第八十話 その視線の先にある未来 ③
王立病院のB1FからB3Fまでは大小様々な手術室や検査室が犇めいており、地上施設と同様に患者や一般外来者も出入りは自由となっている。
また、その更に下層のB4FからB7Fまでは駐車場になっており、総合中央病院であるにも拘わらず、都市部から離れた郊外に立地している為か、訪れる多くの車で終日ごった返すのが常だ。
しかし、それらは、この病院の表の顔に過ぎない。
B7Fの最奥にある救急救命車両用駐車場の更に奥には車両専用のエレベーターがあり、ジュリアンとグロリアを乗せたリムジンは、人目を忍ぶようにしてその中へ車体を滑り込ませた。
鋼網製のシャッターと合金製の扉が閉じるや、浅い駆動音と共に微かな浮遊感を感じ取ったジュリアンは、車ごと下層へ移動しているのだと気づく。
対外的には地下施設はB7Fまでとなっているが、パンフレットなどに表記されている以外にも秘密施設は存在しており、B8FからB10Fの各フロアーでは、世間には公表できない機密性の高い研究を行うラボが多数稼動していた。
ジュリアンらが連れていかれたのは地下最下層。
世間からは隔絶された別世界であり、同時にローラン・キャメロットが魂の安寧を得られる、この世で唯一の場所でもある。
勿論、初対面の相手の事情などジュリアンに察する術はないが、大会議室ほどの空間を各種医療機器が埋め尽くしている光景を目の当たりにすれば、何かしら特別な場所なのだと気づかない方がおかしいだろう。
そして、その部屋で彼を出迎えたのは、ローラン・キャメロットと側近と思しき二人の軍人だった。
「御命令により、ジュリアン・ロックモンド氏を御連れ致しました」
敬礼をするグロリアが事務的な口調で上申すると、答礼したキャメロットは彼女へ労いの言葉を掛けてから、僅かに口元を綻ばせて歓迎の意を示す。
「ようこそ我が魂の故郷へ、ジュリアン・ロックモンド総帥。以前から一度御目に掛かりたいと思っていたよ」
その物言いからは一切の虚勢や圧力は感じられず、差し出された右手を握り返したジュリアンは、内心の戸惑いを悟られない様に表情を取り繕わなければならなかった。
その端正な顔立ちはラインハルトと比較しても遜色なく、一見するだけでは人の好さそうな好青年にしか見えない。
しかし、巨大権力に反旗を翻し、情け容赦ない策謀を以て多くの命を奪ったのも間違いなく彼自身なのだ。
その相反する人物像を肌で感じたジュリアンが、得体の知れない不安から警戒の念を強くしたのは、至極当然の反応だったのかもしれない。
「それは……光栄です。本日は私の不躾な要望を御聞き届け戴き、貴重な御時間を頂戴した事に心から感謝申し上げます」
ジュリアンが通り一遍の謝意を返すと、軽く一礼したグロリアが言葉を挟む。
「それでは、小官は失礼させて戴きます」
監視役も兼ねた取調担当武官というのが彼女に与えられていた肩書だった。
如何なる思惑の産物かは分からないが、正式にジュリアンが解放された以上は、己の役割も終了したと彼女が判断したのは決して間違ってはいないだろう。
しかし、そんなグロリアに待ったを掛けたのは、他ならぬキャメロットだった。
「グロリア・ルフト大尉。君が所属していた情報局は既に解体済みだ……そこで、御願いがあるのだが……引き続きジュリアン・ロックモンド氏の世話係を引き受けて貰いたいのだが、どうだろうか?」
余りにも突飛な提案にグロリアだけではなく、ジュリアンも面食らってしまう。
しかし、御願いと言いながらも、そこに〝拒否″という選択肢が適用されないのは、彼の両脇に控えている青年将校らが纏う剣呑な雰囲気からも明らかだ。
「恐らく当面の間は此処で暮らして貰うことになるだろう……私の隣に控えているガルド・レンセン大尉とコナーズ・ソラリア大尉の両名が指揮する中隊を配備し、氏の護衛には万全を期すつもりだが、如何せん武骨者ばかりでね。細やかな気遣いができる君にも是非とも御力添えを戴きたい」
その慇懃な物言いに抗いがたい意志を感じ取ったグロリアは、然して迷う事もなく、その要請という名の命令を受諾した。
「了解いたしました。引き続きロックモンド氏の御世話をさせて戴きます」
彼女と共にジュリアンの尋問を担当していた面々は昨日付けで解任されたと聞いているが、下流貴族の中でも末席に連なる者達だっただけに、粛清の対象にされたであろう事は容易に想像がつく。
その点で言えば、平民出身であり不正には無縁のグロリアが難を逃れたのは当然だと言えるが、命令を拒めば穏便に済んでも監獄行きは免れないだろう。
だから、要請という名の命令を拒絶するという選択肢を、グロリアは持ち得なかったのである。
「引き受けてくれて嬉しいよ。それでは、任務の詳細と今後の護衛方針はこの両名からレクチャーを受けてくれたまえ。頼むぞ、ふたりとも」
主の命に一部の隙もない敬礼で応えたレイセンとソラリアは、グロリアを一瞥するや、機敏な足さばきで退出していく。
その視線の意味を過たずに理解した彼女は、敢えてジュリアンとは目を合わせずに彼らの後を追ったのである。
敵方の総帥とひとつ部屋にふたりきり……。
(ユリア……僕に勇気を与えておくれ……)
此処が正念場だと覚悟を決めたジュリアンは、愛しい恋人の顔を思い浮かべ決意を新たにするのだった。
◇◆◇◆◇
「それで? キャメロット閣下の御言葉を鑑みるに、私が女である事が抜擢の決め手になった様ですが……世話係というのは〝夜のお相手″……そう解釈してもよろしいのですか?」
警備兵の詰め所らしき部屋に移動したグロリアは、含み笑いを漏らしながら意味深な問いを投げ掛けてみた。
怜悧な美貌と艶然とした雰囲気を併せ持つ彼女だからか、その物言いには違和感も嫌味も感じられなかったが、新しく上司となった青年士官らは揃って顔を顰めて嫌悪感を露にする。
(あらあら、ふたりとも馬鹿正直だこと……もう少し腹芸が達者でないと指揮官としては大成しないわね)
揶揄うつもりはなかったのだが、初対面の人間を推し量るには有効な手段だ。
この手の会話を軽くあしらえる人間は、人生経験が豊富で機知に富んでいる優秀な人材が多いが、潔癖すぎるほどに固い反応を返す者は、総じて扱いが面倒だと、彼女は自身の経験から学んでいた。
そして、その例に漏れず、やや年長のレイセン大尉が、内心の不快さを隠そうともせずに語気を荒げて言い放つ。
「任務の内容については勝手に判断するがいい! だが、キャメロット様の体面に泥を塗る様な真似だけは許さんから、そう思いたまえ!」
想定内の生真面目な返答だったが、敬愛する盟主の体面を慮るのは当然とはいえ、その厳しい口調からは、少々度が過ぎてないかとの違和感も感じられる。
彼らのキャメロットへの心酔ぶりが如実に表れた遣り取りに興味を懐くグロリアだったが、初対面から詮索がましい態度を取って警戒されては堪らない……。
そう判断した彼女は、軽口を封印して鷹揚な態度で微笑んで見せた。
「そうですか……では、許された範囲で全力を尽くさせて戴きますわ」
しかし、続いてレイセンの口から飛び出した言葉は、グロリアを驚愕させるには充分すぎるインパクトを孕んでおり、小さくはない動揺を彼女に齎したのである。
「勘違いしない様に最初に言っておくが……貴官の最も重要な任務は、万が一にもロックモンド氏が賊徒の手によって奪還されそうになった時……彼を始末する事に尽きる。キャメロット様の思い描かれる崇高な未来には財閥など不要……ましてや敵陣営の人間である以上、いっそ殺した方が手間が省けるというものだ」
◇◆◇◆◇
「コールドスリープ・システムですか……つまり冷凍仮死状態にして病状の進行を抑えているのですね?」
数多くの機械と無数の配管やコードで繋がれたカプセルに視線を奪われて身動ぎもできないジュリアンは、そう問い返すのが背一杯だった。
正確には彼が見ているのはカプセル内部の様子をモニターしている映像だ。
そこには、幼い少女が昏々と眠り続けている様子が映し出されており、それが、不治の病に冒されたキャメロットの妹だと知れば、その不憫な境遇にも憐憫の情を懐かずにはいられなかった。
「病魔の進行を抑え込んでいると言いたい所だが、実際には治療手段も確立できず、徒に絶望の瞬間が訪れるのを引き延ばしているだけなのかもしれない」
その自虐的な物言いからは感情の機微は窺えないが、淡々と紡がれたものであるだけに、その憂悶の深さが際立っている様にも感じられる。
そして、妹の快癒を願って已まない彼が、あらゆる手段を講じたであろう事は、ジュリアンにも容易に想像がついた。
だから、脳裏に浮かんだ仮説をキャメロットにぶつけてみたのである。
「悪魔の御業と忌避された〝フォーリン・エンジェル・プロジェクト″も、元を正せば妹さんの治療の為だったのではありませんか?」
「父の頭の中にはそれしかなかったのだろう……だが、脳改造による人間種の新たな進化という点で微々たる成果を残しただけで、病魔の特定も治療法も皆目見当がつかなかった……挙句の果てに罪の意識に苛まれて獄死したのだから、とんだ道化だったと嗤うしかないがね」
「そんなっ! そんな言い方をしなくても……」
「失礼。決して父を侮辱している訳ではないんだ。非力なのは私も同じだからね。闇に閉ざされた極寒の牢獄に囚われた哀れな妹を助けてもやれない……本当に情けない兄だと自分を責めているだけさ」
そう独白するキャメロットの表情に僅かばかりの影が差すのを見たジュリアンは、何らかの打開策はないのかと焦慮に駆られて口を開く。
「他国の優秀な医者や研究者には診療を依頼しなかったのですか?」
「したさ……だが、狂気の人体実験を主導したウィルソン・キャメロットの身内だからね。世論からの非難を恐れて誰も取り合ってはくれなかったよ」
当時の状況と事件の残忍性を鑑みれば、キャメロット兄妹に対する酷薄ともいえる対応は仕方がない事だったのかもしれない。
だが、肉親の罪を幼子に背負わせて糾弾し、それが正しいのだ! 正義なのだ!そう言い募って自己陶酔する世界が真っ当なものである筈はないだろう。
そう憤慨するジュリアンは映像の中の生気の無い少女が哀れでならず、己の非力を嘆いて臍を噛むしかなかった。
※※※
ジュリアンが悲憤に暮れていたのと同時刻。
帰宅途中だったさくらは、不思議な声を聞いた気がして足を止めた。
声がした方向に視線をやれば、空を茜色に染めながら沈みゆくランツェの雄大な姿が目に飛び込んで来る。
そして、その遥か彼方から聞こえて来る声には確かに深い悲しみが宿っており、その不思議な体験に戸惑うさくらは、声がする方向へ両手を掲げて呟くのだった。
「どうして泣いているの? 何がそんなに悲しいの?」
しかし、その問いは精霊が舞う優しい風に溶けて消えてしまい、何の答えも返してはくれなかったのである。




