第七十一話 一秒先の未来 ④
脳が、目が、耳が、そして身体の隅々に張り巡らされている神経という神経が、激しい痛みに苛まれて断末魔の悲鳴を上げる。
既に、何も見えず、聞こえず、自分が置かれている状況すら判然としない蓮は、それが死へと続く一本道だと本能的に悟って恐怖するしかなかった。
まるで底の見通せない暗闇に呑まれて行くかの様な感覚。
その闇に絡み取られた瞬間から、手足どころか指一本動かすのさえ億劫になり、霞がかかったかの様に混濁した脳は思考を放棄し始める。
すると、全身を苛んでいた激痛が薄れ始め、のた打ち回るほどの苦しみと絶望、そして、恐怖までもが急速に遠のいていくのが分かった。
(あぁ……この儘で良い……苦しいのは嫌だよ……)
苦痛を忌避して現実逃避を選択する弱い自分の姿を、朦朧とする意識の中で見ているしかない蓮。
何故こんなにも苦しく、辛い思いをしてまで戦わなければならないのか?
今の自分に出来る事は全てやっただろう?
ならば、少しぐらい休んでも良いじゃないか?
己が身体と神経を擦り減らし、訓練に没頭したにも拘わらず結果は芳しくなく、渇望する未来は、その姿を欠片ほども見せてはくれない。
だったら、もう良いだろう……。
充分頑張ったのだから此処で終わりにしても……。
意識を手放してしまえば楽になれる……。
そんな諦念が思考の全てを覆い尽くすや、周囲の闇は更にその濃さを増し、疲れ切った身体と心を深淵へと誘う。
だが、真宮寺 蓮という人間の根幹を成す魂は、その安易な選択を許さなかった。
(馬鹿野郎ッ! 泣き言を並べる暇があるかッ! さっさと立てぇぇ──ッ!)
闇の底へと沈み行く己を叱咤する心の底から迸る絶叫!
そして……。
「蓮ッ! しっかりしなさいッ! しっかりしてぇぇぇぇ──ッ!!」
狼狽と不安、そして悲痛な想いを滲ませた悲鳴に耳朶を揺さ振られた蓮は、心に巣食った惰弱な諦念を強引に捻じ伏せて覚醒する。
(詩織の前で無様な姿を見せられるものかッ!)
譬え、姿は認識できなくても詩織の声を聞き違える筈もなく、奮起した蓮は辛うじて死地からの生還を果たす。
だが、その代償は大きく、大いに後悔する羽目に陥ってしまう。
蘇った痛覚を苛む激痛に蹂躙されたかと思えば、疼くような激しい頭痛と、鳴り響く非常警報に精神をぶん殴られて気が狂いそうになる。
朦朧とする視界は悲痛な表情の詩織を捉えるのがやっとであり、おまけに耳鳴りが酷くて、彼女が何を言っているのかさえ判然としない有り様だった。
しかし、開放された訓練機のハッチを限界まで押し上げて縋りついて来た詩織の身体に触れた蓮は、彼女を安堵させるべく、掠れた声で語り掛けたのである。
「ごめんな……でも、御蔭で……助かったよ……」
「ばか……心配させないでよ。もう……」
それは消え入りそうな弱々しい声だったが、恋人の無事を知って安堵した詩織は、泣き笑いの顔でそう呟くや、蓮の胸に顔を埋めて咽び泣くのだった。
◇◆◇◆◇
「だ~か~ら~! 意識だけは手放すなって言ったでしょう?」
訓練の当事者が危険な状態を脱したと判断したシステムが緊急保護機能を解除するや、先程までの喧騒が幻想だったかの様に室内は静寂を取り戻していた。
訓練用のヴァーチャルシステムユニットから這う這うの体で這い出た蓮も、漸く落ち着きを取り戻し、殺風景な部屋の隅の壁に背を預け、腰を下ろした格好で息を整えている。
そんな彼の鼻先に滞空するポピーが『一体全体なにを聞いていたのよアンタ?』という心の声が駄々洩れした呆れ顔で苦言を呈せば、憔悴した蓮に寄り添う詩織が、涙に濡れた双眸を険しくして嚙みつくのだった。
「冗談じゃないわよッ! ヴァーチャル訓練で命を落とすなんて誰が想像できるというのよッ!?」
しかし、その怒りを滲ませた叱声にも表情を変えないポピーは、軽く肩を竦めて剣呑な感情の奔流をやり過ごすや、事も無げに反論する。
「文句があるのならコイツに言いなさいよね。私は“達也が見ているもの”を見せてやっただけだしぃ~。それを見たいと言ったのはコイツですからねぇ~」
「あ、貴方ねぇぇ──ッ!!」
まさに一触即発の不穏な空気が彼女らの間に流れたが、余りにも無責任な物言いに嚇怒した詩織が掴み掛かろうとするのを制したのは、他ならぬ蓮だった。
「ポピーの言う通りだよ。彼女の忠告を蔑ろにした俺のミスだから、どうか責めないでやってくれ……でも、ありがとうな、気遣ってくれて」
唯一の被害者である蓮からそう言われれば詩織も折れざるを得ず、不承不承ながらも怒りの矛先を収めたが、飽くまでも平常運転を装うポピーは、恋人達を揶揄うのに余念がない。
「はいはい! ここは訓練をする場所でぇ~~す! イチャイチャはお家でしてくださぁ~~い! あっ!? お家じゃ駄目かぁ、愛華の教育に悪いもんね!」
隣の詩織から再び剣呑な雰囲気が立ち上がるのを察した蓮は、これ以上話が拗れては堪らないと思い、恋人が口を開く前にポピーを問い質した。
「さっきのアレは何だったんだ? アレが提督が見ている世界だと言うのか?」
その表情はまさに真剣そのものであり、超常現象に対する恐怖や忌避感は微塵も窺えない。
その事を察した大精霊は軽く鼻を鳴らすや、意地の悪い視線で蓮を睨め付けた。
「何よ? まだ懲りてない訳? アンタには無理だって分かったでしょ?」
「無理でも何でも諦めたくはないんだよッ! アレが何だったのか俺には見当もつかないが、提督だけを危険な目に遭わせて知らん顔などできるものかッ! たった十数分程度の戦闘で死にかけるなんて、冗談にもほどがあるぞ!」
その焦燥を滲ませた心情の吐露を聞いたポピーは、満足げに口の端を吊り上げたが、片や蓮の独白に違和感を覚えた詩織は怪訝な表情で呟いていた。
「十数分ですって? システムが異常を検知して緊急停止モードに切り替わるまで訓練開始から三秒もなかったわよ?」
「なんだってッ!? そ、そんな馬鹿な……だって、俺は確かに十数機の敵を撃墜したのに……」
己の認識と現実との乖離に大いに戸惑う蓮だったが、その謎は他ならぬポピーによって、実にあっさりと解き明かされたのだ。
「簡単な事よ……アンタの思考、五感、そして未来予測の根幹を成す第六感と呼ばれている能力を大幅に加速させただけ。それによってアンタは、常に一秒先の未来を見据えて戦えたって訳。尤も、達也は三秒先を見越して戦っているけれどね」
「し、思考を加速させる? そんな事が……」
想像を絶する告白に愕然とする蓮は混乱の極地にあり、そう呟くのがやっとだったが、驚倒する彼にはお構いなしに大精霊は説明を続ける。
「人間という種が、本来持っている力のほんの一部分しか使えないのはアンタ達も知っているんでしょう? でも、その眠れる力を解放すれば、超常の力を発揮するのも夢ではないわ……ただし、加減を間違えれば、身体の方が過剰な能力に耐えられずに壊れてしまうけどね」
そう語るポピーの表情からは彼女の心情は窺えないが、言葉の端々に滲む痛苦に蓮は気付いてしまう。
だが、詩織にしてみれば到底看過できる話ではなかった。
最悪の場合は蓮が死んでいたのだと改めて思い知らされた彼女は、憤慨して語気を荒げるや、澄まし顔の大精霊に喰って掛る。
「死ぬなんて簡単に言わないでッ! 冗談じゃないわよッ! こんな危ない真似は金輪際……」
そう言い掛けた詩織の肩を掴んだ蓮は驚く恋人を視線だけで黙らせるや、表情を消して此方を窺っているポピーへ問い掛ける。
「事態のカラクリは理解した。でも、あんな真似が人間にできる筈がないだろう?提督はどんな奇跡を使って力を行使しているんだ?」
「意志の力よ。これまでの人生の中で培って来た技術と積み上げて来た遣る瀬ないまでの悲しみ……そんな想いの塊が不可侵の扉を開いた。そうとしか言いようがないわ。奇跡とはね、白銀達也という存在を指した言葉なのよ」
彼女自身も明確な答えを持ち合わせていないのか、曖昧な返答に終始するしかないらしく、困惑と呆れを内包したその物言いに蓮は絶句するしかなかった。
だが、そんな彼に今度はポピーが問い掛ける。
「それで? アンタはどうしたいの? 私ならアンタを達也と同じ場所に立たせてあげられるわ。でも、当然ながら制約はあるし限度もある……最悪の場合は生命の危険もね……それでも“疾風”に乗りたい? 乗って戦いたいの?」
肩に添えられている詩織の手に力が入り、パイロットスーツを握り締める感触が心に微かな痛みを齎す。
その不安と懸念、そして想いが痛いほど理解できる蓮は、その手に己の手を当てて労わるかの様に優しく包み込んだ。
「大丈夫だよ……心配しなくていい。必ず“疾風”を乗りこなして詩織の所に帰る。だから、俺に戦わせてくれ」
迷いなど微塵もない顔でそう言い切る恋人を見た詩織は、あぁ、やっぱり……。
そう思わずにはいられなかった。
凡庸で不器用な人間でしかない蓮は達也の様な英雄の器を持ち合わせてはいないが、頑固という一点のみで、全てを覆す可能性を秘めていると彼女は信じて疑ってもいない。
だからこそ、己の決意に双眸に宿る光を強くする蓮を見れば、その必死の懇願を詩織は拒める筈もなかった。
「分かった……その代わり絶対に約束は守って……でないと、結婚してあげないからね……生きて帰って……それだけで充分だから」
そう告げるのが精一杯の詩織は重ねられた恋人の手に額を当てて啜り泣く。
そして、笑みを以てその厚情に感謝した蓮は、答えを待つ大精霊を見据えて言い放ったのである。
「俺は戦うよ。だから力を貸して欲しいっ! 金輪際泣き言はいわないから、俺と一緒に戦ってくれッ!」
その決意に揺らぎはないと確信したポピーは満足げに大きく頷いて哄笑した。
「まぁ、辛うじて合格ね。何時も美味しいものを御馳走してくれている春香のためにも、このポピー様が力を貸してやろうじゃないのさ! こんなサービスは滅多にしないんだからね! ありがたく感謝しなさぁい!」
こうして、蓮&ポピーという名物凸凹コンビが誕生したのである。
◇◆◇◆◇
「やれやれ、お喋りな不良精霊だ……余計な事をべらべらと……」
ポピーと部下達の遣り取りを司令官公室のモニターで見ていた達也にしてみれば、この成り行きは不本意極まる結果であり、大いに嘆息せざるを得なかった。
異常事態の発生と同時に血相を変えた詩織が飛び出して行った辺りで不安を感じてはいたが、己の杞憂が的中した今となっては、秘密を暴露した自称相棒には思いっきり文句を言いたい心境だ。
そんなネガティブな思いを懐くのも無理はないだろう。
大型モニターの前に佇んでいる彼の隣にはクレアが寄り添っており、片腕を絡め身体を密着させた格好で剣呑な気配を漂わせているのだから。
愛妻からの叱責を覚悟して身構える達也だったが、クレアは声を荒げて詰問するような真似はしなかった。
少しだけ困った表情に微笑みを浮かべ、冗談とも採れる言葉で詰るだけ……。
だが、その声はか細く頬は涙で濡れて……。
達也は意表を衝かれて言葉を失くすしかなかった。
「何時も無茶ばかりしてぇ……ユリアが言う通り達也さんは酷い人だわ。私に心配ばかりさせる意地悪な人……」
その非難の言葉には隠し切れないほどの哀切の情が滲んでおり、クレアの不安が手に取るかの様に分かってしまう。
だが、それでも無謀な行為を止めてくれと口にしないのは、夫を信じると決めた彼女の精一杯の痩せ我慢なのだと達也は気付く。
だから、そんなクレアが愛しくて、その手に己の手を絡めて包み込んだ。
「約束しただろう? 俺は君より先には死なないと。必ず生き抜いて君の居る場所へ帰って来る……だから、信じてくれ」
「都合が悪くなるとそればかりなんだから。あ~あ、損な約束をしてしまったわ。これじゃあ文句も言えないし、泣いて詰る事もできないじゃありませんか」
「我儘を言った挙句に心配ばかりさせて済まない。けれど君との約束だけは決して蔑ろにはしない。必ず果たしてみせるよ……愛している、クレア」
切ない声でそう囁かれたかと思うや唇を奪われていた。
重ねられた唇から伝わる温もりによって、心の中の憤りや悲しみの全てが曖昧なものにされてしまう。
本当は看過してはいけないのかもしれない。
泣いて縋って『危ない真似はしないで』と懇願するのが正しいのかもしれない。
何よりも子供達の事を考えれば、そうするべきなのだろう。
だが、それでも……とクレアは考えてしまう。
もしも、己の節を曲げて得た未来が満足できるものではなかったならば、きっと達也は後悔して自分自身を責めるだろう。
そんな夫の姿をクレアは見たくはなかったし、子供達にも見せたくはなかった。
それならば、約束を信じて達也と共に歩いていけば良い……。
改めてそう決意を固くしたクレアは、不安を紛らわせるかの様に優しいくちづけを甘受するのだった。
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