第六十六話 兄と弟 ⑤
「陛下ッ! なりませんッ! それだけは、なりませんぞッ!」
リオンが非情な決断を下すや否や猛然と抗議の叱声を上げたのは、皇帝の護剣と名高い近衛騎士団団長クリストフ・カイザード上級大将だった。
“質実剛健を絵に描いたような武人”という評価が示す通り、対人戦闘で彼の右に出る者が存在しないのは広く周知されているが、それは、高性能の銃器で武装した熟練兵が相手でも些かも変わりはしない。
また、数多なる銀河文明史への造詣も深く、文人としての素養も兼ね備えている彼は、その理知的な振る舞いもあって、武官文官を問わず多くの者達からの信望を得ていた。
そして、クリストフを皇帝の護剣たらしめているのは、己を莫逆の友として遇してくれるリオンへの忠誠心に他ならず、だからこそ、彼が勅命に反意を示すなど、これまで一度たりとしてなかったのである。
その忠義一徹の男が日頃の鉄面皮を投げ打って皇帝に自制を促したものだから、その場に居合わせた者達が驚愕したのは無理からぬ事だった。
「この遠征に参加しているのは陛下に忠誠を誓う者ばかり! 貴方様を御守りする為ならば己の命を盾にするのも厭わぬ忠義者なのです! ですが、だからといって陛下御自ら彼らを切り捨てれば、彼らの絶望と落胆は如何ばかりと御思いか!?」
周囲から注がれる視線になど構っている余裕はない。
確かに自軍が置かれている状況は厳しいが、まだ活路はある筈だ。
(梁山泊軍には、いや、あの白銀達也には我が艦隊を皆殺しにする気はない筈だ。その気ならば、我々も銀河連邦軍艦隊と同様に一方的な砲撃に曝され、少なくない損害を出していてもおかしくはないのだから)
クリストフは唯一度だけ白銀達也という男と邂逅した事がある。
死んだと思われていた第十八姫ユリアが思念体として生存しているのが分かり、彼女を邪教の象徴と断じていたシグナス教団が、太陽系第三惑星地球へ複数の刺客を送った時に、その相手をしたのが白銀達也だった。
法具を操る神衛騎士団の上級騎士らを手玉に取って一蹴した武威にも目を瞠らされたが、去り際に見せた強靭な意志は今でも心に焼き付いている。
それは、己が大切に想う者を害する存在は、何人たりとも許さないという傲慢なまでに明確な意志に他ならなかった。
幸か不幸かクリストフ自身は直接顔を合わせはしなかったものの、その短い時間に垣間見た、白銀達也という男の人間性は朧気ながらも理解している。
ならば、この戦場で彼が選択する次の一手は……。
「白銀達也が無益な殺生を望んでいないのは、銀河連邦軍艦隊への緩慢な攻撃からも明白でしょう。彼が目指すのは貴方様の御命のみ! 陛下を廃してセリス殿下を後継に据えるのが目的なのですッ! それを成す為に奴は必ずこの艦へ乗り込んで来る筈。その時に臣下の忠節と戦意を維持するには、此処で味方殺しの愚行を陛下御自ら犯してはなりませぬッ!」
クリストフは懸命に訴えるが、その至誠は主には届かず、リオンは眉根を寄せて双眸を眇めるや語気を荒げた。
「だから何だというのだ! もはや小賢しい奇策を弄するしか能がない男に構っている状況ではないのだぞッ。私が為すべきは一刻も早く帝国へと立ち戻り、身の程知らずの反逆者共を駆逐する以外にはないのだッ! 皇帝たる私が戻りさえすれば反乱を鎮める等は容易いッ! その後に再度遠征して今日の屈辱を晴らせば良いであろうッ!」
「その様な事を申しているのではありませぬッ! この窮状を脱する為とはいえ、忠節を尽くしている臣下達の命を蔑ろにすれば、将兵らの間に怨嗟の声が渦巻くのは必定ッ! 延いては、それが陛下の治政に致命的な傷を齎す結果になるかもしれぬのですぞッ!」
クリストフの忠言は間違ってはいない。
だが、死という名の恐怖に直面したリオンは、精一杯の虚勢を張ったその仮面の下では完全に怖じ気付いており、忠臣の言葉にさえ耳を傾ける余裕を失っていた。
それ故に剥き出しの本音が口を衝いて零れ落ちたのかもしれない。
「その様な些末な不満などに皇帝たる私が配慮する必要はないではないかぁッ! いいか、クリストフ! 生きてアヴァロンへ帰還せねばならないのは私なのだ! 私さえ生還すれば愚民の反乱など一蹴できるッ! その為ならば、寧ろ自ら進んで命を投げ出し、忠節を尽くすのが臣下というものであろうッ!」
その言葉は聡明なリオンの本質を知るクリストフには到底信じられるものではなかったが、だからといって看過もできず、更なる説得を試みようとした。
だが、それは、もう一人の権力者によって阻まれてしまう。
「御控えなされよカイザード団長! 陛下の決定に嘴を差し挿むなど不遜の極みでありましょうぞッ!」
横合いから投げつけられた叱声に思わず表情を険しくしたクリストフは、その声の主を瞋恚に満ちた双眸で睨みつけた。
そこに居たのは、隠そうにも隠せない恐怖にその顔を歪ませたニコライ・ハインリヒ三世その人であり、言わずと知れたシグナス教団の教皇だ。
背後に控えている二十名の神衛騎士団上級騎士らは、教団に於ける位階では上位二十席を占める最強戦力ではあるが、この様な宇宙空間での戦闘に寄与できる能力はなく、盟主である教皇同様にその表情には焦慮が色濃く滲んでいる。
しかし、そんな彼らでも精神的な支えにはなるらしく、ハインリヒ教皇は殊更に居丈高な物言いでクリストフを面罵した。
「陛下の仰る通りですぞ! 今はリオン陛下と占領地の信徒らを束ねる私の命こそが最優先ッ! 私が帝星に立ち戻った暁には、敬虔な信徒に命じて速やかに不遜な簒奪者共に鉄槌を下してくれましょうぞ! その為にも、今は我らが生き延びる事こそが肝要ッ!」
その恥知らずな物言いに憤慨し、全身を怒りに震わせるクリストフ。
(おのれッ! 仮にも宗教家を名乗る輩がぬけぬけと! 抑々が、この男が近づいてからリオン様の態度が変わっていったのだ! 嘗ては帝国の繁栄を願って政務に打ち込んでおられたというのに……この奸賊めがぁッ!)
激昂する余り思わず腰の愛剣の柄に手を掛けたクリストフだったが、続けざまに発せられた教皇の言葉に打たれ、愕然として抜刀を思い留まざるを得なかった。
「それに、先帝ザイツフェルトを弑して新たな帝国を作るとカイザード団長も同意なされた筈! 今更綺麗事を並べて大義を蔑ろにしたのでは、御身の忠節を疑われましょうぞッ!」
シミの様に胸にこびり付いた傷にその言葉が突き刺さったクリストフは、思わず臍を噛んで立ち尽くしてしまう。
先帝であるザイツフェルトの穏健政策を手緩いと思っていたのは確かだったし、聡明なるリオンを帝国の頂点に迎えた方が遥かに良いと考えたのも事実だ。
そして、教皇の言う通り、忠節を尽くすべき主を誅殺して大逆の罪を犯したのは、間違いなく彼自身の意志だった。
そこに正義はなく、それは反乱の後にリオンが強いた過酷な身内への仕打ちからも明らかだと自覚せざるを得ない。
(確かに今更かも知れぬ……私とて、この教皇と同じ穴の狢に過ぎぬ……)
脱力した騎士団長が剣の柄から手を放したのを見て分かり易い程に安堵の表情を浮かべる教皇。
そして悶着の結末を鼻で嗤ったリオンは苛立たしげに叫んだ。
「さっさと命令を遂行せよ! ケーニヒ級は直ちに陽電子破砕砲で進路を確保し、この宙域から転進ッ! アヴァロンへの転移を強行するッ!」
途端に喧騒を増すブリッジにあって、その愚かな決断を諫める気力はクリストフには残されていなかった。
自らの罪業を突き付けられ、その重さを今更ながらに知った己の浅はかさが怨めしくてならない。
(これが、身の丈に合わぬ大望を懐いた者の成れの果てなのか……)
そんな諦念に身を焦がすクリストフの脳裏には、反旗を翻した我が子へ今は亡き先帝が放った皮肉めいた言葉が蘇っていた。
『所詮きさまでは、あの男には逆立ちしても勝てぬだろうがな』
その嘲弄に含まれていた『あの男』という言葉が誰を指すのかは明白だ。
少なくともクリストフだけは、過たずにザイツフェルトの真意を看破していた。
それは、今こうして自分達を追い詰めている白銀達也に他ならず、奇しくも先帝の予言は正鵠を射ていたと言わざるを得ないだろう。
(なるほど、これはあの日に定められた運命なのかもしれぬな……ならば、運命の命じる儘に己が選んだ道の結末を見届けるしかあるまい……)
そう慨嘆した近衛騎士団長が皮肉げに口元を歪めたのと同時に、旗艦の艦首から眩いばかりの光芒が放たれたのである。
◇◆◇◆◇
【セレーネ星衛星軌道上の梁山泊軍本部要塞】
「な、なんて恐ろしい事を……」
スクリーンの中を走った数条の閃光に戦慄いたサクヤは、その美しい顔を痛苦に歪めて呆然と呟くしかなかった。
戦場に赴いたセリスの身を案じて居ても立っても居られなかった彼女は、戦況を見守るべく要塞司令部に詰めていたのだが、自軍の犠牲も厭わない帝国皇帝の蛮行には恐怖を懐く他はなく、同時に激しい憤りを覚えて身体を震わせてしまう。
「窮状を脱する為ならば臣下を犠牲にするのも躊躇わないなど……とても為政者を名乗る者の行いではありません……そんな愚者がセリスの実の兄君だとは……」
到底信じられない……という言葉は口に出来なかったが、それは、想い人の心中を思いやったからに他ならない。
(きっと辛いでしょう。でも、負けないで……あなた自身の願いの為にも)
同じ戦場に身を置く恋人の痛嘆が分かるからこそ、サクヤは想いの全てを懸けてそう願わずにはいられなかったのだ。
すると、隣で同じ映像を見ていたクレアに優しく肩を抱かれ、何事かと顔を上げた彼女は敬愛する女性へと視線を向けた。
「人間は弱くて小賢しい存在ですもの……我欲に溺れたリオン皇帝と、その性根に付け込んで非道な真似を誘引した達也さん……あなたが忌避する気持ちは分かるけれど許してあげてね」
そう慰めてくれたクレアの顔にも無慈悲な現実に対する苦衷が滲んでいる。
それを察したサクヤは動揺する心を鎮めて小さく左右に頭を振った。
「お気遣いありがとうございます。ですが御心配には及びませんわ。軍の司令官である達也様が非情の策を講じるのは御味方の為……そして、今回はセリスへの助力に他なりません。それは、私の望みでもあるのですから……」
そう言い切ったサクヤの双眸に強い決意が宿っているのを察したクレアは、嫋やかな微笑みと共に頷く。
そして……。
「それじゃあ私達も行きましょうか……間もなく戦闘も終局を迎えるでしょうから、愚図愚図していると置いてきぼりにされてしまうわよ」
「はっ? いっ、いったい何を仰って、きゃあ! ク、クレア姉様ぁ──ッ!?」
悲鳴を上げるサクヤには構わず強引に彼女の手を引いたクレアは、意味深な台詞と共に司令部を後にするのだった。
◇◆◇◆◇
【梁山泊軍旗艦 大和艦橋】
「分かってはいたけれど、こうもあからさまに馬鹿な真似を見せ付けられると、流石に嫌になるわね」
想定されていた事とはいえ、唾棄すべき行為を目の当たりにした詩織は、嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てた。
追い詰められた相手の立場を慮れば、已むを得ないのかもしれない。
だが、指揮官ならば引き際を心得、無用な損害を避けるべきではないのか?
それが、為政者ならば尚更ではないのか?
そんな憤懣やる方ない思いに心は千々に乱れてしまう。
しかし、事態が動きを見せた以上、目の前の現実に対処せねばならないのは明白であり、それが艦長である自分の責任だと詩織は決断した。
「神鷹、取り舵二十微速前進! 全主砲は右舷砲撃戦用意ッ! ヨハン、敵旗艦の前部にある陽電子砲と主砲群を潰すわ! それだけでも航行不能には追い込める筈よ。爆沈を避ける為にも機関部への攻撃は避けて頂戴ッ!」
「「了解! 艦長ッ!」」
「第二艦隊旗艦 武蔵へ要請ッ! “敵ケーニヒ級三十隻のうち陽電子砲を発射したのは六隻のみ。敵旗艦を除く五隻の処分を乞う”、以上よッ! さあッ! さっさと命令を片付けて、この辛気臭い戦いに終止符を打つわよッ!」
同時刻・大和格納区画
「兄上……」
漆黒の宙空へ消えゆく閃光を見つめるセリスは、呆然と呟くしかなかった。
譬え、巧妙な罠に嵌って追い詰められた挙句の已むに已まれぬ選択だったのだとしても、リオンが犯した愚行は到底許されるべき事ではない。
(兄上……これで、もう和解の余地はなくなったのでしょうか?)
未だに引き摺っている未練に苛まれるセリスだったが、不意に肩に手を置かれて我に返る。
そして、その手の主が真摯な視線で自分を見ているのを知れば、何時までも愚図愚図と悩んでいる訳にはいかないと、覚悟を決めるしかなかった。
「済みません。大丈夫です……兄は越えてはならない一線を越えてしまいました。もはや迷っている場合ではない……一刻も早く、このような虚しい戦いを終わらせなければなりません」
その言葉と共にセリスの双眸から迷いが消えたのを見て取った達也は、彼にだけ聞こえる様に囁いたのである。
「最後まで貴方自身の想いを貫かれればいい。そうでないと、きっと後悔するよ。バックアップは私に任せておけばいいさ」
セリスは一瞬惚けた顔をしたが、達也の思い遣りを察して破顔するのだった。




