第八十九話 悲しき兄妹 ④
『お兄ちゃん、お願いだから、もうやめて! 私の病気は誰の所為でもないわ! だから、これ以上自分を責めないで!』
声にならない切迫した哀願は大切な人の心には届かず、虚しく闇の中へと溶けて消え行くばかりだ。
(真っ黒な何かに邪魔されて、お兄ちゃんの心が感じられなくなっていく……)
この苦痛に満ちた牢獄に囚われてから一体どれ程の時間が経過したのかは分からないが、そう遠くない未来に命の残り火が尽きてしまうのだけは理解できた。
その事実に絶望しなかったといえば嘘になるが、それ以上に彼女が心を痛めたのは、悲憤の情に苛まれて荒みゆく父と兄の変わり様だった。
十歳の誕生日に昏倒して以来、全ての感覚を喪失して実世界との接点を絶たれてしまったが、それでも、最愛の家族の存在だけは感じ取る事ができた。
譬え、それが視覚や聴覚から得られる明瞭な情報ではなく、形を成さない思念といった類のものでも、マチルダにとっては家族との間に残された唯一の絆に他ならない。
その拠り所を失う事は自らの死と同義であり、だからこそ、唯々父と兄の安寧を願ったのだ。
しかし、その想いも虚しく、狂気渦巻く闇へと呑まれた父は帰らぬ人となってしまい、そして、今まさに最後に残された大切な肉親の魂までもが消え去らんとしているのを察したマチルダは、押し寄せる絶望感に心を引き裂かれる思いだった。
誰よりも優しかった兄は、父が主導した研究へ自らを供物として捧げた日を境にして徐々に精神を蝕まれていったが、悪意ある闇に囚われて指先ひとつ動かせないマチルダは、ただ只管に懇願を繰り返すしかなかったのである。
(私が病に冒されたのはお兄ちゃんの所為じゃない! だから自分自身を責めないでっ! 誰が悪いわけでもないのだからッ!)
しかし、その切々とした想いは届かず、絶望という名の闇に侵蝕されたローランは、諦念の果てに人間世界を終焉へと導くという妄執に囚われてしまったのだから、マチルダの悲嘆が如何ばかりだったかは想像するに容易いだろう。
(あんなにも優しかったお兄ちゃんが、この世界の全てを憎んだまま消え行こうとしている……私が病に倒れたばかりに……)
いっそ自分を生かしているこの機械が壊れてしまえばいいと何度思った事か。
無慈悲な現実に弄ばれた父が絶望の中で憤死した時と同じ様に、最愛の兄までもが悲嘆の果てに命を滅せんとしている悪夢を見届けなければならないマチルダは、己が無力を嘆くしかなかった。
だが、欠片ほどの救いもない無慈悲な現実に打ちのめされ、心が折れようとしたその刹那……。
悲劇から目を逸らさんとしたマチルダが、まさに心を閉ざそうとした瞬間に奇跡が起きたのだ。
囚われている闇の世界に一条の光が射したかと思えば、身体に纏いついていた邪なモノが、断末魔の恐怖を撒き散らしながら次第に小さくなり、終には跡形もなく消失したのである。
その途端に周囲の闇は雲散霧消し、少女は温かい光の世界へと帰還を果たす。
そして、そんなマチルダを出迎えたのは、優しさに満ちた温もりだった。
「もう大丈夫だよ……私は白銀さくら。やっと逢えたね、マチルダちゃん」
その無垢で清らかな魂の色をマチルダは一生忘れないだろう。
清廉でありながら、気高くも強い意志を秘めた純粋なる慈愛。
(もしも、この世に神様がおられるのならば、これこそが……)
そう畏怖せずにはいられなかったマチルダは、半ば放心したまま呟いていた。
『貴方様は? 白銀さくら様とは……』
「〝様″なんていらないよぉ~~。さくらはさくらだもん! でもね、ずっと前からマチルダちゃんの声は聞こえていたの……お兄ちゃんが心配で泣いていたよね? だから助けに来たんだよ! さくらも力になるから、お兄ちゃんにガツンと言ってやろうよ!」
『そ、そんな事ができるのですか!? ならば、連れて行って下さい! 兄が居る場所までッ!』
その声の主の申し出が嘘や冗談の類でないのは本能で理解できた。
だから、未だに兄を救う手段が残されていると知ったマチルダは、微塵も迷わず差し出されたさくらの手を取ったのだ。
◇◆◇◆◇
グランローデン帝国艦隊による増援は、キャメロットだけではなく達也にとっても想定外の事態だった。
ただ同じ想定外の事象でも、両者の思いに雲泥の差があるのは明らかだ。
南部方面域からの来援を作戦の骨子に組み込んでいた反政府軍と、端から味方の援護などを期待するべくもなかった梁山泊軍。
当然だが、その差が両司令官の采配と両軍将兵らの士気、特に覚悟の面へ多大な影響を及ぼしたのは容易に想像できるだろう。
しかし、不利な戦況を覆す妙手も、達也にしてみれば特別なものではなかった。
飽くまでも、総司令官として当然の仕事を実践したに過ぎないのだ。
(開戦前に可能な限り勝利の確率を引き上げる策を講じる……それが指揮官の役目だが、まさか帝国艦隊が参戦してくれるとは思わなかったな。南部方面域の敵軍を牽制してくれるだけでも上出来と考えてはいたが……)
クラウスに命じて南部方面域の民衆の憤懣を煽って騒乱を勃発させ、増援部隊の中核を成す艦隊戦力を足止めする。
それと並行してグランローデン帝国の内戦にも決着をつけ、その結果生じた余剰戦力の一部で反政府勢力を牽制して身動きが取れない状況へと追い込む。
達也が思い描いた戦略は図に当たり、戦況は梁山泊軍へと傾きつつあった。
とは言え、それは僅かに傾いだという程度のものに過ぎない。
達也にもキャメロットにも、まさに此処からが正念場だった。
『まったく忌々しい人だ……何処まで私の邪魔をする気なのだ?』
「そう思うのならば話し合いに応じろ! 既に腐敗貴族らの勢力は一掃されているじゃないか!? 手段の是非は兎も角としても、今ならばフェアシュタント同盟との交渉も可能な筈だッ!」
『何を今更……束の間の平穏などは新たな腐敗を生む下地でしかない。どんなに高邁な理想も何れは形骸化して陳腐なものへと堕してしまう。もはや話し合いなど無意味だ』
目にも止まらぬ攻防の最中で激しい論戦を交わす達也とキャメロット。
変幻自在の動きを見せるリングから撃ち出されるビーム弾の礫は激しさを増して猛然とその牙を剥くが、敢然と抗い続ける達也も譲る気は毛頭なかった。
本体である光の球体は大口径ビームの一撃さえも弾く代物で、かすり傷すら与えられない有り様だが、それは、達也が操る〝疾風″も同様だ。
雨霰と襲い来るビーム弾の全てを両手に装備した双剣で斬り払いながら、複数のビームディフェンダーを駆使して敵の攻防の要でもある三本のリングへダメージを与えているのだから、その人間離れした操縦技術と耐久力にキャメロットが苛立つのも無理はなかった。
勿論、達也とて普通の人間である事に変わりはなく、多少頑丈だとはいえ人外の存在ではないのだから、それが単なる痩せ我慢でしかないのは明白だ。
せめてもの救いは、双剣の中身がヒルデガルドから託された炎鳳と氷虎だという点だが、それも本体へ肉薄できないのでは宝の持ち腐れでしかない。
双方決め手に欠けた儘、いつ果てるとも知れずに一進一退の攻防は続く。
「確かに貴様の言い分は間違ってはいないだろうさ。多くの人も組織も長い年月の中で腐敗していくのは避けられない現実だ。だがな、その過ちを人は自ら正せるのだ! 自らの間違いを悔い改められるからこそ人間なんだよッ!」
『そんなものは詭弁でしかない……人間は醜い欲望に溺れて他者を平然と傷つけて恥じない生き物だ。後世に恥を曝すぐらいならば、公正な裁定者の下で家畜として生きれば良いではないか。他者へ犠牲を強いる事でしか成立しない今の世界など、一度壊してしまわねば真の安寧を得るなど永遠に不可能だ』
「恥を掻くのがなぜ悪い? 大いに恥を掻けばいい! 失敗して泣くのも良いし、己の無力さを嘆いても構わないさ! なぜならば、それらの負の感情すらも糧にして人間は成長できるのだから!」
達也との論戦を重ねる毎に思考に不快なノイズが走る頻度も増えていく。
その陳腐な現象は、人である事を捨てたキャメロットにとっては到底容認できるものではなかった。
不安定極まる感情を排除し、秩序ある理によって管理統治された世界を築く。
それ以外に人という種が存続する道はないとの確信は些かも揺らいではいないし、間違っているとも思えない。
だが、その想いに達也の言葉が楔となって突き刺さるのだ。
その不快さを表現する術すら喪失しているキャメロットだったが、微かに残っていた自我を揺さぶられたからか、思わずといった体で荒々しい反応を返した。
『甘っちょろい理想論など聞き飽きた! この銀河世界にとって、人間という存在こそが諸悪の根源なのだ! 大切な娘の存命を願い、それでも望まぬ研究へと手を染めざるを得なかった父の苦悶。そして、マチルダの命すら無価値だと貶めた人の世に存続させる価値などないッ!』
それは、キャメロット自身も自覚し得なかった本音だったのかもしれない。
そして、その変化に戸惑い言葉を失った達也の代わりに反応したのは……。
『それは違うわッ! お願いだから、もうやめて頂戴! 私の大好きだった優しいお兄ちゃんに戻ってぇ──ッ!!』
哀切の情を隠そうともしないマチルダの思念だった。




