第十四話 忘れ得ぬ悲嘆 ②
「何者だっ! 貴様ぁっ!?」
苛立ちを滲ませた罵声に等しい誰何を受けたラルフは、声の主である早瀬諒次を冷めた視線で一瞥するや、鼻を鳴らして嘯いた。
「名乗るほどの者じゃないさ。ただの助っ人教官だ。事情も知らない俺が嘴を差し挿むのは野暮だと思うが、アンタが余りにみっともないものだから、つい我慢できなくてな」
顔の大半を赤い髭に埋め尽くされた小男に侮蔑された諒次とその部下達は、怒りに表情を険しくして隙あらば跳びかからんと身構えたが、ラルフに一喝されて動けなくなってしまう。
「いい形した一端の男がグチグチとみっともねぇっ! こんな好い女を繋ぎ止めておけなかったのは、テメェに男としての甲斐性がなかったからだろうが!」
極めて辛辣な糾弾は、殺意にも似た憤怒を諒次らに懐かせたが、志保にとっては胸中で燃え盛る怒りの炎に冷水を浴びせられたに等しいものだった。
自分を一瞥したラルフが『こんな好い女……』と言った以上、諒次とのやり取りは全て聞かれたと考えて間違いないだろう。
既に過去の事とはいえ、こんな男と恋人関係にあったという事実を知られてしまった……。
そう思い至った途端、身悶えするかの様な羞恥を覚えた志保は、大いに狼狽するしかなかった。
(何でッ!? こんな場所に赤髭が居るのよッ???)
内心で声にならない悲鳴を上げるが、今更時間が巻き戻る訳もない。
だが、戸惑う彼女を置き去りにして事態は荒事へと推移していく。
自分達の隊長を侮蔑されてキレた部下の一人が猛然と飛び出して階段を一足飛びに駆け上がるや、ラルフ目掛けて手にしていた電磁警棒を振るったのだ。
しかし、赤髭に覆われた小柄な男の方が志保よりも与し易いと侮ったその男は、己の判断の甘さを身を以って知る事になる。
「があっ!?」
諒次や他の部下達には、振り下ろした警棒がラルフの身体を擦り抜けた様にしか見えなかっただろう。
しかし、彼が僅かに身体を動かして攻撃を躱した瞬間を見逃さなかった志保は、その俊敏さに驚いて息を呑んだ。
だが、それで終わりではなかった。
攻撃を躱されて惚ける男は腹部に強烈な膝蹴りを喰らい、苦悶に呻いて前のめりになるしかなく、そこへ、間髪を入れずに巌の如き拳が襲撃し顔面に炸裂したから堪らない。
強烈な打撃の反動で後退った先には階段しかなく、無様にも足を踏み外した男は階下の踊り場へ転げ落ちたのである。
そして、床に大の字になって失神した男には目もくれないラルフは、鋭い視線で諒次らを牽制するや、その場に釘付けにしたのだ。
(凄い……電磁警棒を回避した身の熟しも大したものだけど、攻撃への移行に無駄がない上に反撃に躊躇いがない……)
その一連の動きに驚嘆した志保は、階上に佇むラルフを見つめるしかなかった。
しかし、返り討ちに遭った男が未熟だった訳ではないのは確かだ。
素早く階段を駆け上がった俊敏な動きからもそれは明らかだし、寧ろ、それを容易くあしらい、撃退して見せたラルフの方が数段上手だったと言うべきだろう。
(何時も私に手玉に取られていたのは、態とだったというの?)
疑問は尽きないが、困惑する志保は、凄味を纏ったラルフの声で我に返った。
「これ以上やると言うのなら命懸けで来い。俺の活路を塞ぐ者は全て叩き墜とす! お前らも全員殺してやるから、死にたい奴だけ掛かってこい!」
その殺気を隠そうともしない一喝に端整な顔を歪める諒次は、怨嗟の籠った視線でラルフを睨んだが、それで不利な状況が好転する筈もない。
眼前の男との実力差は明白であり、二人もの部下が戦闘不能に陥っている以上、ジリ貧になるのは目に見えていると判断した諒次は……。
「志保っ。覚えていろよッ!」
憎々しげな捨て台詞を吐き散らして踵を返し、逃げるかのようにその場を去り、残った男達も失神している仲間二人を抱えて後を追うのだった。
◇◆◇◆◇
(何でこんな事になっているんだ?)
華美な家具など何もない簡素な応接室で香りの良い紅茶を供せられたラルフは、己の優柔不断さを胸の中で嘆いていた。
『そ、そのっ……迷惑掛けたお詫びに、お茶でも御馳走させてくれない?』
騒動が収まり、そう志保から誘われたラルフは結局断り切れず、来客用応接室のソファーに落ち着く羽目に陥っているのだ。
日頃から揶揄われてばかりいる苦手な女と個室で二人きり……。
然も、知らなくてもいい昔話まで聞いてしまった後では、向かい合う志保の顔を見るのも気が引けてしまう。
言葉を掛けるべきかどうか悩んでいると、彼女の方が先に謝意を口にした。
「迷惑を掛けてしまったわね。あの男とは昔に色々とあって……我を忘れて激昂しちゃった。アンタにもみっともない姿を見られて、穴があったら入りたい気分よ」
何処か自嘲ぎみな彼女の物言いが、嘗て恋人だったというあの男との因縁を示唆していると察したラルフは、御節介だと承知しながらも言葉を返してしまう。
「おまえが毛嫌いする位だ。あの男が陸でもない奴だというのは分かるさ。思い出したくもないだろうが、胸に溜め込むだけでは辛いんじゃないのか? 俺は聞いてやる位しかできないが、それで良ければ話してみろ」
優しい言葉を掛けて貰えるとは思っていなかった志保は、双眸を見開いてラルフを見つめ、暫し逡巡してから重い口を開いた。
「もう五年前になるのかな……旦那と死別した後にさくらちゃんを出産したクレアが休職している間にその事件は起こったの……当時私は火星の空間機兵師団に所属していてね。ケチな海賊連中とドンパチやらかしていたんだ……」
ありふれた資源しかないとはいえ、弱小海賊にとってはそれなりの資金源になる為、太陽系でも海賊行為が横行した時期があった。
被害が頻発するに至って民間からの要請もあり、統合軍もその重い腰を上げざるを得なかったというのが当時の経緯だ。
「あの日も、木星の暗礁宙域を根城にして、資源採掘船への襲撃を繰り返していた海賊のアジトを急襲したんだけど……」
遠い目をして淡々と昔語りをする彼女の瞳に哀惜の情が滲むのをラルフは見逃さなかった。
幸運以外の何ものでもない武勇伝を除けば、戦場にあるのは、専ら悔恨に満ちた悲劇以外にはない……。
その現実を自らの経験で嫌というほど知っているラルフは、志保の独白もその手の類かと察したのだが、その勘は正に正鵠を射ていたのである。
「事前の情報通り海賊の保有船は二隻。小規模の海賊一味だったから鎮圧は容易いと判断した諒次は、奇襲による強行突入を選択したんだ……慎重論を具申した副官の言葉には耳も貸さずにね」
無念を滲ませた物言いからは、その判断が誤りだったのは容易に察せられた。
「想定よりも海賊の数が多かったのか?」
そう問うや志保は表情を歪め、憤懣やる方ないといった風情で言葉を絞り出す。
「その通りよ。然も、小さいながらアジトは要塞化されていて、何の策もなく突入した私達は苛烈な反撃を受けて分断されてしまった。寡兵で孤立した挙句に抵抗も虚しく、一人また一人と斃れていったわ」
その時の状況が脳裏に蘇った志保は、何度も味わった苦味が口の中に拡がるのを自覚しながらも話を続けた。
「そんな最悪の状況下で隊長だったアイツ……早瀬諒次が『アジトの外に待機している部隊を引っ張って来る』と言い出し、制止を振り切って行ってしまったの」
困難な状況を打開する判断としては間違っているとは言えないだろう。
しかし、敵要塞内では通信が妨害されるのは当然であり、突入に際し何かしらの連絡手段を構築しておくのは定石だ。
それにも拘わらず、初歩的な用意を怠り、部隊を危地に追いやった指揮官の責任は重い。
そう考えたラルフだったが、先ほどの短慮が服を着た様な男の顔を思い出せば、『所詮はない物ねだりか』と溜息を吐くしかなかった。
「反撃をしながら徐々に後退し、分断された仲間達と合流して防衛ラインを死守し抗戦を続けたわ……増援部隊が駆けつけてくれると信じてね。でも、それは虚しい希望に過ぎなかった。幸運にも助けられて突入ポイントまで辿り着いた私達は愕然としたわ……だって、待機していた強襲揚陸艦は既に撤退して影も形も無かったのだから」
話の途中で想像できたとはいえ、その時の志保や生き残った者達の心中を慮れば、早瀬諒次に対する怒りと、彼女達に対する深い同情を禁じ得なかった。
「アイツは自分の身かわいさに大勢の部下を見捨てて逃げたのよ。撤退を強要された揚陸艦の艦長が救援要請をしてくれたお陰で、近海を航行していた木星独立公社の警備艦隊が駆け付けてくれたから、私達は辛うじて命拾いしたけれど……」
志保の双眸に瞋恚の炎が灯り、言葉の端々に怒りが滲む。
「作戦参加者三百名。そのうち待機組を含めて生還できた仲間は僅かに三十五名。海賊を殲滅したとはいえ、多大な損害を出した挙句に、指揮官は部下を置き去りにして敵前逃亡。どんな言い逃れもできない負け戦よっ!」
志保の声が小刻みに震えだす。
「それなのにッ! 作戦を放棄し真っ先に逃げ出したアイツは軍法会議で無罪判決が下され! 戦死した副官だけが作戦失敗の責任を問われて処分されたッ! 最後まで仲間を護って戦い、敵の凶弾に斃れた者が死んだ後も非難されるッ! あまりに理不尽な判決に何度も再審を訴えたけれど、それが叶う事はなかった……挙句に実働部隊を外されて教官職に左遷されたのだから、とんだお笑い種よ」
彼女が味わった悲嘆は、軍隊という組織ではありがちな話だとラルフは身に染みて知っている。
組織が下す理不尽な決定に彼自身何度煮え湯を飲まされた事か。
そして、その度に虚しい諦念と共に全てを腹の底に呑み込んで来たのだ。
「……あの早瀬って奴には、軍か政治関係者に身内でも居たのか?」
ラルフの問いに小さく頷いた志保は忌々しげに吐き捨てる。
「父親が有力政党の実力者で軍関係の省庁を牛耳っていたのよ……二百六十五人もの戦死者を出しておきながら、全てが闇に葬られてしまったわ。私も半年ほど公安の監視下に置かれて不愉快な思いをしたっけ」
(硬骨なこいつの事だから、厳しく上層部を批判したのだろうな……万が一を考えて監視が付けられるのは仕方がないが、それにしても……)
先日のバイナ共和国との交戦時に露呈した、統合政府と軍の対応の稚拙さを思えば、志保が憤るのも当然だとラルフは思った。
しかし、それを慮って、彼女の言い分を正当化するのが必ずしもプラスになるとは限らないのだ。
それは『正義は必ず勝つ!』という陳腐な台詞が通用するほど、戦場がファンタジーな世界ではないと知っているからに他ならない。
「本当は黙って頷いてやるのが大人の分別なのだろうがな……過ぎた事を悔やんでも何も戻ってはこない……それどころか、その蟠りが戦場では命取りになるんだ。前線で戦う兵士は、豪華な執務室に籠って書類整理をしているだけの愚鈍な連中に忖度する暇はない……どんなに嘆いても死んだ奴は生き返りはしない……だったら早く踏ん切りをつけて前を向くしかないだろうが?」
だから、志保の怒りを買う事を覚悟した上で、敢えて厳しい言葉で諭したのだ。
罵声の一つでも返って来るかと思ったが、その意に反し、苦笑いする志保が酷く投げやりな台詞を口にしたものだから、ラルフは驚くしかなかった。
「そんな風に器用になれたら苦労はしないわよ……自分が被害者顔してキレイ事を捲し立てているだけなのは分かってる。世間知らずの小娘がちょっと優しくされただけで舞い上がって……あんな男に惚れて何もかも許した挙句に捨てられて死にかけた……結局は馬鹿だったあの頃の自分を誤魔化す為に、私はアイツや軍を憎んでいるのかもしれないわね」
ラルフ相手にみっともない事を言っている己に、志保は内心で呆れてしまう。
(こんな言い訳じみた台詞を口にするなんて、私もヤキが廻ったかしらね?)
そう自嘲すると同時に苦いものが胸に込み上げ来て、唇を噛んだ瞬間だった。
唐突に厳しい叱責の言葉を浴びせられた志保は、驚いて顔を上げてその声の主をまじまじと見つめてしまう。
「過去の自分を否定するなっ! 過去を貶めるのは、今の自分を否定する事に他ならないんだぞっ!? たとえどんなに辛く嫌な経験であっても、それは必ず血肉になってお前を強くしてくれる……だから、自分で自分を見限るなッ!」
その瞳は険しかったが、そこには深い気遣いが同居している……。
理由もなくそう察した志保は、思わず涙が零れそうになるのを懸命に我慢しなければならなかった。
しかし、ラルフは急に態度を一変させ、視線を泳がせながら言い難そうに言葉を継ぎ足す。
「さっきも言ったが……おまえさんのような好い女を繋ぎ止めておけなかったのは、あの男が不甲斐ない馬鹿だったからだ。それでおまえの値打ちが下がる訳じゃない。恋愛はこれから幾らでもできる……だから、必要以上に深刻になるな」
その不器用な激励に、志保は思わず口元を綻ばせてしまう。
『もっと気の利いた言い方があるでしょうに』
そう呆れながらも実直な言葉が心地良くて、胸の中に蔓延っていた蟠りが少しだけ薄れた気がした。
(面と向かって礼を言うのは気恥ずかしいからさ。今回は借りにさせて貰うわ……ありがとうね。優しい赤髭サンタさん)
心の中で礼を述べた志保はラルフに微笑んで見せたが、その時見せた彼の安堵した顔が印象的で、それは長く志保の胸の中に残ったのである。
◇◆◇◆◇
「本当に色々と面倒を掛けて悪かったわね……」
頃合いを見て席を立ったラルフを戸口まで送った志保は、殊勝な態度で謝罪したが、照れ臭さが先に立って持て余した間に耐えられず、彼女らしくもない弁明をして余計に気恥ずかしくなる始末。
「あっ、あのさっ! 今日の事はクレアには内緒にしておいてよね。幾ら腐れ縁の親友といっても、知られたくない話だってあるしさ」
そんな如何にも挙動不審な天敵様を見て溜め息を零したラルフは、不意打ち同然に彼女の形の良いヒップを引っ叩くという暴挙に及んだのである。
『パァ──ンッ!』……と小気味好い音が室内に響く。
「ひいっ!?」
短い悲鳴が朱唇から零れ、叩かれた臀部を両手で庇う志保だったが、驚きに身体を固くしたのは一瞬だった。
見る見るうちに肩の辺りが震えだし、剣呑な感情がオーラとなって彼女の周囲に立ち昇る。
しかし、そんな志保の変化に気付かないラルフは、特大の地雷を踏み抜いてしまうのだった。
「何を女々しい事を言っとるんだ。お前本当におかしいぞ? あぁっ、そうか! 暴虐無人なお前を好きになるような男が居るかどうか心配なんだな? 大丈夫だ、自信を持てっ! こんな好い尻なら言い寄って来る物好きは幾らでもいるさ!」
良く言えば不器用。悪く言えば無神経……。
そんな赤髭サンタ様は、止せばいいのに傭兵団で日常的に交わされている下世話なジョークで、志保に追い打ちを掛けるという悪手を選択してしまった。
これでも彼なりに傷ついているであろう彼女を気遣い、元気づけようとした結果だったのだが……。
「こ、こっ……」
「こ? 何が言いたいんだ? 言いたい事があるならハッキリ言え」
どうしてこうも鈍いのか……彼の余計な一言に志保の怒りが爆発する。
「このぉっ! セクハラ赤髭サンタっ! 乙女の尻を叩いておいて唯で済むと思わないでよッ! ギッタンギッタンに叩きのめしてあげるから、覚悟しろおぉッ!」
その後、彼が如何なる目に遭ったかは、神のみぞ知るであった。
ただ、この後数日の間、志保を避けて挙動不審になるラルフの姿がバラディースの彼方此方で散見されたのである。
◎◎◎




