第六十六話 兄と弟 ⑧
開け放たれた入り口から室内へと足を踏み入れたセリスは、伏兵の襲撃を警戒しながら慎重に歩を進めた。
しかし、クリストフの言葉は嘘ではなかった様で、将兵らは既に退去しており、広々としたフロアーに人影は見られない。
また、主電源が落ちたからか、各々の管制ブースも完全に沈黙していた。
そんな中でセリスが見据えるのは、メインブリッジの奥まった場所にある、僅か十数段ほどしかない階段だ。
目にも鮮やかな真紅のカーペットが敷かれているそれは、凡そ戦闘艦の指令中枢には似つかわしくないものだが、帝国皇帝の御座船ともなれば、最低限度の装飾は必要なのかもしれない。
だが、そんな意味のない虚飾を好きにはなれないセリスは、知らず知らずのうちに下唇を噛み締めてしまう。
(くだらない見栄に拘った挙句、体裁ばかりを取り繕って事の本質を見ようともしない。権力と富を得たからといって、その先に幸せがあるとは限らないのに……)
クーデター以降の帝国では銀河連邦同様に貴族偏重主義が罷り通り、一部貴族の専横は目に余るものがあるとの報告を受けていた。
クラウスら情報部の調査で判明しただけでもその内容は凄惨の一言に尽き、服属を強要された民衆らが受けた苦難は言語に絶すると言っても過言ではないだろう。
然も、それらの悪政を主導したのが皇帝であるリオンだというのだから、セリスが懊悩して悲嘆に暮れるのも無理はなかった。
(なぜ、護るべき存在の民衆を虐げる様な真似ができるのですか? 聡明で慈悲深かった兄上は何処に行ってしまわれたのか?)
リオン・グランローデンは実の兄ではあるが、嘗てのセリスにとっては雲上人に等しい存在だった。
幼い頃から文武共に秀で、然も何事にも努力を惜しまないのだから、その実力は他の弟妹と比しても大きく抜きん出ており、おまけに思慮深く温厚な性格の持ち主だったが故に、貴族筋や家臣らはいうに及ばず、広く民衆からも愛されていた。
(それなのに……なぜクーデターを画策し、父皇ばかりか全ての身内を粛清しなければならなかったのかッ!?)
延々と自問自答を繰り返しながらも終ぞ得られなかった答へ、一歩一歩と階段を上る度に近付いている様な気がする。
そして、最後の一段を上り切ったセリスが見たのは、豪奢な玉座に座して皮肉げな笑みを口元に浮かべたリオンの姿だった。
其処には艦の運行や制御を司る装置は何もなく、ただ階下の艦橋を睥睨しながら督戦に専念する場所であり、まるで大劇場に設えられた貴賓席の如き様相を呈している。
半円のスペースには階段と同じ真紅の絨毯が敷き詰められており、その奥まった場所にある玉座の他には、小さな円卓とその上に置かれたワインとワイングラスがあるのみ。
隆盛を極めた帝室の生き残りである兄と弟が邂逅するには、些か物寂しいと言わざるを得ない場所だった。
「お久しぶりです……兄上」
「その様な不遜な呼び方を許した覚えはないぞ、セリス。臣下ならば陛下と呼ぶのが礼儀であろう?」
僅か数メートル先に座す実兄が、然も面白いと言わんばかりに揶揄して来たが、その物言いを酷く不快に感じたセリスは思わず声を荒げてしまった。
「何故です!? 聡明で皆からの期待を一身に集めていた兄上が、何故クーデター等という愚挙に及んだのですかッ? そんな馬鹿な真似をしなくても、父上の後を継ぐのは貴方以外には有り得なかった筈ですッ!」
ずっと胸の中に蟠っていた疑問が一気に口を衝いて吐き出される。
国を追われたばかりではなく、父皇をはじめ全ての肉親を奪われた挙句、セリス自身も生死の境を彷徨う程の重傷を負わされた。
その事実に対して今更怨み言を言う気はないが、どうしても納得できないのだ。
燦然と輝く栄光に彩られた未来が確定していたにも拘わらず、敢えて大逆を犯してまで玉座を得んとしたリオンの理不尽な行動が理解できず、セリスはずっと苦しんで来た。
それ故の憤りであり、切実な問い掛けだったのだ。
だが、感情を剝き出しにした実弟からの問いにもリオンは表情を変えず、明らかに目の前の人間を見下す笑みを宿した表情の儘で玉座から立ち上がった。
そして、徐に口を開くや、逆に問い掛けたのである。
「未来などに何の意味がある? 確定した未来とは何だ? 抑々がだ……私以上に臣民からの支持や人気も高く、健康にも不安のない父上が居たのでは、私に御鉢が廻ってくるのは何時になるのか……老境になった頃に帝位を譲り受けても面白くはあるまいよ? 違うか、セリス?」
一体全体、兄が何を言っているのかセリスには分からなかった。
「そんな馬鹿な、それでは、早く帝位に就きたいが為に謀反を起こしたとでも?」
「それ以外に何がある? 如何に将来が確約されているとはいえ、皇太子の肩書では何一つ自由にはならん。国も富も享楽も……それが手に入らないのでは猫を被り続けた甲斐があるまい?」
「何を仰っているのですか? 皇帝の責務は帝国を治め、より良い未来へと臣民を導く事でしょうッ!? 決して己の野心を満たす為のものではありませんッ!」
「青臭い戯言を言うな! 己が意の儘に振舞い、欲したものはそれが何であれ必ず手に入れるのが皇帝というものだッ! 臣民というものはな、私に尽くす為だけに生きる道具でしかないのだッ!」
そう言い放つリオンが、然も可笑しいと言わんばかりに哄笑するのだが、まるで人変わりしたかのような実兄の狂態にセリスは愕然とせざるを得ない。
だが、それと同時に心の奥底から沸々と湧き上がって来る怒りを自覚した彼は、高笑いする兄を険しい視線で見据えて吠えていた。
「そんな事の為に父皇陛下を弑したばかりか、全ての肉親を死に追いやったというのですかッ!? まだ、幼かった弟妹達まで皆をッ!?」
決して兄弟姉妹の全てが仲が良かった訳ではない。
寧ろ、長兄のリオンが皇太子位にあるにも拘わらず、我が子を後継者にしようと暗躍する寵姫や、その背後に居る有力貴族らは確かに存在した。
セリスの生母は帝国貴族の主流から外れた子爵家の出であり、彼が幼い砌に早世したが故に帝室での権謀術策には無縁の存在だったが、生きていたならば何かしらの柵に巻き込まれた可能性は否定できないだろう。
だが、幸か不幸かそうはならず、肉親同士の険悪な雰囲気に嫌気がさしたセリスも、早々に軍人を志して自立の道を歩んだという経緯がある。
だから、肉親に対する情がどれほどあったかと問われれば、甚だ心許ないというのが偽らざる本音だった。
だが、それでもだ……。
それでも、己が欲望の為に血を分けた肉親を粛清しても良いという道理はないし、その様な暴挙は断じて許してはならない。
胸の中で渦巻く激しい憤怒に駆られたセリスは、薄ら笑いを浮かべた儘のリオンに罵声を叩きつけたのである。
「リオン兄上ッ! 貴方は狂っている! それが、未来を嘱望された者の為さりようですかッ!? あの優しかった兄上は何処へ行ってしまわれたのですッ!?」
それは血を吐くような想いが滲んだ問いだったが、リオンは鼻先で嗤い飛ばして無慈悲にも言い放った。
「血縁者など邪魔な存在でしかない。有能でも無能でも何かしらの害を我に齎す。おまけに下心丸出しの近親者どもに唆されて皇太子の座を欲するに至ってはな……これはもう、生きている価値すらあるまい? そうではないか、セリス?」
その言葉に絶句する実弟には構わず、リオンは言葉を続ける。
「私が正式に皇太子位を得てからというもの、一体全体何度命を狙われたと思う?暗殺を画策したのは弟妹らの母やその実家の連中ばかりだった。あいつらは暗殺が失敗しても自分達に咎が及ぶ事はないと高を括っていたようだがな、こちらは全てお見通しだったよ……それでも奴らを放置していたのは、纏めて葬った方が効率が良いからでしかない」
そう嘯くリオンの表情には背筋も凍る様な狂気が滲んでおり、仄暗い闇を宿した双眸でセリスを見据え、腰に佩いた宝剣の柄に手を掛けた。
そして、何の躊躇いもなく剣を抜き放つや、室内の照明に煌めく白刃の切っ先をこの世に唯一残った弟へと向けたのである。
「兄上! 思い直しては戴けませんかッ? 今からでも遅くはないはずですッ! 真っ当な道に立ち返って下さいッ! そして、誰よりも兄上に期待していた父上の御遺志を無駄になさらないで下さいッ!」
これが最後の説得になると悟ったセリスは懸命に言い募るが、その想いがリオンに届く事はなかった。
「何も知らぬ餓鬼が賢しらな物言いをするなど百年早いと知れッ! 貴様には最後まで私の為に尽くして貰おうか……なぁに、殺しはせんよ。我らがこの場を脱する為に盾の役目をくれてやろうと言うのだ。手足の一本ぐらいは失くすだろうが問題はない……せいぜい我が道具として役に立つがいいぃ──ッ!」
そう吠えるや否や床を蹴ったリオンが大剣を振り翳して襲い掛かって来た。
「あ、兄上ぇぇ──ッ! くうぅッ!」
その動きは俊敏そのもので昔と比しても些かも衰えてはおらず、セリスも咄嗟に手にした炎鳳でその凶刃を受け止めるのが精一杯という有り様。
そして、剣戟はその一撃に止まらず縦横無尽の軌跡を描いて襲い掛かって来る。
その刃を懸命に捌いて凌ぐセリスだったが、未だに完全には迷いを捨てられずにいる所為か、その剣先には何時ものキレがなかった。
だが、本来ならば聖剣炎鳳を持つセリスの方が優位に戦いを主導できる筈なのにそうならないのは、何も彼の迷いばかりが原因ではなく、リオンの実力が秀でているからでもある。
そして、その攻撃には一切の逡巡もないが故に、戦いは一方的なものにならざるを得ない。
必然的にジリジリと後退を余儀なくされるセリス。
狂気と嗜虐に歪んだ表情で剣を振るうリオンは己の優勢を確信し、その顔を喜悦に染めて吠えた。
「抑々が貴様は間違っているのだぞ、セリスッ! あいつは……ザイツフェルトは私を後継には選ばなかったのだッ! 奴が選んだのは愚昧な民衆ぅッ! あの男は帝政を廃して民主共和制へ移行すると、そうほざきおったのだぁッ!」
その寝耳に水の告白に双眸を見開いたセリスだが、次の瞬間には唐突な浮遊感に襲われて吃驚し、臍を噛む羽目に陥ってしまった。
「うわぁぁぁ──ッ!??」
リオンの猛攻に押されたセリスは思ったよりも後退しているのに気付かず、階段の最上段から足を踏み外してしまったのである。
一転して階段を転げ落ちるセリスの脳裏にリオンの台詞が木霊する。
(民主共和制? 父上がその様な事を?)
俄かには信じられない事実を知った衝撃と転落する痛みが綯交ぜになり、セリスは混乱の中で亡き父皇の姿を幻視するのだった。
◇◆◇◆◇
セリスとリオンが熾烈な相剋を繰り広げているころ、達也とクリストフも互いに一歩も譲らぬ死闘を演じていた。
クリストフの双剣に対して一刀の達也。
ふたりとも優れた武技の持ち主であるが故に攻防は一進一退を繰り返し、容易に決着がつく気配はない。
「本当にお強い……一刀で我が双剣の斬撃を悉く往なすとは……まさに驚嘆に値しますぞ」
「そういう貴方こそ……皇帝の護剣と呼ばれるのも伊達ではない。これが親善目的の仕合ならば、もっと楽しめるのだろうがね……」
「まさに仰る通りかもしれません。ですが、私は貴方に出逢わせてくれた運命に、いや……先帝陛下に感謝しております。己が生涯の全てを費やして磨いて来た武を存分に揮える相手に出逢えた……武人として此れに勝る栄誉はないでしょう」
「そういうのは嫌いじゃない。だが、自己満足と忠節を天秤に懸けるのは間違ってはいないか? 貴方が為すべきは私闘ではなく、道を誤った主君の目を覚まさせてやる事だと思うがね?」
その言葉にクリストフは微かに表情を曇らせたが、小さく左右に頭を振った。
「私だけが正しかった等と愚にもつかない妄言を吐く気はありません。先帝陛下の治世に不満を懐いていたのは事実ですし……帝国に栄光を齎せるのはリオン陛下を於いて他にはない……そう信じていましたからね」
「後悔はないと?」
「ありません。私がそれを口にしたのでは死んだ者達は浮かばれますまい……」
そう言い切ったクリストフの表情は穏やかであり、命のやり取りをしている人間のものだとは到底思えない程に清廉だった。
これ以上の説得は、却ってこの武人の決意を蔑ろにして辱める事になる。
そう理解した達也は、決着をつけるべく覚悟を決めるのだった。
「野暮な詮索も余計な説得も無意味だと分かった。ならば、お互いに信じるものの為にケリをつけようか……黄泉路の片道切符は私が進呈しよう。貴方の全力を以て掛かって来るがいいッ!」
その啖呵を受けたクリストフの口角が微かに上がる。
決着の時は間近に迫っていた。




