第十四話 忘れ得ぬ悲嘆 ①
八月も半ばを過ぎて夏季休暇を終えた伏龍は、新学期に臨む候補生達が放つ熱気で噎せ返るかの様だった。
白銀達也お墨付きのヴァーチャルシステムが正式導入され、その効果の程を体感した候補生達の士気は弥が上にも高まっており、旧来のカリキュラムから一新された訓練体制としては上々の滑り出しだと、軍上層部からも高い評価を得ている。
そんな活気に満ち溢れた訓練棟の廊下を闊歩しているのは、見事な赤髭も凛々しいラルフ・ビンセント中佐だ。
白銀軍航空戦隊の総指揮官である彼が統合軍士官学校・伏龍に居るのは、不在のアイラに代わって臨時アドバイザーを務めていたからに他ならない。
バイナ共和国との戦闘の後も、アイラは請われて候補生達の指導を続けていたのだが、現在は統合政府との定期協議の為にサンフランシスコへ出張中のイェーガーの護衛として彼に同行しており、その間の代役を務めていたのである。
だが、その結果は必ずしも満足できるものではなかったようで……。
(上級士官候補生に航空畑専従の訓練生並みの技量を求めるのは酷だが、基本飛行の訓練すら不充分ではな……)
周囲の者達には見事な赤髭に隠されたラルフの心情を窺い知る術はないが、彼は候補生達の練度の低さに失望し、同時に思惑が外れて落胆していたのである。
目下白銀軍は人材難に直面しており、今後の軍備拡張計画にも支障をきたしかねない深刻な状況にあった。
資金的にはロックモンド財閥という後ろ盾を得て展望が開けたし、物理的な戦力たる戦闘艦艇や航空機等、その他の兵器もヒルデガルドが全面的に生産供給を請け負ってくれているので不安はない。
しかし、軍務経験者は現在千人程しかおらず、新規兵員の補充増強は急務だ。
特に航空兵力は傭兵団ヴォルフ・ファング時代からの配下二十五名プラス、先日見習い同然で加入した真宮寺蓮だけという閑散とした様相を呈しており、火急かつ速やかなパイロット確保は最優先課題だった。
そんな難題に日々頭を悩ませているにも拘わらず、愛娘の頼みとはいえ臨時教官という面倒事を引き受けたのは、任官前の候補生であっても、優秀な人材がいれば積極的にスカウトしようという魂胆があったからだ。
残念ながら彼の目論見は『捕らぬ狸の皮算用』の諺よろしく水泡に帰し、無駄骨に終わったのだが……。
落胆しながらも、日頃から娘に便宜を図ってくれている林原学校長に挨拶してから辞去しようと、学校長室がある本館に向かう途中。
喧騒からは隔絶された人気のない階段の踊り場で、一人の女性士官を五人の男性士官が取り囲むという不穏な状況に出くわして足を止めた。
上階の柱の陰から見下ろすラルフの姿は、階下の踊り場で屯する集団からは見えないようで、誰も彼の存在には気づいてはいない。
(軍人としては失格だな……比較的ノンビリしたこの星系では、実戦経験が圧倒的に不足しているとはいえ……おや?)
同盟軍士官の未熟さを嘆きながらも、壁を背にして男達と対峙している女性士官の顔を視界に捉えたラルフは、本日一番の渋面を晒さざるを得なかった。
サッパリした気性その儘のショートヘアと端正で精悍な顔立ち、そして、高身長で整ったスタイルの美女。
ラルフにとっては不倶戴天の天敵に他ならない遠藤志保中尉が、剣呑な雰囲気を纏って仁王立ちしているのだから、思わず顔を顰めたのも当然だろう。
『赤髭のサンタクロース』なる不愉快な渾名を公然と口にし、顔を会わせる度に揶揄ってくるトンデモナイ女であり、見た目の優美さとは裏腹に、実戦経験済みのS級空間機兵という顔を持つ猛者でもある志保。
そんな彼女の卓越した格闘術にあしらわれ、何度部下達の面前で面子を潰された事か……。
(関わり合うのはよそう……)
過去の屈辱が脳裏に蘇り、早々に撤退の二文字を選択した彼は、足音を忍ばせて来た道を引き返そうとした。
しかし、偶然に垣間見た彼女の表情の険しさに違和感を覚え、思わず足を止めたラルフは背筋を走った戦慄に呻き声を漏らしてしまう。
(なんて顔をしていやがる……あれは殺気じゃないか?)
色々と問題行動が絶えないが、志保が竹を割ったようなサッパリした気性の持ち主なのは彼も認めているし、その点には好感を懐いてもいる。
それ故に何時も笑顔を絶やさない彼女は男女問わず誰からも好かれており、滅多な事で他人から恨みを買う事はないし、また、志保自身も些末な事を根に持つ様な人間ではなかった。
だからこそ、そんな彼女が憎しみと怒りに満ちた視線で男達の中の一人を睨んでいるのを見たラルフは、吃驚して足を止めてしまったのだ。
志保から発せられるあからさまな殺気は戦場で触れるものと同質であり、それがこの場にそぐわないものだと感じた彼は、志保から目を離せなくなったのである。
◇◆◇◆◇
間の悪い偶然というものは、何時だって厄介だと志保は嘆じるしかない。
新学期開始早々から気持ち良く教え子達をシゴいて気分が良かったのに、それを台無しにする男と撚りにも依って勤務先で再会してしまったのだから。
彼女が睨みつけている人物は早瀬諒次といい、統合軍月面基地に配属されている空間機兵団の部隊長の一人に抜擢された若きエリート士官だ。
志保にとっては嘗ての上官であり、ほんの短い間だが恋人だった事もある因縁の相手でもある。
しかし、彼に対する恋慕の情は、今の彼女には欠片も残ってはいない。
それどころか、志保の心を埋め尽くしているのは、憎悪と言い変えても差し支えのない激しい怒りに他ならなかった。
「よくも臆面もなく私の前に顔を出せたわね? この外道っ!」
悪しざまに罵られた諒次は肩を竦めて惚けた物言いを返す。
「再会早々に御挨拶だな志保……嘗ての恋人にその言い種はないだろう? お前を女にしてやった僕に対して……あんまりじゃないか?」
辱めて動揺を誘おうとの魂胆がみえみえの挑発だが、諒次に加担して下卑た笑みを浮かべる他の男らまでもが、値踏みするかの様な視線を絡み付かせて来るとなれば、その不愉快さは並大抵のものではなかった。
並みの女性ならば狼狽して取り乱す所だが、不敵にも口元を笑み崩れさせた志保は、その挑発を鼻先で嗤い飛ばす。
「ふんっ! まったくよね。できる事なら、世間知らずの馬鹿だったあの頃の私を思いっきりぶん殴ってやりたいわ。アンタが上っ面だけのクズだと見抜けなかった自分自身の未熟さが腹立たしい! あの時……アンタの下衆な本性に気付いてさえいれば……」
優男然としていた諒次の表情が強張り、眉間に青筋が浮く。
隊長に抜擢されたにしては沸点は相当低めのようだ。
「生意気な口を利くなっ! 高が士官学校の教官風情が、最精鋭部隊を率いるこの僕を愚弄するとはいい度胸だ! 偶然とはいえ、再会を祝してあの頃の様に可愛がってやろうと声を掛けてやったのにぃッ!」
「はんっ! アンタのような卑劣な人殺しに触られると想像しただけで鳥肌が立つわ! 真っ平御免よッ!」
子気味好い啖呵を叩きつけ、瞋恚の炎を宿した瞳で諒次を睥睨する志保。
見下していた相手に侮辱されて屈辱に震える諒次だったが、怒りに任せて暴発する様な無様な真似だけは辛うじて堪えた。
何故ならば、それは配下の役目であり、指揮官たる自分が汚れ仕事に手を染める必要はない……そんな愚昧な考えの持ち主だったからだ。
「実戦部隊から脱落した分際で、隊長殿に生意気な口を利いてんじゃねぇ! 女は黙って俺達に奉仕すればいいんだよぉぉッ!」
そんな隊長の思惑を察してか、右端に居た小狡そうな顔をした男が怒号を上げるや、一気に志保に肉薄してフック気味に右拳を振り抜いた。
彼の右手には肘まで覆うハンドアーマーが装着されており、その拳部分には暴徒鎮圧に用いられる強力なスタンガンが内蔵されている。
(掠っただけでも失神する威力だ! その舐めた態度を後悔させてやるぜっ!)
完全に不意を衝いたと燥いだ男は、攻撃の成功を確信し口元を喜色に歪めたが、志保の横腹目掛けて放った筈の拳は彼女に届く前に強固な壁に阻まれ、その接触面で虚しくも電撃の火花を散らすだけで終わってしまう。
「なっ!? 何だ、そりゃあ──っ!?」
必殺の一撃を防いだのは志保の左腕を覆う白銀のアームガードであり、展開されたシールドによって強力無比なスタンガンの威力を完全に封殺して見せたのだ。
「ど、何処に装備を隠していやがったぁっ!?」
唐突に顕現した防具を目の当たりにした男が吃驚するのも無理はない。
現在地球統合軍で採用されているコンバットスーツなど、ヒルデガルドが開発した試作品から比べれば、その概念も性能も三世代は劣る代物でしかないのだから。
だが、相対する二人の差は装備の性能以前の問題だった。
状況が理解できずに思考停止状態に陥った男を余裕の笑みで嘲笑う志保。
「思惑が外れた位で動きを止めるなんて空間機兵失格ね!?」
そう言うや否や、彼女は左手を軽く振り払う。
傍から見れば、大した力が込められてもいない動作だったのだが……。
「ぐぶぉぉ──ッッ!」
男は身体をくの字に曲げたまま吹き飛ばされて宙を舞い、背中から壁に激突して床に崩れ落ちた。
吐瀉物を撒き散らし、白目を剥いて失神した部下の姿を目の当りにした諒次は、その顔に怒りを滲ませて志保を睨みつける。
「な、何なんだそれはっ!? 正式な装備品ではあるまいッ!」
「当たり前でしょう……頭が固くて最新技術にも疎い開発部が、こんな優れモノを開発できる訳がないじゃないの。ある人から性能評価試験を頼まれて御預かりしているだけよ……因みに、そこで寝ている馬鹿を吹き飛ばしたのは『インパクト・カノン』といってね、両拳から撃ち出される衝撃波で相手を殺傷せしめる近接格闘戦仕様の武器よ」
「くっ……このアバズレがっ……」
正体不明の武装に恐れをなし、及び腰になってまでも虚勢を張る諒次に対して、一向に薄れない殺意を叩きつける志保。
「アンタはあの時軍人として……人間として最低の裏切り行為を働いたわ。自分の命惜しさに逃げ出したアンタの所為でッ、どれだけの仲間が無駄死にしたと思っているのッ!? そんなクズが部隊長? 笑わせないでよッ!」
自分の唇から零れ落ちる言葉に煽られた志保は、抑えていた憤怒が激流となって体内を駆け巡るのを抑えられなくなる。
諒次を護るかの様に志保の前に立ちはだかった部下達は、素早く臨戦態勢に移行し油断なく身構えており、各々の手には電磁警棒やナイフが、中にはビームソードを起動させている者までいた。
「詫びを入れるなら今のうちだぞ志保っ! どんなに優れた武器を持っていても、戦力差は歴然だ。女のお前に勝ち目はない」
安全地帯に身を置き余裕が生まれた諒次が嘯くが、ぞっとする様な凄惨な笑みを浮かべる志保は、その憤怒を隠そうともせずに吐き捨てる。
「試してみれば?……私も怒りで頭がどうにかなりそうなのよ。憂さ晴らしにひと暴れしないと今夜眠れそうにもないもの。それに、アンタ達の様な軍の面汚しは、ここで死んだ方が世の為でしょう?」
両者の戦意が限界に達して不穏な空気が充満した時だった。
「いい加減にしないか馬鹿者共がッ! 士官候補生を育成する学び舎で現役士官が私闘に及んで恥を晒す気か?」
言葉は辛辣だが、諭すような低音の声が頭上から降り注ぎ、一同は顔色を変えて一斉に上階に目を遣る。
「あっ、赤髭……どうして、こんな所に……」
踊り場を見下ろすラルフの姿を認めた志保は唖然としてそう呟くのだった。




