第七十五話 皇后陛下のお気に入り ②
(このボウヤは自分が何を口走ったのか分かっているの!? それとも、正真正銘の馬鹿なのかしら?)
下卑た欲望を隠そうともしない破廉恥な台詞を口にした青年に対する志保の感想が、これだった。
現状では知名度など無いに等しいとはいえ、アマテラス共生共和国はランズベルグ皇国からの正式な招待を受けた独立国家である。
国の歴史やその規模には厳然とした差があるとしても、銀河世界の安寧を願い、腐敗し衰亡の一途を辿る銀河連邦の在り様を糺さんとする志は、他の大国と比しても何ら劣るものではなかった。
それにも拘わらず、相手を小国と見縊り、一国の大統領に対して高飛車な物言いで一方的に要求を突き付けるなど、余りにも非常識だと言わざるを得ないだろう。
ましてや、その従者を満座の中で辱めたばかりか、醜い欲望を露にして侮辱するなど、とてもではないが正気の沙汰ではなかった。
(自国開催の晩餐会ならばいざ知らず、同盟の盟主たるランズベルグ皇王家主催の夜会で恥知らずな物言いをするなんて……)
志保がそう呆れたのは至極当然だと言える。
選りにも選って皇国主催の晩餐会で狼藉を働いたとなれば、それは皇国の体面に、延いては皇王名代として出席するソフィア皇后とケイン皇太子の顔に泥を塗るに等しい暴挙であるのは、この場に参集している者ならば誰もが弁えている。
如何にオルグイユ連邦共和国が大国だとはいえ、その国力や歴史は元より、他国に対する影響力に於いても、皇国に遠く及ばないのは周知の事実だ。
それならば、新同盟の結束を確固たるものにする為に他国との協調を第一に考えて行動するべきなのに、自ら騒動のタネを撒き散らすなど到底信じられるものではなかった。
だが、この手の自意識過剰な愚物を嫌になるほど見て来た志保には、彼らが何を考えているか手に取る様に分かってしまう。
(新しく結成される同盟内で優位な立場を得る為に己の力を誇示し、新しく傘下に納めた国々への影響力も強めておきたい……か。でも、宰相閣下の火遊びを窘めるどころか、その従者までもが一緒になって羽目を外すなんてね……ラルフから聞いていた通りの破落戸だったって事か)
その如何にも政治屋らしい姑息な思惑には辟易するしかなかったが、それ以上に彼女を呆れさせたのは、シレーヌに対する邪な情欲を隠そうともしない年若い男の無礼な物言いだ。
オルグイユ連邦共和国のホドス・アハトゥング宰相と肩を並べている以上、何らかの関係者だとは思っていたが、彼の口を衝いて出た『叔父上』という言葉から、この青年が何者なのかは志保も容易に察した。
何故ならば、護衛役としてクレアと共に晩餐会へ参加すると決まった時に、夫のラルフから〝要注意人物”との注釈付きでレクチャーされた相手だったからだ。
『コイツの名はマッシーモ・アハトゥング。オルグイユ連邦共和国の盟主ナーメ・アハトゥングの長子だ。二十代の半ばの筈だが、多少マシな顔の造りと親の七光りぐらいしか語る所がないクズ野郎だ。巫山戯た口を叩きやがったら、遠慮なく顔面にパンチを入れてやれ。俺が許す!』
元傭兵団のボスであり、血の気の多いファイターパイロットでもあるラルフだが、基本的には温厚な良識人だ。
その彼が憤懣やる方ない表情で此処まで言うのだから、このマッシーモという男と過去に一悶着あったのだろうという事は直ぐに察しがついた。
実際に後でアイラに聞いた所によると、まだ傭兵家業をしていた頃にオルグイユ連邦共和国と契約を結び、近隣宙域を跋扈していた海賊団相手の討伐戦に参加したのだが、その時の討伐部隊の司令官を任されていたのがマッシーモだったらしい。
その無能っぷりはアイラの説明でも際立っており、一本気なラルフが嫌悪感を露にするのも当然だと志保は思った。
『ベストな対応策は顔を合わさない事だ。徹底的に回避しろ。あの胸糞悪いガキは元より、鼻持ちならない権威主義者の馬鹿親父とも関わり合いなるな。所詮は水と油でしかないのなら、交わる為の努力など無駄だと思っておいた方が良い』
苦虫を嚙み潰したような表情で最後に忠告してくれた夫の言葉が身に染みる。
だが、ちょっかいを懸けてきたのは向こうの方なのだから、不慮の事故だと思って諦めるしかないと志保は嘆息した。
ならば、友好的な関係を構築できないと分かった以上、ラルフの助言通り早々に彼らの前から辞去するに限る。
そう志保は判断したのだが……。
ホドスと対峙しているクレアにその気がないのは、腐れ縁の彼女には一目瞭然であり、温厚な親友が珍しくも激怒しているのが分かってしまうだけに始末が悪い。
(これは、もう一悶着あるわね……)
争いは不可避だと覚悟した志保は、忠告を無にされた夫に詫びると同時に、彼我の戦力差を見極めるべく相手の護衛官の力量を推し量る。
(ごめんねダーリン。水と油でも交じり合えると我が国の大統領閣下は考えているようだわ……相手の護衛官は八人ね。ヨハンが二人、私が六人か……まあ、何とかなるでしょう)
どうやら楽しい夜になりそうだと思った志保は唇の端を軽く上げるのだった。
※※※
(この人は何を言っているの? こ、怖い……)
不埒な欲望を滲ませた眼差しを向けられた挙句『この獣人女は私の好きにしても構わぬでしょう』と、悪意に満ちた台詞をぶつけられたシレーヌが、嫌悪感と共に恐怖したのも当然だろう。
彼女達アルカディーナにとって、人間という存在は嘗ての英雄たちの敵であり、直接に相見えた事はないとはいえ、憎みても余りある存在でしかなかった。
だが、達也やクレア、そして彼らの仲間達と出逢い、その交流を通じて憎しみは過去のものとなったのである。
とは言え、その後のヴェールトからの獣人救出作戦などを通じて同胞らの悲惨な境遇を知った彼女は、未だに変わらぬ亜人への偏見と差別に憤りを覚えずにはいられなかった。
だからこそ、達也とクレアが掲げた共生社会の実現という夢に賛同し、その手助けをしたいと願って今日まで研鑽を積んで来たのだ。
地球から逃亡してセレーネ星に身を寄せた避難民の若者達とのトラブルはあったものの、その他の地球人らとは良好な関係を築いていた事もあり、些少でも自信らしきものが芽生えたと思っていたのだが……。
(私を好きにする? 本気で言っているの? それに、今宵の晩餐会は唯の親睦会ではないわ。銀河系の命運を左右する重要な場であるのに……その使節団の代表者が色欲を露にして恥じ入りもしないなんて……)
目の前で起こっている事が余りにも浮世離れしており、考えれば考えるほど混乱は増していく。
できる事ならば今すぐにでも逃げ出したいと思ったが、淫猥な光を宿す男の視線に射竦められたシレーヌは足が竦んで一歩も動けず、何をどうすれば良いのかさえ分からなくなる。
だが、下手な対応をして騒動が大きくなれば、アマテラスに対する皇国の評価にも悪い影響がでるのは確実だし、延いてはクレアにも迷惑を掛けてしまうのは避けられないだろう。
シレーヌは、何よりもそれを恐れたのだ。
(そんな最悪の事態だけは回避しなければならない……私みたいな若輩者に期待して送り出してくれた長老達や、皆のためにも無様な真似はできないのに……でも、一体全体どうしたらいいの……)
焦れば焦る程に心は千々に乱れ、思考の袋小路へと迷い込んだ彼女は、事態収拾への道筋さえ見つけられないでいた。
宰相を名乗る上級者と対峙しているクレアに助力を乞う訳にもいかず、かといって、大国の重臣の機嫌を損ねて国家間の問題へ発展すれば、アマテラスが被る損害は計り知れないものになる可能性すらある。
そんな事態に陥れば、一官僚でしかないシレーヌの手に負えるものではなくなり、建国したばかりの母国の体面にも大きな傷をつける事になるだろう。
そんな恐ろしい未来が脳裏を過ったシレーヌは、身体中から血の気が引いていく感覚に恐怖して眩暈を覚えた。
(いやっ! 私の所為でクレア様に御迷惑をお掛けするなんて絶対に耐えられないわ……でも、どうしたら良いのか分からないっ!)
その懊悩がシレーヌの心を圧し潰そうとした瞬間、己の未熟さに絶望した彼女は為す術もなく後退しようとしたのだが、結果的に最悪の展開だけは回避される。
折れかけたシレーヌの心を支えたのは、彼女の背中に添えられたヨハンの掌から伝わって来る温もりだった。
大胆にカットされたドレスから覗く背中の真ん中辺りに添えられた手。
想いを通わせたばかりとはいえ、シレーヌにとってヨハンは既に掛け替えのない存在になっており、その温もりは確かに彼女の心を震わせたのである。
そして、耳元で囁かれた恋人の声が心を震わせる。
「何があっても君は俺が護る……だから悔いを残すな。君は君らしく思いのままに全力を尽くせばいいんだ。何時だって俺は君の味方だから……」
思わず涙が滲んでしまいそうな程に嬉しかった。
弱い自分を支えてくれる人がいるという事実が堪らなく嬉しく、心を満たしていくヨハンの温もりが愛おしくて仕方がない。
(逃げる訳にはいかないわ……彼が私に向けてくれる信頼と想いを失わない為にも一歩も引くわけにはいかないっ!)
そう決意したシレーヌの顔からは怯えや弱気の色は消え失せ、決然とした覚悟を滲ませたものに変化していく。
それと同時に、嘗てアナスタシアから繰り返し訓示された言葉が脳裏に蘇った。
『常に国家と国民のために誠意をもって尽くしなさい。それが、政治に携わる全ての者が、等しく心に刻まなければならない使命です』
愛しい恋人と恩師の至言に勇気を得たシレーヌは、その柔軟な思考力を遺憾なく発揮して最善の対処法を模索する。
そして瞬時に解答を導き出した彼女は、凛とした眼差しでマッシーモを見据えるや、何の気負いもない微笑みを浮かべて慇懃な仕種で頭を垂れた。
「私の様な未熟者に過分な御心遣いを賜りまして心から感謝します。恥ずかしながら、緊張して何も考えられなくなっておりましたが、貴方様のジョークで気持ちが軽くなった様です。本当にありがとうございました」
シレーヌが選択したのは自らが道化役を演じる事であり、全てを冗談で済ませば、相手の面子を損なわずに場を収める事ができると考えたのだ。
そして、その選択は、この場の不穏な雰囲気を取り繕うには最善の方法だと言っても過言ではなかった。
事実、周囲で事の成り行きを見守っていた各国使節団の中には、シレーヌへ向ける眼差しを柔らかいものへ変える者達が何人も居て、それが彼女の対応が間違ってはいない事を証明している。
このシレーヌの機転をホドスとマッシーモが受け入れさえすれば万事が丸く収まる筈だったのだが……。
事態は彼女が思い描く通りにはならなかったのである。




