第二十一話 虎口 ③
「あっ、ありがとう……」
ハンガーからは少し離れた場所にある展望デッキへと移動した志保とラルフは、人気がなく閑散としているのを幸いにボックスシートに落ち着いた。
差し出されたコーヒーカップを受け取って軽く頭を下げた志保は、対面のシートに腰を下ろす赤髭にチラチラと視線を遣るが、どうにも口が重くて困ってしまう。
これを好機と割り切って、胸に蟠る想いを言葉にすれば良いと彼女自身も思うのだが、何だかんだと柵を積み重ねて来た相手を前にすると、どうしても素直になれないのだから始末に悪い。
(こんなの全然、私らしくない……)
ウジウジと逡巡するなど自分らしくないと思い、何とか気持ちを切り替えようとしたのだが、ひとくちだけコーヒーを啜ったラルフに先んじられてしまう。
「すまなかったな。あの時は緊急時だったとはいえ、重傷を負ったお袋さんの容態で頭がいっぱいのおまえに随分と酷い事を言っちまった……許してくれ」
謝罪されるとは思っていなかった志保は意表をつかれて困惑したものの、却って踏ん切りがつき、姿勢を正して謝罪と感謝の言葉を返した。
「謝るのは私の方だわ。散々迷惑を掛けたのは私だし……ごめん。本当にごめんなさい。そして、ありがとう。アンタのお蔭で母さんを死なせずに済んだわ」
『棚から牡丹餅』とはいえ、漸く胸に痞えていた想いを吐き出した志保は、重圧から解放されて心が軽くなったからか、口までもが軽くなって言葉を重ねる。
「狼狽してパニックに陥っていたとはいえ、らしくもない醜態を晒してしまったんですもの……罵倒されるのも当然だし、目を覚まさせてくれたアンタには心から感謝しているわ」
心を縛りつけていた重い枷から解放された志保は、ありったけの謝意を示して深々と頭を下げた。
一方のラルフはそんな彼女の殊勝な態度に面食らったものの、直ぐにニマニマと口元を綻ばせて軽口を返す。
「なんだ……随分としおらしいじゃないか? だが、べそべそ泣きながら、駄々を捏ねるおまえも結構可愛かったぞ。さすがに好い女は何をやってもサマになるもんだと感心させられたよ」
それが何時もの軽口に他ならないと分かってはいても、揶揄われた志保としては憤慨せざるを得ず、両頬を膨らませてそっぽを向くや、一転して悪態をついた。
「何とでも言ってればいいわ! 今日だけだからね反撃しないのは。次からそんな失礼な口を叩いたら、ギタギタにしてやるんだから! 覚悟していなさいっ!」
拗ねた様な顔で強がりを言う彼女を見るラルフの視線は何処か優しげで、やがてふたりは顔を見合わせて同時に吹きだすのだった。
一頻り笑い合った後、今度はラルフが志保に問い掛ける。
「あれからずっとスクランブル配置だったから、お袋さんの見舞いにも行けなくて済まなかったな。アイラから『手術は成功した』と聞いていたんだが……その後の経過はどうなんだ?」
「気遣ってくれてありがとう。漸く上体を起こせるまでに回復したわ……それでね、母さんから伝言を預かっているの。お礼に伺いたいので都合の良い時間を教えて欲しいってね」
「そんな大袈裟な。俺は任務を遂行しただけだ。感謝される謂れはない。お袋さんも怪我が完治していないのだから、今はまだ無理はしない方が良い」
泰然としたラルフの表情から、謙遜ではなく本気でそう思っているのだと察した志保は、感心と呆れが入り混じった複雑な感情を懐いてしまう。
(この男は何時もこうだったな……不器用なくせに自分には厳しい……少しぐらい照れて見せる素直さがあれば、もっと可愛げもあるのにさ)
職責に真摯な彼を認めるのがちょっぴり悔しく、それでも、そんなラルフの実直さが嬉しくて……。
そんな想いを胸の内に隠した志保は、生真面目な表情を取り繕って訊ねた。
「そんな風に言わないで。あの蘇生剤……アンタにとって大切な親友さんが遺した物だとアイラから聞いたわ」
「なんだ。あいつめ喋っちまったのか……まあ、認可は受けた代物だから隠し立てする必要はないし、副作用もないから問題はないさ。それに眉唾もののアイテムが役に立ったんだ……レックスの奴も今頃は地獄の底で小躍りしているだろうよ……だから、お袋さんやおまえが気にする必要はないぞ」
最初は顔を顰めたものの直ぐに両肩を竦めて見せたラルフは、飄々とした物言いで苦笑い。
しかし、志保にしてみればそれで済ませられる筈もなく、表情を曇らせて弱々しい声で抗議する。
「またそんな風に言って誤魔化そうとする……アンタ恰好つけ過ぎよ。せめて御礼ぐらいちゃんと言わせてよ……でないと、私の方が負い目を持っちゃうじゃない」
日頃は憎たらしいまでに太々しい女が、消沈して項垂れるとは全く想定もしていなかったラルフは、大いにアテが外れて困惑するしかなかった。
てっきり何時もの様に、『巫山戯るな!』という怒鳴り声が返って来ると思っていただけに、こんなしおらしい態度を取られると、どんな顔をすれば良いのか分からないのだ。
「ふぅ。まあ……なんだ……提督と合流できれば待機命令も解除されるだろうし、時間ができたら俺の方から見舞いに伺う……そうお袋さんに伝えてくれ。何と言っても生死の境を彷徨うほどの重傷だったんだ。当分は無理をしない方がいい」
辛うじてそう返事をしたが、何時もとは勝手が違う彼女の雰囲気が伝染したのか、ラルフの口調も妙に硬いものになってしまう。
「うん。ありがとう……母さんにそう伝えておくわ。それから、アイラを叱らないであげてね。アンタの親友の話……私が無理矢理に聞き出したのだから」
美緒からの伝言を無事に伝え終えて安堵した志保は、アイラの立場が悪くならない様にと頭を下げて懇願した。
その気づかいは嬉しかったが、それを素直に認めるのは癪な気がして、ラルフはぶっきらぼうな態度で言葉を返す。
「別に知られて困る話じゃない。だから叱る道理もないさ。尤も、最近はじゃじゃ馬ぶりに益々拍車が掛かって来やがったからな……叱りつけたぐらいじゃ、少しも堪えやしねえよアイツは」
態と乱暴に言ったつもりだったのだが、驚いたことに志保は嫌な顔ひとつせずにクスクスと笑っており、ラルフは困惑を露にして眉根を寄せてしまう。
普段の小癪な態度はすっかり影を潜め、妙齢の女性らしい快活な笑みを浮かべる彼女の豹変ぶりに、彼が懐いた驚きは大きな戸惑いへと変化していく。
一方の志保は、恐いものでも見ているかの様に顔を顰める赤髭の様子が可笑しくて、アイラに悪いかなと思いながらも、口止めされていた彼女の本音を暴露した。
「そんな風に言うもんじゃないわ。あの娘はアンタを誰よりも尊敬して慕っているんですからね……この間、夕食に招待した時に『偉大な親父自慢』を散々聞かされて、ほとほとウンザリさせられたんだから」
ラルフは新手のジョークかと勘繰ったが、見るからに上機嫌でウィンクする志保が嘘を言っている様には見えない。
どうやら本当らしいと察した途端、余りの気恥ずかしさに、目の周りが熱を持って赤らむのが分かってしまう。
だから、そんな醜態を見られまいと盛大に鼻を鳴らした彼は、明後日の方向へと顔を背けるしかなかったのである。
一方の志保にしてみれば、頑固で偏屈なラルフも愛娘に褒められれば、人並みに照れる感性を持ち合わせていたという事実が可笑しくて仕方がない。
同時に彼がひどく照れ屋なのだと知って心が浮き立った所為で、つい無意識の内に何時もの軽口が零れてしまった。
「なんだかんだで父娘よね……頑固で意地っ張りなところは本当にそっくりなんだもの。でも、アイラのクールな美貌はお母様譲りよね? 『娘は父親に似る』とは言うけれど、アンタに似なくて本当に良かったわ」
こんな物言いをすれば、憤慨したラルフから怒声が返って来るのが常なのだが、彼は口元を微妙に歪めただけで反論もせず、それどころか、何の前触れもなく驚愕の事実を暴露したのだ。
「そりゃぁ……な。アイラは俺の本当の娘じゃない。アイツは十八年も昔に死んだ俺の姉貴が生んだ娘だ。姉貴は俺と違って美人だったから不思議じゃないさ」
不意打ち同然にアイラの出生の秘密を聞かされた志保は吃驚して息を呑まざるを得ず、両の瞳を見開いてラルフを見つめ、掠れた声で呟いた。
「ど、どうして……そんな……」
絞り出したかの様な志保の言葉に苦笑いしてコーヒーをひとくち啜った赤髭は、淡々とした口調で昔語りに興じる。
「何処にでも転がっている安っぽい話さ……妻子持ちのくだらない男に熱を上げ、好いように弄ばれてあっさり捨てられた。別れてから妊娠しているのが分かったが後の祭りだ。姉貴はアイラを出産した夜に病院の屋上から飛び降りちまったよ。他に肉親はいなかったから、俺が引き取って育てるしかなかったんだ」
その淡々とした物言いからは如何なる感情も読み取れず、姉を捨てた男に対する怒りや憎しみも、産み落とした愛娘を一度も抱かずに逝った実姉に対する遣る瀬ない想いすら窺えなかった。
「その事を……アイラは知っているの?」
「さあな。ガサツな傭兵団で育っちまったからな……人の口に戸は立てられんし、アイラを家族同然に可愛がっていた団員達の口から漏れるのならば仕方がない……俺はそう思っていたよ」
「どうして私に話したのよ? 私が、あの娘に喋らないとでも思ったの!?」
問答無用で重い荷を背負わされた志保は眉根を寄せ、視線を険しくしてラルフに詰め寄ったが、その視線を受け止めた彼は穏やかな声で答えた。
「ああ見えてもアイツは昔から人見知りでね……傭兵団の仲間以外には殆んど心を開かなかった。それなのに、おまえやお袋さんの前では寛いだ笑顔を見せていやがる……口ではどんなに強がっていても、母親や姉という存在に憧れを懐いていたんだろう……そう思えば、やはり不憫でな」
唖然として返す言葉もない志保の様子を見て我に返ったラルフは、申し訳なさそうに頭を掻いて謝罪する。
「くだらない愚痴を零しちまった。姉貴におまえの強さの十分の一でもあれば……そう考えたら柄にもなくセンチな気分になっちまった。本当にすまん」
深々と頭を下げられた志保は戸惑い慌てて首を振った。
「や、やめてよ! 私は頭を下げられるような立派な人間じゃないわっ! 自分の未熟さを棚に上げて、昔の男を怨んでいた馬鹿な女だもの!」
無様な過去を思えば口の中が苦くなり、志保は投げ遣りな気分で自嘲するしかなかったが、ラルフは欠片も気負わずに誠実な本心を吐露して励ましてやる。
「立派な人間なんか、然う然ういやしないさ。だがな、おまえは怨みや絶望に屈しなかった。それどころか、そんな負の感情を前進する糧に変えたじゃないか。卑下する必要なんかない。おまえは、おまえ自身を誇って良いのさ……胸を張ってな」
望外の賛辞を受けた志保は、羞恥が勝って真面に彼の顔を正視できない。
それが、悔しいやら情けないやらで、アタフタと視線を彷徨わせながらも、条件反射的に文句を口にして気恥ずかしさを誤魔化すしかなかった。
「なにさ! 急に殊勝な態度で真面目な顔をしてさ! ガラにもない褒め言葉で絆されるほど、この志保様は安くはないんですからねッ!」
「はっはっはっ! 分かっているさ。ただ、これからもアイラを宜しく頼むと言いたかっただけだ。俺の様な無粋な父親では気付けない事も多い。ましてや何時、何処で命を落としても不思議じゃない戦闘機乗りだ。万が一の時にアイツがひとり残されて悲しむのは不憫だからな……そうならない様に、おまえさんに頼んでおきたかっただけさ」
そう言って笑うラルフに吃驚した志保は、胸の内に芽生えた漠然とした不安に言葉を失ってしまう。
アイラもそうだが、彼から感じる何処か達観した死生観に接する度に、これまでも遣る瀬ない想いを懐いて来た。
それが軍人に求められる覚悟や矜持の類だと頭の片隅で理解はしていても、彼女自身は決して納得できない想いだと言わざるを得ない。
そんな仄暗い感情を上手く言葉にできない志保だったが、それでも気が付けば、詰るかの様な台詞が喉から迸っていた。
「例え話であっても、そんな不吉な事を言わないでッ! アイラの事を本当に大切だと思うのならば、気安く『万が一』とか口にしないで頂戴っ!」
もどかしい焦燥感に胸を締め付けられ、上手く自分の想いを言葉にできない志保が更に言葉を重ねようとした瞬間、静寂に包まれていたフロアー全域に非常警報が鳴り響き、悲鳴にも似たオペレーターの叫びが耳を劈く。
『レッドコンディション発令! 繰り返す! 全艦レッドコンディション発令! 当該宙域での敵性戦力の存在を確認ッ!! 全戦闘員は担当部署にて待機せよ! 航空隊は直ちにスタンバイ!』
事態の急変に驚く志保とは裏腹に、ラルフは何も言わずに立ち上がるや、脱兎の如くハンガー目掛けて駆け出した。
警報が鳴り響くだけの閑散とした空間にひとり残された志保は、不安げな視線で彼の背中を見送るしかなかったのである。




