第七話 集う人々 ①
七月も数日を残すのみとなった、ある日の早朝。
陽が昇ると同時に気温は上昇の一途を辿り、今日もウンザリするほどの夏日に~云々と、スクリーンの中のキャスターが不快指数が跳ね上がりそうな解説を口にしている。
白銀家とその仲間達が生活する都市型航宙船バラディースは、どれだけ強い陽光が降り注ごうとも、開閉式のドームを閉じてしまえば常に快適な環境を維持できる様に設計されていた。
しかしながら、必要以上に快適な環境は却って害悪になると主張する御領主様の意見が罷り通り、昼間はドームを開放して外界と同じ環境にしている。
尤も、夜間は熱帯夜を避ける為に適度に空調を働かせるのだが、それをダブルスタンダードだと非難する住民はいない。
寝苦しい夜など御免被るというのは、今も昔も人類の共通した本音なのだから。
早朝から忙しそうにキッチンを動き廻っているクレアだったが、その表情は極めて明るくハミングのオマケ付きだった。
勿論、朝食の準備をしているのだが、彼女が鼻歌交じりで料理をするのは気分が高揚している時の癖だ。
懸案だったサクヤとの顔合わせも無事に終え、今日の午後には北海道を出発した佐久間由紀恵一行が到着する手筈になっている。
何もかもが喜ばしい事ばかりなのだが、それ以上に彼女の気分を華やいだものにしているのは、最愛の夫である達也から連絡があったからに他ならない。
『三日後の昼前には君の所に帰るから……』
昨夜遅くに専用回線を通じて届いた音声メッセージを聞いた彼女は、子供たちが夢の世界へと旅立っているのを幸いとばかりに喜びを独占し、幸せな夢を見るという役得を満喫したのだ。
新婚ほやほやの新妻としては、その程度の役得はあって然るべきだと自分自身に言い聞かせるクレア。
尤も、胸を張ってその自説を主張する勇気はない為、目を覚ました子供達には、朝の挨拶を交わした際に何食わぬ顔で《お父さんの帰宅》を伝えていた。
そんな幸せな朝の一幕……。
「昨夜の料理も堪能させてもらいましたが、朝食も美味しいわ。これほどの料理であれば、意地汚い殿下がコロリと転ぶのも納得できるというものね」
「むむぅっ! シア! 君ねぇぇ……ボクの事を何だと思っているんだいっ!? 失礼しちゃうよ! 朝っぱらからハートブレイクだよッ!」
焼きたてのフレンチトーストをメインに、ふわふわのスクランブルエッグとカリカリベーコンの豪華共演。
そして新鮮なサラダという朝食の定番メニューに舌鼓を打ちながら、息の合った掛け合いを見せるアナスタシアとヒルデガルドのやり取りに、クレアは思わず相好を崩して忍び笑いを漏らしてしまう。
因みにさくらとティグルは朝食を済ませ、先ほど学校に出掛けたばかりだ。
達也がもうすぐ帰って来ると知った二人は、満面に笑みを浮かべて飛び跳ねる様にして通学路を駆けて行く。
その後ろ姿を優しい視線で見送るクレアは幸せを噛み締めるのだった。
そんな事を思い出していた時だ。
「お、おはようございます……皆様」
何処かおずおずとした声が耳に飛び込んで来て、現実に引き戻されたクレアは、振り向いた視線先にサクヤの姿を見つけて微笑んだのだが……。
「おはよう……ございます……サクヤ様?」
姫君の様子の不自然さに気付いた彼女は、挨拶の途中で小首を傾げてしまう。
両手をお腹の前で組み合わせ俯き加減のその顔は朱に染まっており、地球の環境が合わずに体調を崩したのではと思い至ったクレアは、心配のあまり血相を変えてサクヤに詰め寄った。
「どうかなさいましたか? 何処か御身体の調子が悪いのならば、医療センターに参りましょうか!?」
「えっ!? いっ、いえ……そ、そうでは……」
クレアの剣幕に困惑する姫君は、モジモジしながら曖昧な返事に終始するのみ。
益々変だと思い救急車を呼ぼうかと迷っていると、愉快そうな笑い声がキッチンに響いた。
驚いて振り返った先ではアナスタシアが呵々大笑しており、サクヤの不審な様子の原因を懇切丁寧に説明してくれたのだ。
「心配する必要はありませんよ。昨夜あなたが振る舞ってくれた料理に感激して、ついつい食べ過ぎてしまったらしくてねぇ……普段は食の細いこの娘がお腹がパンパンになるまで食べた挙句、部屋のベッドの上で『苦しい~苦しい~』と身悶えているんですもの! 私は見ていて可笑しくて可笑しくて」
だが、秘密を暴露して揶揄う気満々なのはその表情からも明らかであり、サクヤにとっては災難以外の何ものでもない。
「お、大伯母さまッ! 意地悪な事を仰らないで下さい。本当に恥ずかしいのですから! だ、だって仕方がないではありませんか、あんなに美味なものがこの世に存在するなんて……だ、だから、つい……」
顔を真っ赤にしてアナスタシアを詰ったサクヤは、戸惑うクレアに詰め寄るや、その手を取って深々と頭を下げた。
「浅ましい真似をして申し訳ありませんでした。はしたないと思いながらも魅惑的な料理には勝てず……うっ、うぅぅ……穴があったら入りたいですぅ」
(あ、あれ? 昨夜は殿下御要望の中華料理だったわよね? 取り立てて御馳走という訳でもなかったし。こんな在り来たりなものを御出しして良いのか迷った位だったのに)
切羽詰まったサクヤの勢いに圧倒されたクレアは面食らうしかない。
満漢全席の様な豪華フルコースならいざ知らず、庶民が口にする普通の中華料理に大袈裟に感激されたのでは、どうにも居心地が悪くて仕方がなかった。
だから、クレア自身も何と声を掛ければ良いのか迷ってしまったのだが、幸いにも、もうひとりの殿下からの助け船に救われたのである。
「クレア君。この程度は驚くには値しないよん! 皇族だ貴族だと踏ん反り返っていても、実際は陸なモノを口にしていないのさぁ」
ヒルデガルドが意地の悪い笑みを浮かべて解説するが、それを聞いたクレアは益々困惑の色を深くしたのだが……。
「高級食材に珍しい調味料……それらを貴族文化に精通した気位だけは高いコックが調理するんだからねぇ。総じて腕自慢のゴテゴテした料理が毎日、朝、昼、晩と並ぶんだ。一日や二日は我慢できても三日目はもう駄目さ。五日目には誰もが涎を垂らす美味が、家畜の餌だとしか思えなくなるのだから不思議なものだよねぇ」
ヒルデガルドの軽妙な説明のお蔭で、漸くクレアの疑問も氷解した。
偶にする贅沢ならばいざ知らず、日々の食事で美味を追及すれば陸な事にならないのは当然の話だ。
しかし、だからといって確認もせずに何でも供して良いという訳ではないのだから、クレアは素直に謝罪したのである。
「そうでしたか……確かに昨夜のメニューは庶民の家庭料理でしたものね……よく考えずにメニューを決めた私が迂闊でした。今後は姫様の御好みも考慮いたしますので、今回だけは御許しくださいね」
「いいえっ! クレア様は悪くありませんっ! 寧ろ、私は心から感謝しているのですっ!」
謝罪を遮ったサクヤは、呆気にとられるクレアの手を両手で包み込んで顔を寄せるや、感極まった表情で捲し立てた。
「食事など唯の栄養補給に過ぎない……等と軽く考えていた自分が愚かでございました。どの料理も魅惑的で美味。確かに殿下の仰る通り、貴女様の御料理に比べれば皇宮で食べていたものは……」
昨夜の料理を思い出しているのか陶然とした表情でトリップする姫君。
対してクレアは『なぜ? そこまで』と困惑する他はなく、救けを求めて視線を巡らせるのだが、二人の傍観者は朝食を満喫中で完全無視の態度を貫いている為、全く役にはたたない。
その後三十分ほど姫様の独白に付き合わされたクレアは、先程までの幸せな気分が少しだけ目減りした気分だった。
しかし、庶民の朝食をホクホクした顔で嬉しそうに食べるサクヤを見ていると、その不足分も直ぐに補完されるのだろうと考え直し、じわりと込み上げて来る喜びに顔を綻ばせたのである。
◇◆◇◆◇
海上を疾走中の高速ランチの船上から、初めて間近で見るバラディースの威容を目にした蓮と詩織は、唯々感嘆して深い溜息を漏らすしかなかった。
実家から戻ったその足で、退校手続きをする為に伏龍に登校した二人だったが、既に信一郎が手続き申請をしてくれており、本来免除されている授業料の返納手続きのみを自分達で行い、自らの責任に於いて完済する旨を記した誓約書にサインするだけで済んだ。
それは、我儘を押し通す以上、両親には甘えられないという二人の決意と矜持の表れだった。
最後の挨拶のため学校長に面会すると、林原学校長は温厚な人柄その儘の温かい激励の言葉を掛けてくれた。
そして、級友であるヨハンと神鷹との別れの瞬間が訪れる……。
余りにも唐突な決断に激昂した二人から怒鳴られるのも覚悟していた蓮と詩織だったが、意に反して笑顔で送り出してくれた。
『お前たちの事だから、こうなるんじゃないかと思っていたが……やっぱり寂しいもんだな……だが、俺達も負けないぜ! この星の軍人として恥ずかしくない人間になって、統合軍を銀河系最高の軍隊に変えて見せるからな! だから、お前達も頑張れよ!』
『おめでとう蓮。詩織さん……進む道は分かれてしまうけれど、僕らは仲間だよ。いつか胸を張って笑顔で再会できる様に、お互いに全力で精進しよう。君達に負けない様に僕らも精一杯頑張るよ!』
親友達の言葉と居残っていた在校生達の歓声に背中を押され、蓮と詩織は感激を胸に秘めて、自らが望んだ居場所を得る為に一歩を踏み出す。
士官学校を退校した以上今夜の宿泊先すら決まっていない二人は、当たって砕ける覚悟で白銀伯爵家への就職活動に挑むべく行動を開始したのである。
青龍アイランド南東部にある桟橋から沖合二㎞の海上に停泊しているバラディースには、専用のランチしか接舷を許されていない。
それは、この艦が白銀辺境伯爵個人が所有する宇宙船であり、銀河連邦条約によって、自治権と治外法権が認められた国家同然の存在に他ならないからだ。
少し前まで、不埒なマスコミ関係者が違法な潜入を試みて騒動に発展した経緯を踏まえ、簡易的とはいえ入国審査を兼ねたチェックが行われている。
「い、いよいよだな……何か緊張するよな」
「少しは落ち着きなさいよ。今更ジタバタしても始まらないでしょう? 男らしく胸を張りなさい! 胸をっ!」
海面から五十mほど上にある検問所まで続く自動移動式のタラップ上で、情けない声を漏らす幼馴染兼義兄に発破を掛ける詩織。
軽く蓮の背中を叩くと、漸く覚悟を決めたのか顔つきが引き締まった。
その横顔に頼もしさを感じた詩織が口元を綻ばせたのと同時にタラップの終点に到達したふたりは、バラディースにその第一歩を記す。
しかし、てっきり来訪者は自分達だけだと思っていた彼らは、奇妙な先客の存在を目にして思わず足を止めてしまう。
その女性は入り口のゲート前で、係官の衛士と険悪な雰囲気で口論をしているのだが、激昂しているのは女性だけであり、高圧的な物言いを繰り返す彼女に対して衛士は困惑しきりといった様子だった。
取り敢えず順番待ちをするべく問答中の彼らの後方に並べば、必然的にそのやり取りが耳に入って来てしまう。
「無礼でありましょうっ! 何度も申しているではありませんかっ! 私はランズベルグ皇国に御仕えする名門バーグマン伯爵家の者ですよ! 早急に白銀達也殿に取り次ぎなさいっ!」
「何度も申し上げておりますが、御来訪の目的を御申告戴いた上で、御身分を証明する物か、どなたかの紹介状がなければ乗船を認める訳にはいかないのですよ……そういう規則になっておりますので」
「それが無礼だと言っているのです! そもそも……」
茶褐色の髪の毛を上品に纏め、薄い藍色のブラウスに濃紺のロングスカート。
同じく濃紺の単衣ジャケットは一目見ただけで高級品であるのが窺え、控えめな装飾品が貴婦人を名乗る彼女の気品を一層引き立てている。
貴族というのも強ち嘘ではないだろうとふたりが考えていると、別の女性衛士が笑顔を浮かべて足早に歩み寄って来た。
「お待たせてごめんなさい。本日は如何なる御用でしょうか?」
蓮と詩織は姿勢を正すや、揃って一礼してから申告する。
「自分は真宮寺蓮といいます。白銀達也閣下に士官学校で直接御教授戴いた者であります。伯爵家で雇って貰いたく。お願いに上がった次第です」
「同じく如月詩織であります。士官学校を退校してまいりました。紹介状等は持ち合わせていませんが、どうか白銀閣下か奥様のローズ、いえ、クレア様に御取次ぎ願えませんでしょうか?」
目の前の貴婦人同様に紹介状など所持していないふたりは、どうやって女性衛士を説得しようかと考えていたのだが、彼女は破顔一笑して歓迎してくれた。
「まあ! 貴方達がそうなのねっ! グラディス中佐から優秀な候補生達だと聞いているわ。実は貴方達が訪ねて来たら連絡する様にと中佐から言付かっているの。直ぐに呼ぶから事務所で待っていてくれるかしら?」
思っていたよりも簡単に乗艦出来てふたりは顔を見合わせて喜んだ。
本番はこれからだが取り敢えずは幸先の良いスタートをきれたと安堵し、案内に従ってゲートを潜ろうと、問答を続ける貴婦人と衛士の隣を通り過ぎようとしたのだが……。
「御待ちなさいっ! 貴方たちっ!」
話し合いでは埒が明かないと思ったのか、横を通り過ぎようとした蓮の腕を掴んだ貴婦人が厳しい声音を発した。
「私が駄目で、この子達が簡単に許されるというのは納得いきませんっ! 大体、グラディスといえば、あの品性の欠片もない女艦長ではありませんか? あの女の知り合いというだけで乗船ができるのでしたら、私とて立派な知り合いですわよ。さあっ! あの女を呼んでいらっしゃいッ!」
衛士はゲンナリした顔で完全に匙を投げてしまい、エレオノーラの到着を待って判断を仰ぐという妥協案を提案せざるを得なかった。
その結果『逃がしてなるものか』と言わんばかりの執念を見せる貴婦人の捕虜になってしまった蓮は、唯々困惑するしかない有り様だ。
そんな幼馴染を半眼で睨む詩織が頬を膨らませて一言。
「うわっ! 鼻の下伸ばしちゃって……最っ低!」
「馬鹿かっ!? 何処をどう見たら、そんな事が言えるんだよっ!」
「ふんっ! いやらしいっ!」
つい先程まで幸先の良いスタートだと喜んでいた筈なのに……。
早くも暗雲が垂れ込め始めた状況に焦っていると、話題の主であるエレオノーラが声を弾ませて姿を見せる。
「やっぱり来てくれたわね君達っ! 待ち侘びていたのよ。訪ねてくれて嬉し……って、えぇ──ッッ!? バーグマン伯爵夫人じゃないのぉ──っ!?」
だが、嘗ての教え子達を見て相好を崩したのは一瞬でしかなかった。
蓮を捕獲したまま『やっと、見つけたわよ~』と舌舐めずりするマリエッタからロックオンされた美貌の女艦長は、その顔を引き攣らせて仰け反ったのである。




