第十七話 未来を護りし者 ②
「ポピー。生贄に選ばれた者達が連れて行かれた場所は何処だ?」
そう問われた精霊少女は雰囲気を一変させた達也を見るや、息を呑んで驚きを露にした。
これが先程まで紳士的な物腰で交渉に臨み、精霊である彼女が好感を懐くほどに穏やかな波動を纏っていた者と同一人物だとは、とても思えなかったからだ。
人当たりの良い笑顔は消え失せ、双眸には冷然とした光が宿っており、その余りの変わり様から達也の覚悟を察したポピーは思わず声を荒げていた。
「まさか救けに行く気なの!? そんなの無理だよっ! 一人でなんて!」
相手の絶望的なまでの暴威を知る彼女は皮肉を言う余裕すら失い、真剣な表情で引き留めようとしたのだが……。
「場所は何処だと聞いたんだ? 教えてくれ。頼むよ」
淡々とした物言いだったが、その言葉は拒絶を許さない威風に満ちており、それは超常の存在である精霊すらも畏怖させるに足るものだった。
だから、気圧されしたポピーは、問われる儘に答えてしまったのだ。
「……ここから北西の方向に踏み込んだ森の中よ。先史文明が残した遺跡の尖塔がある広場。毎回そこに生贄の子達は連れて行かれるわ。でも、普通に歩いていたら一時間以上掛かってしまう! もう間に合わないわよ!」
「ありがとう。だが、心配しなくてもいい。種族も生まれも関係ない。この世界で同じ時間を生きる命だ……むざむざ死なせはしないさ!」
強い意志が滲んだその言葉を聞いた精霊は思わず身震いして両の眼を見開いてしまったが、それは畏怖によるものではなく、達也が見せた真摯な決意に感動したが故の反応に他ならなかった。
泣きながら連れて行かれる子供達を忸怩たる思いで見送るしかなく、何もできない己の非力を嘆き呪った日々。
だが、そんな辛い悪夢を断ち切れるかもしれない……。
嘗て英雄ランツェ・シュヴェールトと共に、亜人達の楽園を創るという夢と理想を追いかけて戦っていた時と同じく、今度はこの人間と一緒に。
その熱い想いに衝き動かされたポピーは勢い込んで達也に懇願していた。
「わ、私も連れて行ってっ! 近道を知っているから! 絶対に役に立つから!」
一瞬驚きの表情を浮かべた達也が精霊少女の想いの強さを察して頷くや、破顔して眦を決したポピーは勢いよく羽ばたき、新たな戦友の肩に降り立ったのだ。
しかし、一刻の猶予もないため直ぐに救出に向おうとした達也だったが、狂乱した悲鳴に呼び止められてしまう。
「お、お待ちくださいっ! 此方から一方的に約束を違えて奴の機嫌を損ねたりしたら……今後どれだけの同胞が命を落とすかっ!?」
長老連唯一の女性であるナトゥーラが顔を歪め、悲痛な金切り声を発して達也を非難する。
他の長老達も考えは同じらしく、脳裏に焼き付いている惨劇の記憶と、子供達を生贄に差し出してしまった罪悪感との狭間で懊悩しながらも、老婆を支持するかの様に冷然とした眼差しで達也を見ていた。
「これは我らの問題です。犠牲になる者達は不憫だと思いますが、小を切り捨ててでも大を生かすしかないのです……我々にはこうするしか、こうするしか……」
言葉とは裏腹にオウキの表情は苦悶に歪んでおり、強い悔恨の情に苛まれているのは充分に理解できた。
だからこそ、達也は彼らを非難する様な真似はせず、慇懃に問い掛けたのだ。
「あなた方が苦渋の末に決めた事に部外者の私が嘴を挿む非礼は重々承知しています。ですが、今を生きる我々にとって子供達は未来そのものではありませんか?その未来を犠牲にして一刻の安寧を得たとしても、その先に、いえ……この世界に一体何が残るというのですか?」
その語り口に非難や反論は一切含まれてはおらず、ただ高潔な想いだけがあり、その言葉が言霊となって長老達の胸に染みていく。
「この世界の未来と子供達の笑顔を護る……それが、今を生きる大人の責務ではありませんか? それを果たすのに人間も亜人も関係ない。だから私は行くのです」
長老達は誰一人として反論できずに押し黙るしかなかった。
「では。時間が惜しいので……」
そう短く告げた達也は、ヒルデガルド謹製の思考型コンバットスーツを起動させ、レッグガードの機能を最大限に発揮する。
「ポピー。振り落とされないように、しっかりと掴まっていろよ!」
「えっ? わあっ?? なに、何なのぉぉぉ──ッ!??」
生身の人間が宙に浮く奇跡を目の当たりにしたアルカディーナ達が仰天する中、ポンコツ精霊の悲鳴を残し、達也はあっという間に森の木々を飛び越えて姿を消すのだった。
◇◆◇◆◇
(こ、恐い……これが、皆を喰らったバケモノなの?)
シレーヌは全身を貫く恐怖に金縛りにあいながらも、眼前に迫る異形の巨躯から視線を外せないでいた。
彼女の背後には、可愛らしい顔を引き攣らせて泣き叫ぶ九人の子供達がいる。
今回くじで選ばれた子達の中で一番幼かった少女の身代わりとして、シレーヌは自ら志願して生贄になった。
少しでも気を抜けば、忽ち意識を失ってしまいそうな怖気に懸命に抗いながら、背に庇う子供達を護ろうと歯を食い縛る。
非力な自分に何ができる訳ではないが、この子達の目の前で無様な真似は晒したくないと強く思った。
たとえ、僅かな時間の後に最後の瞬間を迎えるのだとしても……。
彼女が身代わりを志願したのは、何も高邁な想いがあったからではない。
これまで、仲の良かった友達や、自分を姉の様に慕ってくれた大勢の子供達が、その無垢な命を散らせていった。
そんな先に逝ってしまった者達への後ろめたさと、何もできなかった己に絶望して自暴自棄になったか故の結果に過ぎない。
だから、今度こそは自分の番だと思い定めたシレーヌは、生贄を志願したのだ。
「だっ、大丈夫だよ……ほんの少しだけ我慢したら天国に逝けるからね。みんなが大好きな英雄様のいる場所へ……」
震える声で子供達に語り掛けるシレーヌ自身、馬鹿な事を言っているという自覚はあるが、喋っていないと、とてもではないが正気を保っていられそうにない。
迫り来る異形の化け物は、それほどまでに恐怖心を掻き立てる存在に他ならず、背丈だけでも優に三メートルを超え、筋骨隆々という表現がピッタリの体躯が怪物の威容を何倍にも大きく見せており、頭部には水牛のそれを想起させる黒光りする角が二本生えていた。
肌の色は深みのある紫紺色で、半開きの口からは整然と並ぶ鋭く尖った牙が垣間見え、獲物を食い破る瞬間を心待ちにしている様にすら思えてしまう。
しかし、最も恐怖心を掻き立てられるのは怪物の双眸に他ならず、獲物の鮮血で満たした様なその真紅の眼に睨まれただけで、心を苛む恐怖にガチガチと歯が鳴るのを止められなかった。
金属製のチェストプレートと腰周りを防御する簡素な鎧を身に纏い、太い右手には白銀に輝く手斧を握る怪物が至近距離にまで迫って来る。
背に庇う子供達の鳴き声が急に小さくなるのを感じた彼女自身も、痛々しいまでの絶望感に顔が引き攣るのが分かった。
想像を絶する暴威を前にした子供たちは泣く気力さえも失い、顔色を蒼白にして異形の化け物を見つめるしかない。
そんな獲物達の兢々とする様子を見て、怪物は喜悦に震えながら鋭い牙を剥き出しにして巨大な戦斧を振り上げた。
(……お母さん……先に逝く親不孝を許して頂戴……ごめんなさい)
シレーヌは一人残してしまう母親に心の中で詫びてから、子供達に向けて最後の言葉を呪文の如くに口から零す。
「もうすぐだよ……もうすぐ天国で待ってくれている皆に逢えるよ」
そう震える声で呟きながらも、最後の瞬間まで誇り高きアルカディーナでいたいと願う彼女は、今まさに自分達目掛けて振り下ろされんとする凶器を睨みつけた。
その獰猛で肉厚な刃が獲物を蹂躙するべく、シレーヌと子供らの頭上に落とされんとした瞬間、軽快で甲高い連続音が周囲に響き渡ったかと思うや、怪物の巨躯目掛けて銃弾が雨霰と降り注いだのである。
想定外の不意打ちを受け、絶叫を迸らせて後退る怪物。
同時に地面を割る破砕音が響き渡ったかと思うと、朦々と立ち込める粉塵の中に立ち尽くす何者かの姿をシレーヌは捉えた。
奇襲されて怯んだ怪物に相対し、自分達を庇うように立ちはだかる者……。
簡素だが流麗な鎧を纏った救世主の背中を陶然とした眼差しで見つめるシレーヌは、思わず彼女の憧憬の存在を口にしていた。
「え、英雄様?」
しかし、彼女の声が届いたのか否か、その者はひどく落胆した風情で怪物を一瞥するや、皮肉げに口元を歪めて呟く。
「どうやら見掛け倒しの木偶の坊ではないらしいな……七.六二㎜弾が豆鉄砲扱いとはねぇ……いやはや呆れたものだよ」
救世主様が自分にも意味を解せる言葉を口にした事で、同胞が救けに来てくれたのだとシレーヌは思ったが、よくよく目を凝らせば、その人物にはアルカディーナにあるべき頭部の耳も尻尾も見当たらず、彼女は再度混乱してしまう。
しかし、その謎の救世主から声を掛けられてシレーヌは我に返った。
「もう大丈夫だよ。君達は私が護るから……子供達と一緒に下がっていなさい」
目の前で牙を剝く身の毛もよだつ怪物に臆する風情もない、その人物から発せられた心に染み入る優しい声。
その温もりを感じたシレーヌは身体から力が抜け、足まで竦んでその場にへたり込んだのだが、その声の主の肩から飛び立って鼻先に飛来した知己から叱責された彼女は驚きに目を丸くした。
「シレーヌっ! しっかりしなさい! まだ安心するのは早いわよッ! アイツの邪魔をしない為にも子供達を連れて下がりなさいッ!」
「ポ、ポピー様っ!? ど、どうして貴女様が?」
アルカディーナ達の庇護者でもある精霊の登場に戸惑い、素っ頓狂な声を上げてしまったが、相手が良く見知った精霊少女だと気付いたシレーヌは弛緩した身体に鞭を入れて立ち上がり、子供らを庇いながら懸命に背後の茂みまで後退した。
ポピーの姿を見て安堵したのか、子供達も僅かだが恐怖が薄れたように見える。
「ポピー様。あの方はいったい? 同胞にあのような姿の者は……」
眼前の恐怖から逃れて余裕が生まれたシレーヌは素直な疑問を口にしたが、それは更なる混乱を引き起こす序章に過ぎなかった。
「アイツはアルカディーナじゃないよ……人間さ」
「にっ、人間っ!? 英雄様を陥れ、暴虐無人な行為で我々の御祖先達に塗炭の苦しみを強いたという……人間? あ、あの方が?」
淡々とした声音で語られたポピーの答えに驚愕したシレーヌは、双眸を見開いて嫌悪するべき人間の背中を見つめてしまう。
大昔に何があったのか彼女も伝承から学ぶ機会は多く、他の同胞らが懐く感情と大差ない想いを彼女自身も受け入れて生きて来た。
『人間とは酷い生き物だ』
『友人面をして我らの先人達を騙した卑劣漢』
『残酷で血も涙も持ち合わせていない外道』
幼い頃から大人達の話を嫌という程に聞かされた彼女も、他のアルカディーナと同様に人間という存在に嫌悪感を懐いていたし、それに疑問を覚えもしなかった。
だが、それは本当に正しかったのだろうか?
シレーヌは耳に残る優しい声音の残滓に心を揺さ振られ、戸惑わずにはいられなかった。
すると、そんな彼女の困惑を察したポピーが、達也の背中を見据えたまま、唯一確かな真実を告げたのだ。
「アイツは間違いなく人間だわ……でもね……誰もが仕方がないと諦めて見捨てたアンタ達の命を、アイツだけは見捨てなかった! 必ず救けてみせると言ってくれたんだ! だから私はアイツを……白銀達也という人間を信じると決めたのよ!」
唖然とした面持ちでその言葉を聞くシレーヌの瞳から熱い雫が零れ落ちた。
彼女は涙に濡れた視線を眼前の勇敢な男の背に釘付けにし、その雄姿を目に焼き付け様としたのである。




