第六十六話 兄と弟 ⑨
(ちいッ! 厄介なッ!!)
一進一退の攻防を繰り広げているクリストフは、胸の中に零れる悪態とは裏腹に口元には微かな喜色を滲ませている。
幼少の砌から二刀流を修練し、二十歳を超える頃には既にその剣技を完成させていた彼は、御前試合での圧倒的な活躍を認められて近衛騎士団に抜擢されるや、数多の戦場で高名な武人を屠って来た。
然も、それらの達人級の猛者達を相手にしながらも、苦戦らしい苦戦をした事がないのだから、彼の剣技が如何に卓絶しているか分かろうというものだ。
だが、今回ばかりは明らかに勝手が違った。
然して広くもない通路での戦いという悪条件下ではあるが、それは相手も同じなのだから言い訳にはならない。
それにも拘わらず、これまで無敵を誇って来た双剣の波状攻撃は虚しくも往なされ続けており、一向に敵を捉えられずにいるのだから、クリストフが焦慮を覚えるのも無理はないだろう。
上段からの斬り下ろしの後に刃を返して死角から斬り上げ、その最中にもう一方の剣で横薙ぎの一閃や角度をつけた斬撃を見舞う。
しかし、その悉くが、たった一振りの剣で受けきられてしまうのだから、驚きを通り越して呆れる他はなかった。
(これ程とはなッ……あの夜に教団の上級騎士らを手玉に取った時ですら本気ではなかったという事か……まさに神将。恐るべき男だ!)
だが、恐懼感嘆しながらも、同時に腹の底から込み上げて来る歓喜に煽られてしまうクリストフは、今にも零れそうになる哄笑を抑えるのに苦労していた。
研鑽し極めた技を揮い、持てる力の全てを尽くして戦う喜び。
久しく忘れていた感覚が全身に満ちるのを知覚した彼は、至福の愉悦の中で更に剣戟の速度を上げていく。
その一方で達也はといえば、一瞬も途切れない白刃の暴威を躱すのに専心せざるを得ず、最小の動きでクリストフの攻撃を凌ぎながら反撃に移る機を窺っていた。
(全くッ! まるで複数の達人を同時に相手にしているようなものだ。緩急自在で繰り出される双剣が、これほど厄介なものだとはッ!)
上段からの一撃を辛うじて弾いて安堵したのも束の間、間髪入れずに襲い来た、もう一方の斬撃を巧みな足捌きを駆使し体を捻って躱す。
戦いが始まってからというもの、常に懸命の回避を余儀なくされており、互角の情勢を維持するのが精一杯という有り様だった。
傍から見ていれば曲芸じみていて嘸かし楽しいだろうが、やっている本人にしてみれば、まさに紙一重で命を遣り取りするタイトロープのようなものだ。
然も、クリストフの剣技は時間と共にその鋭さを増していて、その切れ目のない攻撃を捌き続けるにも限度がある。
おまけにメインブリッジからは、激しい口論と共に耳障りな剣戟の音が漏れ伝わっており、高笑いする相手の声音から推察するにセリスが劣勢なのは察せられた。
(普段のセリスならば余程の相手でもない限り負けはしないだろうが、因縁含みの兄上が相手では分が悪いか……ならばッ!)
対帝国の旗頭であるセリスの敗北は梁山泊軍の敗北と同義であり、万が一それが現実のものになれば、艦隊戦の勝利を含め全てが水泡に帰してしまう。
そのような事態に陥れば今後の戦略にも悪影響を及ぼすのは避けられず、抜本的な作戦の見直しを余儀なくされるのは確実だ。
そして、想い人を喪ったサクヤは失意のどん底へと突き落とされるだろう……。
そんな事態だけは何としても避けなければならない。
その為には目の前の難敵を下す以外に道はなく、一気に決着をつけるべく達也は危険な賭けに打って出るのだった。
勿論、激しい攻防を繰り広げながらも、リオンの動向を気にしていたのはクリストフも同じだ。
本来ならば、“皇帝の護剣”としての役割を果たすべく、セリスの相手をするべきなのだが、強者と剣を交えたいという欲求には抗えず、気が付けば眼前に立ちはだかった白銀達也との戦いに執心していた。
この好敵手との戦いをもっと楽しみたいと渇望しながらも、一刻も早くリオンの下へと馳せ参じなければならない、という思いが交錯する。
しかし、その相反する思いが強すぎるが故に、己の心の中に芽生えた焦慮に彼は気付けなかったのだ。
主導権を握って攻勢を貫いているのはクリストフの方であり、此処まで良く防戦してはいるものの、剣捌きが徐々に乱れ始めた相手の表情に滲む苦悶を鑑みれば、勝利は九分九厘間違いないと誰もが確信するだろう。
そして、それは“皇帝の護剣”と称された彼も例外ではなかった。
(素晴らしい武人だ……ならばこそ、その技に敬意を表して全力で屠るのみ!)
一瞬の勝負を制すべく神経を研ぎ澄ませるクリストフだったが、その好機は間を置かずに訪れた。
執拗なまでの激しい連撃に耐えかねたのか、横殴りの斬撃を躱そうとした達也が余りにも無造作に後退した刹那、ほんの僅かだがバランスを崩す。
それが、足元に散った汗によるものだと看破したクリストフは、この千載一遇の好機を逃さず全力の斬撃を以て勝負に出た。
(私の勝ちだぁッ!)
横薙ぎに振り払った左の得物でガラ空きの腹部を狙い、僅かに遅れて右の光剣を下段から振り上げ、その熱エネルギーの先端部で胸部を斬り裂かんとする。
過去にその神速と謳われた必殺の双剣を止めた者はおらず、クリストフは自らの勝利を確信して口元を笑み崩れさせた。
最初の斬撃は相手のビームソードによって阻まれたが、それは想定の範囲内。
バランスを崩した態勢では剣戟の圧に耐えられる筈もなく、胸部を狙った必殺の一撃を躱す術はない……そう勝ち誇った瞬間だった。
「なにぃッ!?」
完全に死に体と化していたはずの達也が、まるで何者かに背中を押されたかの様に踏み込んで来たのを知覚したクリストフは、その双眸を驚きに見開いて悲鳴にも似た叫び声を漏らした。
然も、止めの一撃になると信じて疑ってもいなかった斬撃は、その切っ先が届く寸前に空いた手によって持ち手を痛打され、数本の指の骨を粉砕された挙句に剣を取り落とし、攻撃が無効化されてしまう。
(誘われた? 態勢を崩したのは罠かッ!?)
己の失態を瞬時に悟ったが、攻撃に傾注して前のめりになっていたのが仇になり、達也の斬撃を躱す術は残されてはいなかった。
「ぐうぅッ!」
視覚外から駆けあがって来た熱量を伴った刃に左の腹部から右の肩口までを斬り裂かれたクリストフは、短い悲鳴を漏らしながら数歩後退して片膝をつく。
不思議と痛みは感じなかったが、傷口から吹き出した鮮血が騎士服を赤く染めていくのを見れば、命運は尽きたのだと悟らざるを得なかった。
(致命傷……私の負けか……)
己の迂闊さに歯噛みしながらも、妙に心が凪いでいるのが可笑しくてならない。
だが、その心情こそが自分が満足している証だと気付いたクリストフは、運命の皮肉に苦笑いするしかなかった。
(全力を尽くし、持てる技の全てを叩きつける快感……それを思い出させてくれた武人に騎士人生の最期に出逢えた……ならば、それで充分ではないか)
恐らくはそう長くはもたないだろう……。
そう察したクリストフは無様な姿を見せまいとして立ち上がるや、素直な賛辞を口にした。
「お、お見事です……やはり私如きでは神将には及びませんでしたね」
「紙一重だったよ……仕掛けた誘いに貴方が乗らなければ、床に倒れ伏していたのは私だった筈。貴方こそ御見事でした。クリストフ・カイザード近衛騎士団団長」
もはやクリストフに反撃に費やす力が残っていないのは一目瞭然であり、達也は敬意を込めて死出の旅へと出る武人に賞賛の言葉を贈った。
だが、それで幕引きにはならなかったのである。
「ならばッ! 私はッ! 私の大切なものを護る為に戦いますッ!」
激情を迸らせたセリスの叱声と共に、鍔迫り合いを繰り広げる兄弟がメインブリッジから通路へと飛び出して来たのだ。
攻勢なのはセリスの方であり、炎鳳を辛うじて受け止めているリオンは、驚愕と苦悶が入り混じった表情で通路の外壁まで押しやられてしまう。
その瞬間、残された命火の全てを燃やし猛然と床を蹴って疾駆したクリストフは、縺れ合う兄弟目掛けて脇目も振らずに突進したのである。
「セリス──ッ!!」
不意を衝かれた達也に出来たのは、大声で大切な者の名を叫ぶ事だけだった。
◇◆◇◆◇
「み、民主共和制への……移行?」
打ち付けた背中の痛み以上の衝撃に狼狽するセリスは、目の前の危機に対応するべく態勢を整えながらも、兄が発した言葉を口中で呟いてしまう。
その余りにも突飛な内容に混乱は増すばかりだが、あの寡黙だった父皇の胸中にそんな想いがあったのだと知れば、当時の何処か曖昧な政治情勢にも納得がいくと今更ながらに気付いた。
徐々にではあるが穏健路線へと政策を転換しつつあった父の真意が、民主共和制への移行という大事業を見据えてのものだったのならば、変わらぬ拡大政策を主張するシグナス教団との対立を深めたのも自明の理だし、帝国の施政下にある占領地域からの過度な搾取を規制したのも当然だと理解できる。
その上で、あの不可思議なクーデターの底流に潜んでいたものの正体に漸く思い至ったセリスは、当時の未熟な自分への失望と、浅慮にも愚挙に及んだ兄への怒りに身体を震わせるのだった。
そして、ゆっくりと階段を降りて来る兄へ非難を込めた険しい視線を向けたのだが、そんな実弟の怒りを軽く受け流したリオンは、然も楽しげに嘲弄を返す。
「そうだ、セリス……偉大なる先人達が営々と築き上げて来た帝国の繁栄をいとも容易く投げ捨てると決めたあの男は、共存という無知蒙昧な妄執に囚われた憐れな愚皇だったのだ! だからこそ、私は次期後継者として当然の権利を行使したのだッ! 私を責めるのは筋違いであろうよ、セリス! その程度の道理も弁えぬのであれば、キサマも所詮は愚物でしかないッ!」
その物言いが酷く癇に障ったセリスは、思わず奥歯を噛み締めていた。
敬愛する父を“あの男”呼ばわりされるだけでも不愉快なのに、彼自身がセレーネでの生活の中で実感した共生の理念を無知蒙昧な妄執だと貶められたのが、とても腹立たしくて仕方がなかったのだ。
だからこそ、嗜虐に歪んだリオンの顔を睨みつけ、その傲慢極まる物言いを敢然と否定したのである。
「古き因習に固執して暴虐な振る舞いを改めもしないッ……そんな馬鹿げた道理があるものか! 帝政であれ民主共和制であれ、政は民の為にこそあるものではありませんか! 民が幸せになれるのならば政治形態に拘る必要はない。その程度の理屈が分からないのならば、貴方こそが為政者としては失格なのです!」
その苛烈な批判を受けたリオンの表情からは笑みが消え去り、代わりに憎しみと怒りが綯交ぜになったものへと変化する。
「そうか……あの男と同じでキサマも死にたいと言うのだな? ならば、兄としてせめてもの慈悲をくれてやるッ! 心置きなく父の下へ逝くがいいッ!」
憤怒の形相でそう叫ぶや否や、大剣を振り翳したリオンは階段を蹴ってセリスへと斬り掛かった。
長きに亘る憎しみの連鎖がその終焉を迎えようとしている。
その結果の先に何があるのかは、まさに神のみぞ知る事なのかもしれない。




