第六十六話 兄と弟 ①
「どうやら、銀河連邦軍艦隊とは決着が着きそうですねぇ」
すぐ隣でスクリーンに見入っているクラウスの言葉に耳朶を叩かれたセリスは、ほんの少しだけ視線を上げ、戦場の趨勢を見極めんと目を凝らす。
あれほど激しい火箭を撒き散らしていたにも拘わらず、今や敵艦隊からの反撃は散発的なものになっており、降伏の意志を告げる発光信号のシグナルが、目に見えて数を増しているのが確認できた。
そんな友軍有利の戦況に安堵した所為か、普段ならば胸の中に飲み込むであろう軽口が零れ落ちてしまう。
「思っていたよりも呆気なかったですね。彼我の戦力差を鑑みれば、もっと苦戦を余儀なくされると覚悟していたのですが……」
開戦前、楽観的な戦局予想をしていた達也の言に一抹の不安を感じてもいたが、それが杞憂だったと知ったセリスは、その戦略眼に改めて畏敬の念を懐かずにはいられなかった。
「エサに釣られてノコノコと敵の庭先に飛び込んで来た時点で、こうなる事は確定していたも同然ですからねぇ……ですが、敵を嘲る以上に称賛されるべきは、策を巡らせて見事に敵を誘引せしめた白銀提督でしょう」
クラウスが漏らしたその言葉には、セリスも異論はない。
先史文明が遺したオーバーテクノロジーとヒルデガルドが齎した超技術の数々があるとはいえ、優に四十倍にも上る圧倒的な戦力を有する敵艦隊を無力化したのは、間違いなく達也の策略に因るものだ。
だが、安易に友軍の優勢を喜べるほど、セリスの胸中は穏やかではなかった。
劣勢に立たされている敵の中には自らの故国に属している帝国軍艦隊も含まれており、今も身動きが取れない状況の中で混乱を極めているであろう事は容易に想像できる。
高出力の軍用航宙艦ですら航行不能に陥らせる激しい乱流帯に捕らわれた彼らは、蟻地獄に嵌った憐れな獲物同然であり、脱出する術もなく、撃破されるか虜囚になるかの選択を突き付けられたも同然だった。
しかし、それでも……と、嘗て敬愛の情を捧げていた近親者の顔を思い浮かべたセリスは、この先に訪れる兄との邂逅を思って唇を噛んだ。
(リオン兄さん……なぜ、父上を弑逆し、クーデターを起こす様な暴挙に及んだのですか? 貴方は誰もが認める帝国の後継者だった筈なのに……)
あの惨劇の日以降に何度も反芻したこの疑問は、今日に至るまで何の解答も得られてはおらず、仄暗く澱む葛藤に苛まれ続けている。
(その能力は宰相として成した数々の実績で証明済だったし、文武両官からの信望も厚かったではありませんか……それは、父上とて認めておられたのに……)
幾ら考えても納得できる理由には思い至れず、堂々巡りの自問自答が脳内で繰り返されるばかり。
そんな懊悩を見透かされたのか、クラウスから核心を衝いた言葉を投げ掛けられたセリスは、思わず表情を固くして厳しい視線を彼に向けていた。
「やはり、実の兄君をその手で討つのは躊躇われますか? まぁ、嬉々として肉親を殺したのでは、兄君と同類だとの誹りは免れないでしょうがねぇ……」
何処か皮肉げに感じられるその言葉に不快感は覚えるものの、それがクラウスなりの気遣いだと分からない程にセリスは子供ではない。
もはや事ここに至っては迷っている場合でないのは確かだし、いざという時に、その逡巡が命を危うくする……。
そう心配した彼なりの忠告だというのは充分理解できた。
然も、長命種であるファーレン人のクラウスが示唆する内容には、傾聴に値する話が多いのも事実だ。
それ故に、未熟な自分の心情など見透かされて当然だと察したセリスは、虚勢を張らずに本音を吐露したのである。
「躊躇うというよりも、恐ろしいというのが正直な思いです。兄の行為が許されないものだと分かってはいても、何かの間違いではないのか……兄には兄の譲れない正義があったのではないか……そう思いたい別の自分が確かに存在しています」
それは自嘲の念を色濃く含んでおり、セリスの深い懊悩が滲んでいた。
「でも……だからといって、多くの人々を虐げた兄を放置する訳にもいきません。ならば、その罪を償わせるのは皇族である私の責務ですッ。譬え、兄殺しの汚名を被ったとしても、他人には委ねられない……そうではありませんか?」
自分で口にした台詞がひどく重く、心に圧し掛かってくる。
その仄暗い重責から逃げ出したいと思う感情を持て余すセリスだったが……。
「何が正しくて、何が間違っているのか? そんな問答は後世の歴史家にでも任せておけば良いのではありませんか? 我々の如き矮小な人間は今を精一杯生きるしかないのです。その見本の最たる例が白銀達也なのですよ」
何時もの飄々とした態度で教条的な物言いをするクラウスに面食らうセリスだったが、達也の名前を出されれば話に聞き入るしかない。
「あの御仁は不思議な人でしてねぇ。神将と称えられる様に軍人としては誰よりも優れた資質を持っていながら、その力を彼自身が一番忌み嫌っている。そんな普通の人間なのですよ。本来ならば、とうの昔に精神を病んでもおかしくはないのに、そんな素振りすら見せない……なぜだと思いますか?」
「き、矜持でしょうか? それとも使命感?」
クラウスからの漠然とした問いに曖昧な言葉を返すセリスだったが、返って来た答えは、そのどちらでもなかった。
「人間を愛する事の大切さを知っている……それだけですよ。奥方やお子様たち、そして、苦楽を共にして生きると思い定めたアルカディーナの人々。そんな大切な者達を護る為ならば、相手が神であっても悪魔であろうとも、躊躇いもせずに果敢に戦いを挑むのが白銀達也なのです。セリス殿、貴方にもいらっしゃるのではありませんか? 命に代えても護りたいと思っている女性が」
「護りたい大切な女性……」
その言葉が抵抗なく腑に落ちたセリスは、この世の誰よりも愛して已まない女性の顔を思い浮かべるのだった。
※※※
この日より遡ること七日。
いよいよ銀河連邦軍派遣艦隊がアスピディスケ・ベースを進発したとの報を受けた梁山泊軍は、臨戦態勢に移行すべく、全将兵に明朝七時までに軌道要塞へ参集するよう命じていた。
それはセリスも例外ではなく、早朝五時には達也と邸宅を出て軌道要塞へ向かう手筈になっている。
現在時計の針は丁度日付が変わった辺りを指しているが、妙に眼が冴えて寝付けないセリスは、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
今回の作戦に於ける自分の役割は、暴君と化した兄リオンとの決着をつける以外にはないと分かってはいるのだ。
しかし、一度は対決の覚悟を決めたものの、実際にその時が間近に迫れば、今更ながらに胸の中に生じる躊躇いを抑えられなかった。
(リオン兄さんを討たなければならない……帝国の占領地域で塗炭の苦しみに喘いでいる人々の為にも。そして、アングリッフ元帥の様に心ある忠臣達の為にも……だが……)
情報部の調査で判明した帝国占領地域に於ける酸鼻を極めた迫害の数々を考えれば、話し合いによる解決を図るのは困難だし、何よりも、自らが譲歩する様な弱腰の対応をリオンが選択するとは到底考えられない。
ならば、自分達兄弟の行き着く先は、凄惨な殺し合い以外の道はなく、栄えあるグランローデン帝国の歴史に同族殺しの汚名を刻むのは避けられないだろう。
そんな暗澹たる未来が垣間見えてしまい、慚愧の念に苛まれるセリスは悶々として寝付けないでいるのだった。
彼が逡巡する理由はひとつしかない。
それは、兄弟の中でも抜きん出て優秀だったリオンが、反乱という暴挙に及んだ理由が分からないという事に尽きる。
確かに父皇であるザイツフェルトは、正式に次期後継者を誰にするか明言してはいなかったが、国家運営の重責を担う宰相位に長子を据えた事で、後継者はリオン皇太子で決まりだと誰もが信じて疑ってはいなかった。
まだまだ壮健だった父皇が退位するまでには時間があったにせよ、謀反を起こしてまで帝位の簒奪を謀る理由がリオンには無いのだ。
文武に秀でた彼の才能は全ての貴族や臣下も認めており、黙っていても次期皇帝の座は彼のものになる筈だったのだから、大逆の汚名を被ってまで玉座を望むなど愚の骨頂だと言わざるを得ない。
それにも拘わらず、同族殺しと言う血で血を洗う蛮行を犯してまでリオンは蜂起し、帝国皇帝の地位と実権を手に入れたのである。
そこにどんな事情があったのかが分からないばかりに、セリスは今も懊悩の底で藻掻いているのだった。
(だが、今更悩んだ所でどうにもならない。捻じ曲げられた帝国の道を正すためにも、そして、不甲斐ない私自身の過ちを正すためにも、兄さんの罪を問わなければならないんだ……それが、私に課せられた使命なのだから)
そう自分自身に言い聞かせるセリスの想いは、ある意味では呪いに等しいものなのかも知れない。
だが、そう割り切る以外に葛藤を断ち切る術を彼は持ち得なかったのである。
だから、そんな苦痛から逃れる為に無理やりにでも眠ろうとして両の瞳を閉じたのだが……。
『コン、コン…………コン、コン』
夜の静寂が支配する室内に控え目な連続音が響いて目を開けざるを得なかった。
(こんな遅い時間に一体全体誰が?)
その小さな音が、誰かが扉をノックする音だと察したセリスは、何事かと訝しみながらもベッドから抜け出て部屋の入口へと歩を進めたのである。




