第八十九話 悲しき兄妹 ③
「憶測でものを言うのは止めて貰えませんかねぇ……私に不都合な事など有る筈がないでしょう」
素っ気ない風情を装うクラウスだが、バクバクと高鳴る心臓からの抗議は無視できないレベルに達している。
今も胡乱な視線を投げて来る志保が、一体全体どこまで見通しているのかと考えれば、生きた心地がしないのも当然だろう。
何と言っても彼女は、クレアの最初の夫であり、土星宙域で殉職した〝久藤悠也″とも面識があるのだから。
万が一にも志保が詐欺師の正体に気付きでもしたら、その圧倒的な武威によって抹殺されるのは確実だ。
精神体には影響が及ばないとはいえ、高額のアバターが塵屑と化すのは確実で、経済的にも愛妻の機嫌の面でも間尺に合わないのは考えるまでもなかった。
(まさか私が久藤悠也だったと気付いた訳じゃないでしょうが、迂闊な事を口走れば、唯では済まないでしょうねぇ……くわばら、くわばら)
兎にも角にも焦って言い訳を並べた挙句に墓穴を掘るのは禁物だ……。
そう胸の中で自分自身に言い聞かせたクラウスは、素知らぬ顔で沈黙を貫く。
そして、そんな彼から何かしらの疑惑の匂いを感じ取ったのか、猜疑心を露にした眼差を強くする志保……。
まさに何かが起こる……。
皆がそう思った時だった。
「この切迫した状況で悪巫山戯を楽しむなんて、ふたりとも随分と余裕があるじゃないか? その呑気さが一体全体どこから来るのか……一度開頭して脳みそを調べさせてくれないかぁ~~い?」
満面に微笑みを湛えたヒルデガルドが、まるで『ちょっと検査してみようか?』との軽いノリで宣ったから堪らない。
勿論、場の空気を読まない何時ものジョークではなく、本気で苛立っているのは誰の目にも明らかだった。
同じファーレン人のクラウスにとってヒルデガルドは最悪の相手だ。
完全精神生命体の彼を物理的な手段で葬ることは不可能だが、同質の特性を持つ存在であり上級者でもあるヒルデガルドならば、同族を塵芥も残さずに抹消するなど朝駆けの駄賃でしかない。
だから、次期女王陛下候補筆頭の威を熟知しているクラウスには、ヒルデガルドの意向を無視するという選択肢は端からないのである。
そんな事情は志保も同じであり、心臓病を患っていた母親へ、高額の医療機器を何の躊躇いもなく供与して貰った恩義を今も忘れてはいない。
また、厄介な悩み事を抱えたクレアが、常に助言を乞う相手がヒルデガルドだという事実を知るだけに、この変人殿下に対する評価は志保にとっては格別なものであるのも確かなのだ。
当然だか、その可愛らしい見た目とは裏腹に、敵に廻すと非常に厄介な存在だという闇情報も夫や達也から得ていた。
そうとなれば、聡明で世渡り上手な志保がヒルデガルドと対立する愚を犯す筈もなく、何とか穏便に事態をやり過ごす方向へと方針を転換したのである。
ならば、ふたりが取る道はひとつしかない。
「何やら誤解しているようですが、私に含む処は何もありませんよ。寧ろ、早々に無益な争いにケリをつけて、さっさとセレーネへ帰りたいですね。如何に任務の為とはいえ、初産の妻を数か月も放置しているのですから……離婚されないか、それだけが気掛かりです」
「そ、そぉ──よねぇ! ファーレン人は受胎して出産するまで三年以上の月日を要すると聞かされたけれど、傍に頼れる人が居るのと居ないのでは精神的にも雲泥の差ですものね」
「おや? 嬉しいですねぇ……お気遣い頂けるとは思いませんでしたよ」
「なによぉ~~。私だって奥様とは仲良くさせて貰っているのよ。容体を気に掛けるぐらいは当たり前でしょ?」
「それは、それは……妻に代わって感謝しますよ……」
満面の微笑みで完全武装した志保とクラウスが固い握手を交わす。
その余りにも白々しい芝居には辟易するしかないが、今は時間が惜しい。
敢然と断を下したヒルデガルドは、問答無用の体で言い放った。
「これ以上の議論は不要だよん! このマチルダという少女を救う事で何が起こるかは分からないが、さくらっちとユリアっちの想いに賭けてみようじゃないか! 二人の精神を分離融合させて保護するのはボクがやる。君はボクの精神をマチルダの精神と同調させるだけでいい。それならば簡単だろう?」
いとも容易く『簡単だろう?』と同意を求められたクラウスは、既に諦め顔だ。
この採算に見合わない暴挙によるリスクは考えるまでもないが、自他共に認める我儘大王のヒルデガルドが、一旦下した決断を翻すなど天と地が引っ繰り返っても有り得ない事も充分理解している。
況して、ユリアとさくらから切なさと期待が入り混じった眼差しで見つめられたのでは、まるで自分が悪者になったかの様な気にさせられるのだから始末に悪い。
となれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。
「仕方がありませんねぇ……ですが精々数分間が限度ですよ? それ以上に時間が掛かれば、殿下は兎も角、子供達の精神と身体の繋がりが切れてしまう恐れがあります。ですから無茶な真似はしないと約束して下さい」
渋々といった風情で折れるしかなかったクラウスだが……。
「ありがとうッ! クラウスおじちゃんッ! 大好きだよぉ──ッ!!」
破顔一笑して歓声を上げるさくらから抱き付かれれば、満更悪い気はしないものだと感じている己が可笑しくて苦笑いするしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
それは不思議な感覚だった。
様々な色彩が交錯しては目の前を流れていく不思議な世界。
いや、世界だと認識している事こそが、実態を失っている今の自分が置かれている状況を的確に表しているのかもしれない……。
そんな小難しい理屈に小首を傾げたさくらだったが、それがユリアの精神と融合してマチルダと同化した結果だと直ぐに理解できた。
「気分は如何? 私との繋がりが負担になってはいない?」
「大丈夫ぅ! 何時もよりずっとお姉ちゃんを身近に感じられるよッ!」
実際にはユリアやヒルデガルドの姿を視覚情報として共有する事はできないが、常に傍に誰かが居る感覚が揺るぎない安心感を与えてくれるのは事実だ。
だからこそ、その研ぎ澄まされた感覚から生まれる力を存分に発揮したさくらは、悲嘆に暮れる少女の慟哭を捉える事ができたのである。
だが、何度呼び掛けてみても一切の反応を見せないマチルダは、これまでと同様に『お兄ちゃん。もうやめて』との哀哭を只管に繰り返すのみだ。
これには、ヒルデガルドやユリアも疑問を覚えずにはいられなかった。
この少女が周りも見えなくなる程に一途になる事情は分からなくはないが、それにも限度というものがある。
直接的に精神へ干渉されているのだから、違和感や釈然としない嫌悪感を感じて然るべきなのだが、他者からの接触にすら気付かないのは異常でしかない。
「殿下……これは、もしかして……」
「あぁ、そうだね……この娘を蝕んでいる謎の病魔が関係しているのは間違いないだろうね」
しかし、漠然と異変の兆候を感じ取っただけの二人とは違い、その悪辣で不埒な存在をさくらは見逃さなかった。
「むうぅ~! なんでこの子をイジメるのぉ──ッ! これ以上ヒドイ事をするのなら、絶対に許さないんだからねぇ──ッ!」
当然だが熱り立つさくらの感情は、精神体として同化しているユリアとヒルデガルドも共有している。
だからこそ、その嫌悪の情が向けられる先で蠢くモノに気付くのは然して難しい事ではなかった。
「何だいこの不愉快な感覚は? 影みたいなモノが身体全体を覆っているが……」
「いえ! 背骨や胸骨の辺りです! 禍々しい存在を感じますッ!」
そう断言したユリアの意志とシンクロしたヒルデガルドは、さくらからの情報も併せて吟味するや、瞬時に違和感の正体を看破して見せた。
「病巣は推体骨と胸骨の中……骨髄が本命だよん! そこに何かが寄生したが故に血液が汚染されて脳に障害が及んだのだろうね」
「でも、血液や循環器系の検査結果では、何の異常も見られなかった筈ですが?」
直前のデーターに目を通していたユリアが疑問を懐いたのは可笑しな事ではなかった。
この時代に於ける医療機器の発展には目覚ましいものがあり、どんな些細な異常ですら検知して病巣を特定する性能を有している。
それにも拘わらず、マチルダからは何の異常も発見されなかった。
だからこそ、父親のウィルソン・キャメロット博士は、冷凍睡眠装置の導入による延命措置という消極的治療を選択せざるを得なかったのだ。
だが、さくらとユリアの感覚と同化したヒルデガルドには、巧妙に己が身を潜めている病魔の正体に思い当たる節があった。
「百年ほど昔〝クルーエル・ハイダー(無慈悲な隠遁者)″と名付けられたウイルスが原因で発病する新種の風土病が発見されて学会を賑わせた事があったんだよん。ただ、余りにもサンプル検体が少なかった所為で、正式に認知される事がなかった曰く付きのモノなのさ。その後は罹患者も臨床例も皆無だったから、何時しか医療関係者らの間でも話題にならなくなったんだが……やはり実在していたんだねぇ」
今や対マチルダという状況に限れば、ヒルデガルドの透視力は高性能医療機器と比較しても遜色はなく、寧ろ、直接コンタクトが可能であるが故に病巣を暴く事に関しては数段上回っていると言っても過言ではなかった。
「北部辺境宙域に生息する微弱なウィルスは、人間の体内に入る事で全くの別物に変質するという事例が報告されているんだよん。コイツもその亜種だろうね。骨髄に寄生して機能を乗っ取るや、己の細胞を変質拡散させる事で宿主の弱体化を促すんだ。その際にあらゆる体内の組織情報を正常値に偽装して改変してしまうものだから、何度検査しても〝異常なし″という結果しかでなかったのさ」
嬉々として解説に没頭するヒルデガルドだったが、そんな彼女に文句を言ったのは、他ならぬさくらだ。
「そんな話は全部後回しだよ! 今はこの子を助けるのが先なのぉ──ッ!」
「あはは、ごめんよ。希少で貴重な症例だからね、つい調子に乗ってしまったよ。だが、問題は骨髄に深く侵食しているパラサイト・ウィルスをどうやって駆逐するかだが……」
然しものヒルデガルドも、治療法や対処良薬が確立されていない病気に対しては打つ手がないというのが正直な所だったが、その問題は実にあっさりと解決した。
「大丈夫です。さくらには竜母セレーネ様から託された力があります。それを解放すれば、恐らくは……」
そのユリアからの提案は実に非科学的なものであり、何時ものヒルデガルドならば簡単に納得はしなかっただろうし、力の行使そのものを容認しなかったかもしれない。
だが……。
「まっかせてぇ──ッ! あの黒くてイヤな奴をやっつければ良いんでしょう? さくらに掛かればチョチョイのチョイだよ!」
既に臨戦態勢でヤル気満々のさくらの気持ちが痛いほど分かるだけに、科学者としての矜持を押し通す事を躊躇わずにはいられなかった。
しかし、真っ当な治療方法が確立していない以上は、それが非科学的な超常の力であっても有効活用するべきであり、その程度の柔軟性はヒルデガルドも持ち合わせている。
元より味方を取り巻く状況は刻一刻と厳しさを増しているのだ。
ならば、一か八かの賭けにでるのも有りだろう……。
そう、ヒルデガルドは腹を括ったのである。
(リスクが同じならば成功の確率が高い方を選択するのが常道……ならばこの娘達に賭けてみるのも一興…まさに後は〝神のみぞ知る″だよん!)
そう決断したヒルデガルドは、逸るさくらへGOサインを出すのだった。




