第七十五話 皇后陛下のお気に入り ④
ランズベルグ皇国国歌をアレンジした楽曲が厳かに流れる中、レイモンド皇王の名代として晩餐会のホスト役を務めるソフィア皇后とケイン皇太子、そしてアナスタシアが会場に姿を見せた。
また、皇王家の御方々の背後には皇王府を筆頭に各省庁の長が付き従っており、その周囲には護衛を担う武官達が犇めいている。
そんな一行を先導するのは、近衛艦隊総司令官であり、ソフィア皇后専属の身辺警護役も兼務しているシャリテ・サジテール少将だ。
新嘗の大祭以降の騒動の中で皇王家に対する忠節を貫いたばかりではなく、先の皇国奪還戦に於いては、自ら艦隊を率いて多大な武勲を挙げた勇将の誉れ高い女性将官として広く周知されている。
その功績に対して軍本部から大将への昇進を打診されたものの、これを固辞して周囲を驚かせたが、その公正無私で謙虚な人柄を知るソフィアだけは、満足そうな表情で頷くだけだったという。
そんなシャリテが先頭で睨みを利かせているものだから、歩を進める皇后一行に近づこうとする者はおらず、その場に畏まって慇懃恭敬を尽くすばかりだ。
だが、何処にでも例外は存在するものであり、その者達を認識したシャリテは、あからさまに表情を険しくした。
その例外とは彼女の進行方向正面。
会場の中央部分に設えられた空間に陣取っている集団であり、シャリテにとっても顔馴染といえる者達だ。
しかし、顔馴染と言っても友好的な関係を構築している訳ではなく、その傲慢で無神経な為人には辟易させられる事も屡々であり、以前から苦々しく思っていたというのが、偽らざる本音だった。
(相も変わらず厚顔無恥も甚だしい……下手に騒動にして新同盟の命運を左右する訳にもいかないから目を瞑っているというのに……オルグイユの連中めッ……)
そう胸の中で吐き捨てたシャリテの視線が捉えているのは、先程まで繰り広げられていた騒動の一方の首魁であるホドス・アハトゥングとその一行だ。
そして、恥知らずな揉め事の詳細は会場の至る所に配置された皇王府の官僚らから逐一報告がなされており、その結果が彼らに何を齎すか容易に想像できるシャリテは、秘かに胸の中で嘲笑するしかなかった。
(愚かな……調子に乗った挙句、怒らせてはならない御方を怒らせてしまったな。多少の恥を掻かされる位は我慢して頂こうか、なあ、アハトゥング宰相閣下)
表情に滲んだ不快感を瞬時に掻き消したシャリテは、何時もと変わらぬ鉄面皮を取り繕って歩を進めるのだった。
※※※
オルグイユ連邦共和国宰相であるホドスは、新同盟内での優位な立ち位置を確保せんとして、会場の中央辺りの開けた空間で待機していた。
勿論、それは今宵の晩餐会に於ける最重要人物であるソフィア皇后にコンタクトを取る為であり、他の招待客に先んじて言葉を交わす事で、皇国が最も頼りにしている国はオルグイユだと、他の国々へ知らしめるべく画策しているのである。
(我が国の陣営に下った小国の数は他を圧倒している……この事実は譬え七聖国といえども無視はできまい……多少礼儀を欠いた行為であっても、皇后も正面切って文句は言わぬだろうよ)
突出した軍事力を除けば、オルグイユが他のあらゆる面で皇国の足元にも及ばないのは事実であり、それどころか貿易を含む経済分野では、中堅処の国家の後塵を拝している程度のものでしかない。
しかし、対銀河連邦軍という局面を鑑みれば、盟主の座を確実にしている皇国といえども、オルグイユが保持する大戦力を無視できないのも確かなのである。
となれば、新同盟内での厚遇は確約されたも同然であり、多少の無礼は許される筈だとホドスは信じて疑ってもいなかった。
今宵の晩餐会の主催者は皇后であるソフィアだが、彼女は皇王の名代という立場でもあり、招待客の方から軽々と声を掛けるなど許される筈もない。
だが、他国の使節団を出し抜き、いの一番に皇后と会話できれば、同盟内に於けるオルグイユの立場は盤石のものとなり、強い発言権を得るのも夢ではないのだ。
(同盟内での多数派工作さえ上手くいけば、そう遠くない未来にはランズベルグやファーレンすら凌駕できる可能性とてある……くっくっくっ……)
そんな妄執に酔い痴れながら、やや早い足取りで接近して来る皇王家一行へ熱い視線を注ぐホドスは、己が出番を今や遅しと待ち構える。
そして、待ち望んだ時が訪れた。
会場前方にある演壇の隣に設えられた専用席へと向かうソフィアが目前に迫った瞬間、ホドスは一行の進路を遮らんとして一歩を踏み出そうとしたのだが……。
「皇后陛下に対し奉り非礼な真似を働くのならば、それが何人であれ排除するのが私の役目です。慎まれるが御身の為でしょう」
半歩も進まぬうちに一行を先導していたシャリテによって進路を遮られてしまい、挙句に殺気にも等しい剣呑な感情を滲ませた双眸で睨みつけられたものだから、然しものホドスも蹈鞴を踏んで立ち止まらざるを得なかった。
そうこうしている内に御目当てのソフィア皇后は、悠然とした足取りで彼の前を通り過ぎていくのだが、眼前での悶着など意に介した様子もない今宵の女主人は、新同盟のキーマンを自負するオルグイユの宰相には一瞥もくれずに無視する。
「こ、皇后陛下ぁ──ッ」
何が起こったのかホドスには理解できない。
この場に参集した国々の中でも、一頭地を抜く存在だと誰もが認める強国の存在を無視するなど有り得る筈がないのだ。
だから、彼は自らの体面を取り繕う事も忘れてソフィアの背中を追おうとしたのだが、それは虚しくも徒労に終わってしまう。
「皇后陛下が今宵最初に御言葉を掛ける相手は決まっておりますので御遠慮ください。これはソフィア様の御希望でありますし『何人であれ邪魔させぬ様に』と厳しく申し付かっておりますので……これ以上は恥の上塗りでしょう。素直に諦めるのが貴国と貴方の為です」
真冬の冷気を思わせる冷淡な視線と物言いをぶつけて来るシャリテの壁は厚い。
然しものホドスも、その圧には抗しきれず引き下がざるを得なかった。
この時点でオルグイユと彼の面子は潰されたも同然であり、満座の中で赤っ恥を掻かされたホドスは、忽ち顔を朱色に染めて地団太を踏んだのである。
(おのれえぇぇッ! 馬鹿にしおってぇッ! この私をぞんざいに扱って唯で済むと思っているのかッ!)
今更憤慨しても全ては後の祭りだが、傘下に取り込んだ国々の者達が向けて来る冷めた視線を強く感じたホドスは、更なる苛立ちに切歯扼腕するしかなかった。
(だが、一体全体どういう事だ? 皇后自らが挨拶を希望する相手とは……)
皇后の真意を確かめずにはいられずに視線を向けた先では、会場の隅で佇んでいる、とある使節団を目指して一直線に歩み寄るソフィアが両手を大きく広げており、その姿からは歓迎の意思が色濃く滲んでいた。
そして、その使節団が何者であるのか理解したホドスは、更なる屈辱に打ちのめされて怒りに身体を震わせたのである。
※※※
「ねえ……私、嫌な予感しかしないんだけれど?」
珍しくも困惑を露にする親友の言には、クレアも同意するしかなかった。
「分かっているわ……でも、今更逃げ出す訳にもいかないでしょう」
譬え、その人格に問題がある人物だとはいえ、ホドスは紛う事なき大国の指導者であり、新同盟の設立と今後の舵取りに於いて、重要な役割を担う存在であるのは間違いないだろう。
そんな彼を一顧だにもせずに無視したばかりか、挨拶すら許さないというのは、政治的駆け引きに精通し気配り上手の誉れ高いソフィア皇后にしては些か乱暴ではないかと、クレアも小首を傾げざるを得なかった。
だが、演壇へと歩を進めていた皇后一行が直前でその向きを変えるや、護衛官らが掻き分けた人垣の間を悠然と歩き始めたものだから、クレアとしては嫌な予感しかしない。
然も、一行の進行方向に居るのは彼女たちだけなのだから、ソフィアが真っ先に歓待しようとしている相手が誰なのかは、誰の目にも明らかだった。
だから、目前まで迫って来た皇后陛下が満面に優雅な微笑みを湛えて両腕を広げたのを見たクレアは、悪い予感が的中したと観念するしかなかったのである。
「ようこそランズベルグへ! 貴女に再会できる日を一日千秋の思いで待ち侘びていましたよ」
その広げた両腕でクレアを抱き締めたソフィアが弾んだ声を上げれば、会場の彼方此方から騒響が起こる。
新同盟の盟主でもあるランズベルグの皇后が、しがない新興国の指導者に対して自ら声を掛けるだけでも前代未聞なのに、一切の形式的儀礼を排してフレンドリーに振舞うなど、本来ならば有り得ない事なのだ。
だからこそ、この場に居合わせた各国使節団の面々が驚倒したのも、至極当然の事だと言えるだろう。
しかし、クレアにしてみれば、全方位から集中する驚嘆と羨望の視線が気恥ずかしくて仕方がなく、恐る恐るながらも小声でソフィアへ懇願した。
「身に余る御言葉を頂戴し恐悦至極、と申し上げたい所ではありますが……陛下の御立場も御座いましょう。先ずは跪拝の礼を取る事を御許し頂きたいのですが」
すると、ソフィアはクレアにだけ聞こえる様に耳元で囁く。
「事前の打ち合わせもなく驚かせてしまいましたね。でも、もう少しだけ私に付き合って下さいね」
更に華やかな笑みを浮かべてクレアの手を取り歩き始めたソフィアは、困惑する彼女には御構いなしに演壇へと場所を移す。
そして、一体全体何事かと注視する会場の全ての者達に対し、その微笑みと共に歓迎の言葉を贈った。
「御来賓の皆様方。今宵は私の主催する晩餐会へようこそ御出で下さいました……我が皇王家の総力を挙げて歓待する様にと皇王陛下より申し使っておりますので、皆様に御満足いただける様に全力を尽くす所存です。どうか、最後まで御ゆるりとお楽しみくださいますように……」
そして、クレアの手を引いて自分の隣に立たせるや、会場の隅から隅までを見渡してから、一段と華やいだ声で偽らざる本心を吐露したのである。
「この御方はアマテラス共生共和国大統領である白銀クレア様ですわ。実は、我が皇王家へ不届き者達の毒牙が迫った折に、彼女には多大な恩義を賜りましたの……然も、為政者としても女性としても素晴らしい御方ですから、私にとって彼女は、シャリテ同様にお気に入りの一人なのです。この機に皆様も親しく御縁を結ばれては如何でしょうか?」
その茶目っ気たっぷりの言葉を機に会場の騒響は哄へと変わり、これまで以上に熱い視線を向けられたクレアは、何らかの思惑に踊らされているのだと気付いたが、もはや完全に手遅れだった。
彼女にできたのは、抗議の意思を込めた視線でソフィアとアナスタシアへ事態の説明を求める事だけだったが、それすらも二人の貴人は華麗にスルーして知らん顔を決め込むのだから始末に悪い。
(ひいッ!? 一体全体どういう御積りなのですかぁ!?)
お気に入り認定されるという想定外の事態に見舞われたクレアは、その取り繕った表情の裏で、まるで動物園の珍獣になった気分で慌てふためくしかなかったのである。
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