第二十八話 うそつき ③
「……二か月ですって……赤ちゃん……」
先程までの優艶とした態度は何処へやら……。
忙しなく視線を泳がせるクレアは、消え入りそうな声で告白した。
どんな反応が返って来るか気になって仕方がないが、気恥ずかしさが先に立って真面に達也の顔すら見れない。
打ち寄せる波の音と自分の心臓の鼓動だけが耳の奥に響くのだが、その規則正しいリズムが余計に緊張を高めてしまうのだから始末に悪い。
しかし、本来ならば、何かしらのリアクションがあって然るべきなのだが、言葉ひとつさえ掛けて貰える気配がないのはどうした事か……。
あらぬ疑念が胸の中で膨らみ、詮無い考えが浮かんでは消える。
(ま、まさか……子供なんか望んでいなかったのかしら?)
不安に苛まれて思わずお腹に手を添えたクレアは、ありったけの勇気を振り絞って顔を上げた。
果たして、そこには……。
※※※
(はっ?……二か月? 何が? 赤ちゃん? 赤ちゃんって何?)
普段は凛とした態度を崩さないクレアが照れた仕種でモジモジしているだけでも珍しいのに、その唇から零れ落ちた言葉は、まさに達也を混乱の坩堝に叩き落とすのに充分な効果を発揮した。
困惑した挙句の脳内反応がこの為体だったのだが、妻が縋るような視線で自分を見つめながらも、右手をお腹に添えたのを見た彼は驚倒し、漸く告白の意味を理解できたのだ。
それと同時に胸の中に熱い感情が込み上げて来たかと思えば、同じ熱を持つものが両の瞳から零れて頬を伝い落ちたのである。
※※※
「あっ! あ、あなた……??」
急変した達也の様子に吃驚したクレアは、小さな悲鳴を上げざるを得なかった。
赤ん坊を身籠ったことを告白したにも拘わらず、怪訝な表情のまま固まっていた夫の双眸から、突然涙が溢れ落ちたのだ。
然も、その刹那に思い切り抱き締められ、身動きも出来ない中で囁かれた切ないまでの感情の吐露。
「あぁ……ありがとう……本当にありがとう……俺を選んでくれて……男の子でも女の子でも、どちらでもいいから……元気な子を産んでくれ」
何の飾り気もない不器用で真摯な感謝の言葉。
だが、それが達也にとって最上級のものであるのを誰よりも良く知るクレアは、その言葉だけで胸がいっぱいになってしまう。
だから、自らも落涙しながら、心地良い温もりに身を任せるのだった。
「あぁ……どういたしまして。私も同じ気持ちです……私を選んでくれて……私をお嫁さんにしてくれて本当にありがとう」
蒼白くも儚い光がスポットライトの様にふたりを照らし出す。
それ以上の何かを言葉にすれば、この幸せが壊れてしまいそうな気がした達也とクレアは、無言のまま身動ぎもせずに抱擁を交わすのだった。
◇◆◇◆◇
身重の愛妻を気遣いながら寄り添って階段を上る達也。
「もう……今から、そんなに大袈裟にしなくても……」
困惑した様な顔で呆れるクレアだが喜びは隠しようもないらしく、満更でもない表情で身体を委ねている。
そんなふたりが階段を上り切って姿が見えなくなるや、辺りには打ち寄せる波の音だけが響く元の静寂に戻った。
だが、次の瞬間には微かに空気が揺れ、草を踏む音と共に木立の陰からひとりの女性が姿を現したのだ。
白銀夫婦の遣り取りを目撃していたその女性は、他ならぬサクヤだった。
煌々と輝くニーニャよりも蒼白なその顔には色濃い悲嘆が滲んでおり、頼りなげな足取りで木立を抜けた彼女は、崩れ落ちる様に石の階段に座り込んでしまう。
(聞かなければ良かった……そうすれば、自分の不甲斐なさにも気付かずに済んだのに……)
唇を噛み締めながらそう悲嘆するサクヤは後悔せざるを得ず、達也を愛していると言いながら、その胸中を慮れなかった己の未熟さを責めるしかなかった。
(達也様が懊悩して御自分を責めていらしたなんて……私は終ぞ思い至らなかった……なのに、それなのにクレア様は……)
ふたりのやり取りの一部始終を盗み見てしまったサクヤは、己の浅慮を思い知らされ、強い衝撃に打ちのめされてしまう。
どんな苦難の中に在っても自分を見失わず、確固たる信念を以て一途に目的達成に邁進する……。
そういう強い人間だと信じていた達也が相次ぐ逆境の中で憔悴し、自暴自棄になる寸前まで追い詰められていた等とは思いもよらなかったのだ。
その事実を知った時の驚嘆には並々ならぬものがあり、心から慕う男の本心にも気付かず、呑気に振る舞っていた己の不甲斐なさに臍を嚙む思いだった。
然も、そんな彼の苦衷をクレアだけは見抜いていたという事実……。
彼女と自分の差を、まざまざと見せつけられた気がしたサクヤは、己の未熟さに失望せずにはいられなかった。
そして、彼女はこの時、漸く自分の心の奥底に潜んでいた浅ましい本心に気付いてしまったのだ。
(どうしてあんな女性がこの世界にいたのでしょう……どうして達也様と出逢ってしまったの? あの女性さえいなければ……)
ドロドロとした暗い闇……醜い嫉妬という感情を自覚した彼女は、運命の残酷さに打ちのめされてしまう。
クレアを慕い敬意を懐く自分と、彼女の存在を妬み、いっそ消えて欲しいと渇望する自分。
己の感情の半身同士が心の中で鬩ぎ合う……。
そんな相反する想いに苛まれるサクヤは、己が如何に身勝手で驕慢な人間だったかを知り、嫌悪の感情に身を裂かれる思いだった。
有り得ないほどの温情を貰った上に、精一杯背中を押してくれた相手に嫉妬したばかりか、その女性を押し退けて想い人の一番になりたいと願う浅ましさ。
そんな己の醜さを自覚した瞬間、サクヤは絶望的なまでに残酷な未来を思わずにはいられなかった。
(あぁ……こんな不遜な私がクレア様に及ぶなどと……思い上がりも甚だしい……いずれ達也様にも見限られてしまうに違いないわ)
両の瞳が熱を持ち、溢れた涙で視界が歪む。
震える両掌で顔を覆ったサクヤは、声を殺して忍び泣くしかなかった。
◇◆◇◆◇
どれくらい泣いていたのかは分からないが、サクヤは涙を拭って腰を上げた。
これ以上バラディースに戻るのが遅くなれば騒ぎになってしまうし、況してや、帰艦が遅れた理由を詮索されるのも嫌だった。
(もう遅い時間だから、誰とも顔を合わさずに済むかもしれない……)
しかし、そんな彼女の淡い期待は石段を上った瞬間に水泡と帰してしまう。
そこにはこの場を去った筈の達也が所在なげに佇んでおり、沈痛な面持ちで自分を見ていた。
恋い焦がれた男が目の前にいるにも拘わらず、サクヤの心は浮き立つどころか、急速にその熱を失っていく。
「……気付いておられたのですね?」
自分でも驚くほど抑揚のない無愛想な声が唇から零れ落ち、そのまま歩を進められずに立ち尽くしていると達也の方から歩み寄って来た。
「うん……立ち去る間際になって、やっとね……本当に無様なものさ。いつもなら気付かない筈はないのに……」
何処か遠慮がちなその言葉に何故か苛立ちを覚えたサクヤは、顔を背けて投げやりな口調で言い放つ。
「私などに構っていないで、身重の奥様に付き添って差し上げては如何ですか? そんな気配りもできないから、アナスタシア大伯母様から朴念仁などと揶揄されるのですよ?」
忸怩たる思いに苛まれながらも、サクヤは虚勢を張る。
そうすれば少しでも残酷な場面を先延ばしできるかもしれないと考えたのだが、そんな切実な彼女の願いは残念ながら叶いはしなかった。
「聡明な貴女様ならば既にお気づきでしょう? このまま不自然な関係を続けても誰も幸せにはなれないと……」
サクヤの表情が一瞬だけ悲痛に歪んだが、達也は敢えて気付かぬフリをして言葉を続ける。
「先ほどの情けない告白を聞いていたのならば御分かりでしょう? 私は不器用な人間ですから、二人の女性を等しく愛するというような真似はできません。ひとりの男として貴女様に接するのは……私には無理です」
覚悟していた答えだった……。
しかし、それでも一縷の望みに縋ってサクヤは懇願する。
「嘘でもいいのです! 愛していると言って下さるならば、私は一生その御言葉を信じますから……それでも駄目なのですか?」
先程までとは打って変わって、サクヤは切ない想いが滲んだ言葉を吐露しながら達也に縋りついた。
だが、それでも想い人の決心は変えられず、両肩に添えられた達也の手によって、無慈悲にも身体を押し返されてしまう。
「御戯れは御止めください……貴女様と私では住んでいる世界が違い過ぎます……堅苦しい格式や作法を重視する貴族社会に私が馴染めるとも思えない。この辺りが潮時です。夢の時間は終わりにしましょう」
その瞬間に全ての希望が潰えたのをサクヤは自覚せざるを得なかったが、冷たく突き放されたにも拘わらず不思議と涙は零れなかった。
悲しくない訳ではないが、寧ろ、冷然とした達也の態度によって、一つの真実に気付かされたのだ。
だからこそ聡いサクヤは、最後の最後で自分らしさを取り戻せたのである。
不義理を装いどんなに冷たい言葉を口にしても、達也の想いが宿る瞳の輝きだけは誤魔化せない。
『たとえ自分が不利益を被っても構わない……だから、貴女様には御自分の幸せを掴んで欲しい』
そんな言葉にはできない達也の気持ちが理解できてしまうが故に、サクヤは長年懐き続けて来た淡い恋心を諦める決心がついたのだ。
(やはり不器用な朴念仁ですね……でも、それがあなた……白銀達也ですもの)
小さく溜め息を吐いたサクヤは一歩だけ後退るや、真っ直ぐに想い人の顔を見つめて宣言するかの様に言い放った。
「貴方という方は本当にうそつきですね。然もヘタクソです……ふうっ、もういいですわ……今宵この時に私を選ばなかったのを何時か必ず後悔させて差し上げますから」
それだけ言って踵を返した彼女は二度と振り返らず、連絡艇の待つ海岸へと歩いて行く。
(これで良い。大切な妹の幸せを願わない兄貴はいないのだから。たとえ、どんな結果になったとしても、私は後悔しませんよ……だから貴女様自身の幸せを掴んで下さい)
己の無力を知る達也は切にそう願わずにはいられず、サクヤの姿が見えなくなるまでその場に佇むのだった。
◇◆◇◆◇
柔らかい陽光が大地を照らし始める早朝。
白銀邸の住人達は、出掛ける前の慌ただしい時間の真っ只中にあった。
一階の客間三部屋の壁を取り払って内装をやりなおした家族用の食堂は、学校に出掛ける子供達で大いに賑わっている。
白銀家の子供達が四人と、養護院出身の子供達七人が食事をする様子は、まさに戦場宛らの混沌とした様相を呈していた。
(達也さんはもう出掛けてしまったし……後はサクヤ様と私の分だけかな?)
子供たちの食事風景を横目で確認しながら、人数分のハムエッグを調理していたクレアは、残り僅かで準備が終わるのを確認して安堵の吐息を漏らす。
新規建造艦艇の詳細を打ち合わせる為にヒルデガルドと会う約束をしていた達也は、日が昇り始める頃には早々に出掛けていた。
彼女が研究の為の根城にしているのは例の森林奥地にある先史文明の遺跡だが、バラディースと施設間を往復するだけでも結構な時間を浪費するために早朝に出発したのだ。
クレアにしてみれば、達也がいる朝食の席で皆に妊娠の報告をしたかったのだが、本人が不在ではそれも躊躇われてしまう。
(夕食の時まで御預けね……)
肩透かしを食った気分で少々残念だったが致し方ない。
そう気持ちを切り替えた時、バーグマン伯爵夫人が隣で紅茶や蜂蜜ミルクの用意をしながらも、何処か浮かない顔をしているのに気づいた。
「如何なさいましたか? 何処か御身体の調子でも……」
そう心配して訊ねたのだが、マリエッタは溜息交じりに頭を左右に振る。
「いえ……そうではありませんわ。実は姫様が……」
「サクヤ様? 姫様に何かございましたか?」
「それが……何があったのか……『今朝は自分で身支度をします』と仰られて……御髪を整えるのは何時も私の役目ですのに」
漠然とした違和感とでもいうのか、長年仕えた彼女だからこそ感じる事もあるのかもしれないと思ったのだが、不安を懐いたクレアは朝食の支度ができた旨を伝えるのを口実にし、サクヤの様子を見に行こうと決めた。
しかし、彼女が行動を起こすよりも早く背後で子供たちの歓声が上がる。
「「「わあぁ──っ!! 姫様、可愛いぃ──ッッ!!」」」
複数の子供達の喜色に富んだ声が綺麗なハーモニーを奏でたのだが、同時に食堂の空気が固まったかの様に感じたのはクレアの錯覚だったのか……。
子供達の歓声と同時に振り返った大人達が視線の先に捉えたのは、見る者全てを魅了した藍青色のロングヘアーを肩口でばっさりと切り落としたサクヤが、清々しいまでの微笑みを浮かべている姿だった。
※※※
白銀邸の食堂が騒然となっている頃、詩織は達也からの招集を受けて先史文明の遺跡に出向いており、そこで驚きの命令を受けたのである。
「如月詩織見習い士官。本日付で貴君は少尉に任官。更にこれまでの働きを鑑みて中尉昇進を命ずる。尚貴官には、後日就航する予定の新型艦艇の艦長として任務に就いてもらうので、バラディース内の訓練施設で充分な研鑽を積む様に……出撃は一ヶ月後を予定している」
胸に込み上げて来る感激と高揚感に感極まった詩織は、ピーンと背筋を伸ばして達也に謝意を示した。
今日この日、如月沙織は正規士官として軍人の第一歩を踏み出したのである。
◎◎◎




