第九十二話 変われない者が得た希望の光 ②
(冥界という所は、随分と居心地の良い場所なのだな……)
閉じた両の瞼から伝わって来る温もりに戸惑うラインハルトは、滑稽極まりない感想を懐く己に呆れるしかなかった。
既に死した身には居心地の良し悪しなどは無用のものであり、無謀だと非難されても仕方がない作戦を主導した立場の人間としては、大勢の仲間たちを死に至らしめた責任を問われて然るべきだ……そうラインハルトは思っている。
だが、死後の世界で怨嗟の声を浴びる覚悟はできていたというのに、断罪の時は一向に訪れる気配はなく、摩訶不思議な温もりに包まれたまま時間だけが過ぎていくものだから、まさに肩透かしを食らった気分だ。
しかし、罪悪感に苛まれるだけの時間は、唐突に終わりを告げた。
一切の音と呼ばれるものを失っていた世界が俄かに活気づき、途切れ途切れの声に耳朶を打たれたラインハルトは、漸く断罪の場を得たのだと知って奇妙な安堵感を覚えずにはいられなかった。
(これでいい……恨み言も罵詈雑言も甘んじて受けよう)
そんな諦観にも似た心持ちで審判を甘受する気でいたのだが、それは彼が期待していたものではなく、凡そ、この場には最も似つかわしくないであろう者達からの言葉だった。
『パ……! パ……ったら! ねえ! パパったらぁ──ッ!』
『あなたっ!? どうなさったの? いつ帰還なさったのですか?』
(……キャサリン? それにオリヴィア? ふふ、死んだというのに未練がましい事だな……)
繰り返し呼び掛けて来る娘の歓声と、なぜか戸惑い気味の妻からの鶯舌に聴覚を擽られたラインハルトは、己の往生際の悪さに辟易したのだが……。
『起きてよぉ──ッ、パパぁ──ッ! もうお昼だよぉ──ッ!』
『あなたったら! しっかりなさって下さい! 達也さんやクレアさん達も一緒に還っておいでなのですか?』
直ぐに消える幻聴だと判じたにも拘わらず、ふたりの声は姦しさを増すばかりで、然しものラインハルトも苛立ちを覚えずにはいられなかった。
一体全体どういった趣向なのかは分からないが、地獄堕ちが確定した人間に最愛の者たちの声を聴かせるなど悪趣味以外の何ものでもないと憤慨した彼は、思わず声を荒げてしまう。
「いい加減にしてくれ! ひと思いに断罪すればいいだろうッ!」
だが、己の口から発せられた癇声が妙に生々しくて、胸の中に芽生えた違和感が急速に膨らんでいくのを自覚したラインハルトは、何かに急かされるかの様に意識を覚醒させた。
無我夢中で上半身を起こして気怠い両の眼を開いてみれば、暖かな陽光に満たされた光景の中いるのに気付く。
小さいながらも、美しい緑の芝生と花々が咲き乱れる花壇が美しい庭。
白亜の外壁と樹木のコントラストがマッチしている、まだ真新しい邸宅。
それらが、澄みきった蒼穹とゆっくりと流れていく白雲をバックにして存在している風景は見慣れたものであり、母星セレーネの首都バラディースにある我が家のものに相違なかった。
しかし、その事実を目の当たりしたラインハルトは大いに困惑するしかなく、次々と連鎖的に溢れ出てくる疑問に翻弄されてしまう。
(ここはセレーネなのか? どうして? 確かにダネル宙域の戦闘で戦死したはずなのに……俺は生きているのか? そんな馬鹿な……)
何もかもが理解不能であり、実は死後の世界で心地良い夢を見ているのではないか……そんな非現実的妄想までもが浮かんでは消えていく。
それでも明確な答えを得られなかった彼は、心配げな顔で己を見つめている妻と娘へ、惚けた顔で語り掛けるしかなかったのである。
「オリヴィア、キャサリン……君達も死んでしまったのか? 私達が出撃した後に何があったんだ? 何処の軍隊が攻め入って来たんだい?」
そうでもなければ、とてもではないが辻褄が合わないと考えたのも無理はないが、愛妻と愛娘の表情に浮かぶ困惑の色が、それは違うと如実に物語っていた。
「そ、そんな馬鹿な……だが……まさか……」
戦死したはずの自分が生きてセレーネへ戻っているという事実を確信した彼は、胸の中に芽生えた想いに突き動かされて立ち上がるや、ポカンとした顔の妻と娘へ早口で捲し立てた。
「すまない、話は後で! 私は軍本部へ行って来るから、心配しないでくれ!」
それだけを告げたラインハルトは、期待に逸る心を抑えて駆け出すのだった。
※※※
大破して航行不能になった大和から退艦した詩織ら乗員は、随伴する護衛艦 雪風へ収容され、今は艦舷側中央部にある展望室で虚脱状態にあった。
乾坤一擲の戦いには勝利したものの、その代償は余りにも大きくて重い。
参加将兵の実に六割を喪失し、重軽傷者も合わせれば、梁山泊軍は壊滅的な損害を負ったと言っても過言ではない様相を呈している。
それほどの激戦を生き残った、との感慨はあるが、詩織を始め、神鷹やヨハンら仲間たちの誰もが、その事を素直に喜ぶ気にはなれなかった。
幸いにも「伏龍」卒業メンバーから戦死者はでなかったが、ラインハルトやエレオノーラを含む先達らは激戦の末に壮絶な最後を遂げたし、停戦後に齎された悲報の中には旧知の名前も多く含まれており、ラルフやアイラまでもが逝ってしまったと知った彼らは、絶望に打ち拉がれずにはいられなかったのである。
そんな憔悴し切った仲間たちへ掛ける言葉すら思い浮かばない詩織と蓮は、強化ガラスの向こう側に拡がる漆黒の宙空へ虚ろげな視線を彷徨わせていた。
一旦は第三航空戦隊旗艦 鳳翔へ帰艦した蓮だったが、大和クルーが雪風へ収容されたと知り、つい今しがた合流したばかりだ。
互いの無事を喜び合うも、それを態度に表すのは憚られてしまう。
それも当然だろう。
詩織も蓮も、大切な仲間の命と引き換えにして生かされたとの想いを強く懐いており、とてもではないが、生き残った事を喜ぶ気にはなれなかったのだ。
「ミュラー副司令もエレオノーラ艦隊司令も逝ってしまわれたわ……私達を生かす為に盾になって、敵の集中砲火から大和を護ってくれた……」
「ラルフ隊長も、敵に不意を衝かれた俺を救う為に敵機へ体当たりを……おまけに最後まで気遣って頂いたよ。隊長のアドバイスがなかったら、俺も動力炉の爆発に巻き込まれて死んでいた筈だ……アイラも、鳳翔を庇って敵ミサイルに体当たりをしたらしい」
彼らの決断は軍人としては至極当然のものだろうし、その清廉な人柄を思えば、称賛されて然るべきだと言えるのかもしれない。
だが、自らの命を盾にして仲間を庇った犠牲的行為は尊いかもしれないが、その結果として、遺された者らが背負わなければならない慚愧の念は、果たして甘受して然るべきものなのだろうか。
それを是だとするのならば、余りにも残酷だとふたりは思うのだ。
しかし、同時に彼らは理解していた。
だからこそ、死した仲間から未来を託された者は、その想いを無にしてはならないという事を……。
(どんなに辛くても私は俯きませんよ、エレオノーラ司令。貴女から託されたものを胸に刻んで、必ず、皆が夢見た未来を掴んでみせます)
(ラルフ隊長。アイラ。見ていてくれよ、俺も頑張るからさ)
想いを新たにしたのは詩織や蓮だけではなく、茫然としたまま周囲に座り込んでいた仲間達の顔にも、それぞれに決意らしきものが滲んでいるのが見てとれた。
それが、せめてもの救いだ、そうふたりが思った時だ。
彼らと仲間達との間にあった空間に、突如として膨大な金色に輝く粒子が顕現したかと思えば、それが渦を巻き始めたのである。
その場に居た全員が吃驚して騒然となる中、光の渦は二つに分かれて更に加速するや、それは急速に人の形へと変化していく。
そして、光の奔流が完全に消え去った瞬間、驚きに目を見張る詩織らの前に現れたのは、どこか寝ぼけているかの様に判然としない顔で立ち尽くすエレオノーラとラルフだった。
「……あれ? ここは何処なのよ? それに、何で貴方たちが居るの?」
「俺は体当たりかまして……死んだはずじゃぁ……」
唐突に覚醒した感が強いエレオノーラとラルフも困惑の只中にあり、死んだ筈の己に一体全体何が起きたのか皆目見当が付かないでいる。
だが、そんな彼らに状況を把握する時間は微塵も与えられなかった。
なぜならば、疑問を口にするよりも早く、激しい衝撃に見舞われた艦隊司令官と戦隊指揮官の両名は、敢え無く展望ルームの床へと押し倒されてしまったからだ。
突然の蛮行によって意識を覚醒させたエレオノーラは、床に打ち付けた背中から生じた痛みで己が生きているのだと実感するが、問題なのは物凄い勢いで人を押し倒したかと思えば、胸に顔を埋めて咽び泣いている詩織への対処だ。
「ち、ちょっと落ち着きなさいよ、詩織。私だって混乱しているのだから……」
「そ、そんなのどーだっていいですッ! 生きていた……生きていてくれたんですものッ! それだけで十分ですからぁ──ッ!」
まさかのギャン泣きへ移行して手が付けられなくなった詩織に、エレオノーラは唯々閉口するしかない。
そして、それはラルフも同じだった。
何が何やら訳が分からない状況で押し倒されてしまい、その相手が蓮だと知った彼は、生真面目な性格その儘に頓珍漢な台詞を口にしたのである。
「なんだ、真宮寺!? おまえも死んじまったのか!?」
「そんな筈がないでしょぉ──がッ! 生きていますよッ! 貴方が護ってくれたから動力炉の破壊に成功しました! そしてアドバイスのお陰で生還できました。勝ったんですよ、俺達ッ! 勝ったんですッ!!」
そう涙声で捲し立てる部下を見れば、普段のラルフなら『一人前の男が衆人環視の中で泣くんじゃない!』と叱責しただろう。
しかし、戦いに勝利したと知れば、そんな体裁すら取り繕う事が馬鹿々々しくなってしまい、ふん、と鼻を鳴らすや、その武骨な手で咽び泣いている蓮の頭を撫でてやるのだった。
「そうか……良くやってくれた……おまえもこれで一人前だな」
とは言え、エレオノーラもラルフも己の立場は弁えている。
だから、この奇跡以外の何ものでもない状況の解明に移るべく起き上がろうとしたのだが、それは無駄な努力に終わるのだった。
なぜならば、感極まった神鷹やヨハンらが、これまた詩織や蓮と同様に泣きながら雪崩を打って圧し掛かって来たからだ。
「こ、こらっ! や、やめんか! ぶふっ!???」
「馬鹿ぁ──ッ! 潰れるからぁッ! 折角生き返ったのに、アンタらに潰されて死ぬなんて洒落にならないわよぉ──ッ!!!」
『まあ、これも感動の一幕だと言えなくもないわよね?』
後々に如何にもバツが悪いといった顔で漏らした、詩織の一言である。
※※※
地上部隊の撤収作業が順調に進む中、達也を待って居座る事に決めた子供たちの面倒をジュリアンに託したクレアは、腐れ縁の親友の姿を求めて病院の周囲を探し歩いていた。
ラルフとアイラが戦死したとの報告は、既に志保の元にも届いているだろう。
彼女の悲嘆が如何ばかりかは察して余りあるし、如何に気丈な性格の持ち主とはいえ、絶望して打ち拉がれているであろう事は容易に想像できる。
正直なところ何と声を掛ければ良いのかさえ分からないが、長い付き合いの親友なのだから、せめて傍に居てあげたい、そう思ったのだ。
人員の収容でごった返すイ号潜の周囲を重い足取りで探し歩いていたクレアは、その人混みから距離を置いた並木道の傍らで目的の人物を発見した。
目にも鮮やかな緑黄色の葉を茂らせた巨木の根元に、腐れ縁の親友でもある志保は両膝を抱きかかえるようにして座り込んでいる。
その表情からは何時もの快活さは微塵も窺えず、それが彼女の心情を如実に表しているのだと察したクレアは、まさに悲しみで胸が潰されてしまいそうだった。
傍まで歩み寄ったものの声を掛けそびれていると、暮れゆく大空へ虚ろな視線を向けている志保が、軽々とした物言いで大切な者達を揶揄する。
「本当に薄情な連中よねぇ……私には一言の断りもなく、さっさとあの世へ逝ってしまうなんてさぁ……然も、ふたり一緒によ? 実の父娘とはいえ、どんだけ仲が良いんだって話よね」
「……志保……」
それが精一杯の強がりでしかないのは一目瞭然だが、慰めの言葉すら思いつかない己の無力さを嘆きながらも、悲しみに暮れる親友の姿に居ても立っても居られなくなったクレアは、その俯き加減の頭を抱擁するしかなかった。
途端に声が湿り気を帯びたかと思えば、零れ落ちる言葉が涙声へと変化する。
「美人の嫁……素敵なお母様をひとりぼっちにしてさ……自分たちだけ格好つけて死んじゃうなんて……本当に……ヒドイ……でも、でもさ……うっ、ううう~」
とうとう我慢できなくなったのか、嗚咽を漏らす志保。
そんな彼女を抱き締めてやる事しかできないクレアは、運命を左右する存在へ、ありったけの恨み言をぶつけてやりたいとの衝動に駆られてしまう。
だが、無力感と憤りに苛まれて涙が溢れそうになった時だ。
目が眩むほどの光の粒子たちが二人の周囲に顕現するや、まるで花吹雪のように舞い始めたものだから、クレアも志保も呆気にとられるしかなかった。
しかし、その摩訶不思議な現象は長くは続かず、渦を巻き始めた黄金色の粒子が次第に人の形へと変化し、遂にはあどけない寝姿となって二人の前に現れる。
そして、一拍の間と刹那の間の静寂の後、志保の絶叫が周囲の空気を震わせた。
「ア、ア、アイラぁぁ──ッ!!」
母艦を護る為に愛機ごと盾となったと聞かされていた愛娘が、何の前触れもなく唐突に目の前に現れたものだから、志保が取り乱すのも当然だろう。
しかし、それは原因不明の奇跡に対する驚きや恐れではなく、唯々純粋な歓喜に他ならなかった。
だから、抱きしめてくれていたクレアの手を乱暴に振り払うや、まさに飛び掛からんばかりの勢いで横たわるアイラの肢体へ縋り付いたのだ。
「アンタって娘は本当にもう……おかーさまに悲しい思いをさせる親不孝な馬鹿娘なんだからぁ……生き返ったぐらいでは許してやらないんだからねッ!」
義娘の胸の上に顔を伏せた志保は、歓喜の涙を拭おうともせずに泣き喚く。
そして、アイラが意識を取り戻したのも、そんな混沌とした状況の最中だった。
(あれぇ……どうして志保が泣いているのよ? それに、私、あの時に死んじゃった筈だよね? じゃあ、これって夢なのかな……何かフワフワして気持ち良いし。それにしても志保ったら……ギャン泣きじゃないのさ……ふふっ)
ひどく気怠くて指一本動かすのも億劫で仕方がない。
おまけに目の焦点も合わないのか、己が置かれている状況すら理解できなかったが、嬉し泣きする大好きな義母が、自分の生還を喜んでくれているのだけは何となく分かった。
その事が妙に擽ったくて、そして嬉しくて、だからこそ、体当たりの直前に懐いた後悔を繰り返したくはない……そう強く思ったのかもしれない。
躊躇いという枷が外れ、心地良い温もりに背中を押されたアイラの唇から愛しさを滲ませた想いが零れ落ちる。
「ただいま……母さん……心配させて……ごねんね」
想像していたよりもずっと気恥ずかしかったが、何とか言葉に出来たと胸を撫で下すアイラ。
だが、やはり志保は志保だった。
ピタリと泣き止んだかと思えば、驚愕に引き攣った表情で娘の顔を凝視するや、たっぷりと五秒は固まってしまったのだ。
そして、沈黙を破った彼女の言葉が……。
「もう一回言って……さあ、もう一度『お母さん』って呼んでッ!」
(いや、そんなに期待感爆発させた顔で催促されてもさぁ……さっきのはウソ泣きだったんじゃないの?)
微妙に残念な気分を味あわされたアイラは、志保の変わり身の早さに苦笑いするしかなかったが、無邪気な子供の様にキラキラした瞳で執拗に強請られると、一旦は抑え込んだ筈の気恥ずかしさがムクムクと込み上げて来てしまう。
(雰囲気に流されて要求を聞き入れたら一生後悔するかも……)
身悶えしそうな程の照れ臭さに我慢できなくなったアイラは、そんな自己弁護を採択するや、夢の続きを楽しむ事を優先させるのだった。
「う~~ん……また来年の誕生日にね……それまで待っててね、志保」
やはり、私達はこんな関係がお似合いだ。
そうほくそ笑むアイラは、志保から伝わって来る心地良い温もりを堪能しながら、狸寝入りを決め込むのだった。
尤も、その無情な仕打ちに納得がいかない駄々っ子が騒ぐので、のんびりと惰眠を堪能するという訳にはいかなかったのだが……。
「ちょっと、アイラぁ──ッ! アンタ、年に一回しか「お母さん」って呼ばないつもりなの? 残酷よ! 蛇の生殺しだわ! 断固抗議するわ──ッ! 大体ね、『お母さん』は誕生日プレゼントじゃないのよ? アンタどんだけケチなのよ? 起きなさい! そして、ママの話を聞きなさぁぁぁ──いッ!」
柔らかいオレンジ色の景色の中、志保の絶叫だけが風に乗って天高く舞い上がるのだった。
余談だが、ラルフも生きていたと知らされた志保が、周囲から向けられる耳目も御構い無しに涙腺を崩壊させて大泣きするのは、もう少し先の事である。




