第五十九話 一擲乾坤を賭す ②
「本日は、暇乞いに参りました」
居住いを正してそう告げたジュリアンの表情には一片の翳りもなく、寧ろ、己の責務を果たした満足感からか喜色に彩られている。
(説得するのは無理か……責任感が強いのは美徳だが、こんな時は厄介だな)
泰然と微笑む財閥総帥の性格を良く知る達也は、その決意を尊重せざるを得ず、説得を断念するしかなかった。
それは、達也自身もジュリアンと同じ決意を懐いているからであり、彼の想いが身に染みて理解できるからでもある。
だが、事前に相談されていたとはいえ、安易に了承すれば後々面倒な事態に発展するのは確実だ。
ジュリアンの決意を知ったユリアが憤慨するのは確実だし、怒れる愛娘を宥める為にも、彼の真意を確認するべきと思ったのだが、それは、唐突に部屋に乱入して来た者によって阻まれてしまう。
その乱入者とは、クレアに頼まれて給仕に来たユリアであり、キャスター付きのワゴンを廊下に置き去りにした彼女は、唖然としているジュリアンに詰め寄るや、達也が危惧した通り怒りを露にして声を荒げたのである。
「暇乞いとは、一体全体どういうつもりなのッ!?」
「ちょ、ちょっと……ユリア?」
その剣幕に困惑しながらも、興奮している彼女を宥めようとするジュリアンだったが、まるで機関砲の如き追及に言葉を差し挿む暇もなかった。
「これからが正念場だというのは貴方も分かっているのでしょう!? なのにっ、お父さんや志を共にする仲間を裏切って自分だけ逃げ出すつもりなの!?」
これほど激昂した愛娘の姿は御目に掛かった事はなく、正直なところ達也も大いに驚かされていた。
しかし、日頃から気のない素振りで接してはいても、いざ別れるとなればこんなにも取り乱してしまうのだから、ユリアにとってジュリアンが如何に大きな存在であるのか、窺い知るには充分だった。
そんな素直ではない愛娘の様子に、達也は思わず忍び笑いを洩らしてしまう。
(やはりクレアの見立ては正解だったか。だが、この意地っ張りな性格はいったい誰に似たのやら……)
そんな呑気な事を考える達也だったが、今にもジュリアンに掴み掛からんばかりの勢いで詰問する愛娘を放ってもおけず、少々声を強めて窘めた。
「ユリア。そう一方的に捲し立てたのでは、彼も答えられないのではないかな? それとも、憎からず想っているジュリアン君を引き留めたいから、ふたりっきりで話がしたいと言うのならば、僕は喜んで席を外すよ?」
選りにも選って、敬愛する父親から冷やかされるとは思ってもみなかったユリアは、驚きのあまり一瞬で正気を取り戻したが、今度はその言葉に羞恥心を煽られて完全に取り乱してしまう。
その結果……。
ジュリアンの顔が至近距離にあるのに驚いた少女は、更に顔を朱に染め、混乱の極みの中で彼の頬を引っ叩いてしまったのだ。
その光景を見て何とも言えないデジャヴに襲われた達也は、自分の非は棚上げしてしみじみと呟くのだった。
『懐かしいなぁ……俺も、同じ様にクレアから引っ叩かれたっけ……』
勿論、目の前のふたりには悟られない様に心の中でそっとだったが……。
◇◆◇◆◇
「『お父さんは意地悪だ』と言うさくらの気持ちが良く分かりました」
隣に座るユリアから恨みがましい言葉で詰られる達也は、突き刺さる剣呑な視線攻撃に耐えるしかなかった。
勿論それは、達也にとっては自業自得に他ならないのだが、トバッチリを受けたジュリアンにしてみれば、災難以外の何ものでもないだろう。
「あ~~痛かった……これで二度目だよ、ユリア? 今回は僕に非はないよね?」
だから、つい愚痴を零してしまったのだが、柳眉を逆立てるユリアから間髪容れずに睨みつけられてしまい、慌てて目を逸らしてしまう己の意気地のなさに涙するジュリアンだった。
だが、そんな彼に容赦ない追撃が加えられる。
「『暇乞い』とか巫山戯た口を利いておいて、非がない!? 図々しいにも程があるでしょうッ!?」
そう語気を荒げて非難するユリアだったが、その声は微かに震えており、おまけに両の瞳には薄く涙が滲んでいる。
さすがに軽口を叩いている場合ではないと悟ったジュリアンは、愛おしいと思う少女を真っ直ぐに見つめ返し、誤解を解くべく懸命に言葉を尽くした。
「勘違いしないで欲しい。提督や共に頑張って来た仲間達、そしてこの星に生きる人々を裏切るつもりはないし、自分だけ逃げ出すなんて考えてもいないよ」
「だって! 暇乞いって言ったじゃないッ!?」
そう叫んだ途端……胸に込み上げて来た熱に抗えず、とうとう涙の雫が眼尻から溢れて頬を伝い落ちた。
(なんで、なんで私が涙なんか流さなきゃならないのよ。こんな男なんか、二度と会えなくなっても何の問題もないじゃないッ!)
ワンピースの袖口で乱暴に目元を拭う少女は、激昂する感情の儘に心の中でそう吐き捨てたが、同時に、得体の知れない不安が胸の中に拡がるのを感じてもいた。
だが、その理解し難い感情に戸惑いながらも、自分が狼狽しているのだと知られたくはないユリアは、頑ななまでに険しい表情を崩さない。
その視線を真っ向から受け止めたジュリアンは、愛しい少女の誤解を解くべく、嘘偽りのない心情を吐露したのである。
「以前にも言ったけれど、白銀提督を最後の戦いに送り出す事……それが僕の仕事だ。そして、それは最上の形で達成できたと自負している。奇跡と幸運に恵まれた感は否めないが、運だって実力の中さ」
その言葉にはユリアも異論はなかったが、同時に違和感も感じていた。
彼が口にしたのはヘンドラー星を訪問した時にサクヤと共に聞いた決意に他ならなかったが、それが別れを告げる理由になるとも思えない。
だからこそ、彼の真意を計り兼ねるユリアは困惑を深くするばかりだった。
すると、俯いてしまった彼女から達也へと視線を移したジュリアンは、その表情を和らげて言葉を重ねる。
「農業プラントと、漁業プラントに特化したコロニーは順調に稼働していますし、その他の生活必需品の備蓄も申し分ないでしょう。現在の総人口ならば自給自足は十分可能です。ただ、残念ながら……この星系内で調達できない軍需物資については一年分を確保するのがやっとでした。物が物だけに監視の目が厳しくて……肝心な部分で力及ばず申し訳ありません」
そう言って頭を下げるジュリアンに達也は笑顔で謝意を返す。
「とんでもない。ロックモンド財閥だからこそ調達ができた……そう言っても過言ではない希少品ばかりだからね。心から感謝しているよ」
「その御言葉だけで苦労が報われます。ですが、消耗品である精密部品のストックが心許ないのが気掛かりですが……」
「心配ないよ。攻勢に転じた以上、短期決戦以外に選択肢はない。長期戦に陥いる前にケリをつける……それが、我々が勝利する唯一の道だ」
強気の姿勢を崩さない達也の言葉に感嘆し、軍事には素人に過ぎない己の懸念など無用の長物だと理解したジュリアンは、残された懸案事項を託すべく頭を下げて懇願した。
「現在、マーティン・サンライト司令が指揮する輸送部門所属の艦艇全五百隻が、物資を満載にしてセレーネに向かっています。一両日中には到着する筈ですので、物資受領後は全ての艦艇を補給艦として梁山泊軍に編成してください。それから、マーティン以下全乗員が、その家族共々移住を希望していますので、宜しくお取り計らい下さいますよう伏してお願い致します」
「分かっているよ……苦労を厭わずに尽力してくれた方々を無下にはできないさ。移住申請は既に承認されているから、何も心配しなくていい」
達也の言葉を聞いたジュリアンは安堵して表情を綻ばせたが、ひとり蚊帳の外に置かれたユリアにしてみれば、一向に核心に触れない話に苛立ちを募らせるしかなく、思わず声を荒げてしまった。
「だから何だと言うの? 為すべき事を成して満足したら、それで終わりなの? 戦いはこれから始まるというのに……今逃げ出して良い筈がないじゃないッ!」
自分が如何に残酷な言葉を投げつけているか分からないユリアではないが、胸の中で蟠る想いが堰を切って溢れ、憤りばかりが募っていく。
(ずっと協力してくれると思っていたのに! それなのにッ!)
それが己の勝手な思い込みに過ぎず、言い掛かりに等しいと言うのは分かってはいるが、これからも、この星の発展に共に携わっていくのだと信じていただけに、裏切られたという思いが拭い切れなかったのだ。
だから、尚も憤懣やる方ない想いを吐き出そうとしたユリアだったが、それは、ジュリアンの言葉によって遮られてしまう。
「残念だけれど……そう遠くないうちに、僕は連邦司法局に身柄を拘束されるだろう……罪状は騒乱幇助かな?」
「なっ!?」
その告白はまさに寝耳に水の話であり、彼が何を言っているのかさえ理解できないユリアは、唖然とした表情で絶句してしまう。
一方のジュリアンは、そんな彼女を見て激しい葛藤に苛まれていた。
さぞ驚いたのだろう……両の瞳を大きく見開いたユリアが自分を見ている。
彼女の気持ちを考えれば胸が痛むが、嘘で誤魔化した所でいずれはバレるのだ。
ならば、正直に話した方が良いと決め言葉を重ねた。
「梁山泊軍が決起して銀河連邦や帝国と開戦ともなれば、白銀提督を支援した者は誰だ? との声が上がるのは必定だよ。支援の規模を考えれば、該当するのは我がロックモンド財閥ぐらいしか銀河系には存在しない」
そこまで説明されて漸く合点がいったユリアは、己の愚鈍さを思い知らされて歯噛みするしかなかった。
あまりにも物事が順調に推移していただけに、それ故に派生するリスクに思いが至らなかった事が悔やまれてならない。
「お父さんッ!?」
突然突き付けられた想定外の事態に悩乱するユリアは、悲痛な想いが滲んだ視線で達也に縋ったが、頼みの父親も左右に首を振るばかりだ。
「事前に話はしたさ……熱りが冷めるまでセレーネに退避してはどうかと勧めたんだがね……あっさり断られてしまったよ」
達也の言は至極尤もであり、その提案を拒絶したジュリアンの真意を計りかねたユリアは、表情を険しくして食って掛かった。
「あなた何を考えているの? みすみす司直の手に落ちるなんて馬鹿げている! 敵の思惑を躱すのだって立派な戦術だわ? 危険を回避するのは逃げじゃない! それぐらい、あなたにだって分かるでしょうッ?」
「君の言い分は正しい……でも、それでも駄目なんだ」
「どうしてッ!??」
頑なに己の主張を譲らないジュリアンの態度に焦れたユリアは、とうとう悲鳴にも似た叫び声をあげてしまう。
自分が言っている事は間違ってはいない筈なのに……。
なぜ意地を張るの?
なぜ、分かってくれないの?
なぜ? なぜ? なぜッ!?
私がこんなにも心配しているのに! なぜ、言う事を聞いてくれないの!?
そんな苛立ち紛れの声が脳内に木霊し、ユリアは歯噛みする他はない。
だが、その血を吐く様な思いで絞り出した問いへ返されたジュリアンの言葉には、激昂する彼女を打ち据えるには充分な説得力があった。
「無謀な博打に乗ってくれたばかりか、滅私奉公も厭わずに尽力してくれた部下を身代わりにしろと?」
「あっ! そ、それは……」
決して厳しい物言いではなかったが、見境をなくしたユリアには、それは頭から冷や水を掛けられるに等しいものだった。
「僕が雲隠れすれば、代わりに重役達が拘禁されて取り調べを受けるのは確実だ。だが、そんな事は認められない……責任を負うのは僕の仕事だからね」
その言葉が胸に染み入れば、ユリアは嫌でも理解せざるを得ない。
(そうだったわ……出逢って間もない、生意気で口の悪い私なんかを、暴漢の銃口から庇ってくれる責任感の強い人だったじゃない。そんな彼が、部下を犠牲にして自分だけ助かろうとする筈はないのに……)
そう気づいた途端、自分の言葉が彼を侮辱していたのだと思い至ったユリアは、身を刺すような羞恥に苛まれてしまう。
(私は彼の本当の姿を知ろうともせず……心の何処かで軽んじてはいなかっただろうか? 好きだと言われて浮ついていたのは私? 馬鹿なのは私の方だ……)
しかし、そんな自虐的な思考に囚われたユリアにとって、続けざまにジュリアンの口から発せられた台詞は、彼女を更に打ちのめすには充分過ぎるものだった。
「白銀提督は終戦後に自ら裁きの場に立つと公言している。僕ですらその高潔さに憧れるのだから、君ならば言わずもがなだろう。だから、無様な真似はできない。誰にどう思われても良いが、君に卑怯者だと思われるのだけは耐えられないんだ」
心の奥底で蟠る、暗くドロドロした感情をその言葉の刃で貫かれたユリアは、その痛みに耐えられず、弾かれた様に立ち上がっていた。
「わ、私は……」
(私は、あなたに想って貰う価値なんかない! 私にそんな資格はないのッ!)
「私っ! アナスタシア様の講義があるからッ!」
そう吐き捨てるかのように叫んだユリアは、脱兎の如くに駆けだしてリビングを飛び出した。
背中を打つジュリアンの声に後ろ髪引かれたが、一刻も早くこの場を逃げ出したいという感情が勝り、振り返りもせずに懸命に駆けたのだ。
気付けば涙が頬を伝い落ちていたが、それを拭う余裕すらユリアにはなかったのである。




