高位貴族達の領袖でもある。
そして現在、着々と自派の勢力を拡大させ、軍部と評議会の双方で影響力を不動のものとし、銀河連邦そのものを手中に収めつつあった。
「長きに亘って我が盟友であった、ゲルトハルト・エンペラドル大元帥閣下の死は痛恨の極みであったが、彼の崇高な意志を無にしてはならないっ! 私は友が生前目指していた連邦改革に身命を奉げる事を此処に誓うッ!」
老齢を感じさせぬ勢いで立ち上がったモナルキ大元帥は、眼下に居並ぶ配下達に大仰な口調で宣言して見せる。
それは自己陶酔した挙句の軽薄極まる驕りではなく、計算され尽くしたパフォーマンスに他ならない。
政敵であったエンペラドルが、白銀達也の捨て身の特攻に巻き込まれて落命したという事実を殊更に強調する事で、彼の前に平伏す配下の中の、元エンペラドル派だった者達の歓心を買う為の演技に過ぎないのだ。
事実、あの事件以降僅か一ヶ月の間に、連邦内の勢力図は大きく変動した。
盟主を失ったエンペラドル派の動揺は著しく、目端の利く者たちは早々に伝手を駆使してモナルキア派への寝返りを図ったのである。
その動きは軍部に留まらず評議会にも及び、今やモナルキア派以外はものを言えないという雰囲気まで醸成されつつあった。
モナルキアは愉悦の絶頂のなかで恍惚とした笑みを浮かべ、漸く手にした至福の時に酔い痴れる。
(エンペラドルよ悪く思わんでくれ。だがのう、功を焦って自ら墓穴を掘ったのはお主じゃ、自業自得だったと諦めてくれ。くっくっくっ……)
愉快で愉快で仕方がなく、思わず哄笑してしまいそうになるのを、懸命に我慢しなければならなかった。
眼下に居並ぶ配下たちの最前列で恭しく頭を垂れているキャメロット大佐に深い信頼の眼差しを向けるモナルキアは、胸の中でひとりごちる。
(巧妙な罠を張り巡らせ、エンペラドルどころか、目障りな白銀まで葬った上に、動揺する敵派閥をあざやかに切り崩して有益な者どもを篭絡せしめたとはのう……ローラン・キャメロット……まさに良い拾いものだったわ)
綺羅星の如き将官達が居並ぶなかに在って、大佐に過ぎない彼が領袖に一番近い位置にいるという事実が、彼らの盟主が誰を最も信頼しているのかを如実に物語っていた。
そして、その現実に表立って異を唱える者はいない。
だがそれは、ローラン・キャメロットという男の実力を、古参貴族達が認めたという訳ではなかった。
出自すら定かではない下級貴族出身の男に嫌悪感と侮蔑の感情を懐きながらも、利用できる限りは利用しようという魂胆故の沈黙に過ぎないのだ。
(反発して存分に噛み合うがいい……じゃが、この寡黙な男が、その仮面の下に獰猛な素顔を隠しているという真実に何人が気付くかのう)
無能者は配下に必要ないと考え、この機に配下の選別も済ませようと思い立った大元帥は、早々にキャメロットを再昇進させる算段を思案するのだった。




