第五話 さくらとサクヤ ②
(ど、どうしましょう……どんな顔をして話を切り出せばいいのかしら?)
クレアと対面して視線を合わせた途端、緊張の極みに達したサクヤは何度も練習した挨拶も何もかもを失念し、血の気の引いた顔を強張らせるしかなかった。
この都市型宇宙船に到着し、艦長を務めているラインハルトに出迎えられた時には、相手が顔見知りという事もあってまだ平静でいられたのだが、案内された邸宅が伯爵に叙せられた白銀達也の住まいだと知らされた瞬間、身体の震えが止まらなくなったのだ。
然も出迎えてくれた女性の美しさに息を呑み、彼女こそが奥方である白銀クレア伯爵夫人だと知って、頭は大嵐に見舞われたも同然の様相を呈し、何をどうすればいいのか見当もつかない有様。
激しい動悸の所為で身体が強張り、この応接間まで自力で辿り着けたのが不思議な程の酷い緊張に雁字搦めにされたサクヤは、唯々悩乱するしかなかった。
頼りの大伯母は薄情にも素知らぬ顔で紅茶を楽しんでいるし、困惑顔のクレアが言葉を掛けてくれるのだが、何を言われているのかさえ全く頭に入って来ない。
そんな醜態を晒す自分を情けないと思えば思うほど、益々緊張の度合いが強まるという悪循環に陥っていたのだが……。
そんな絶体絶命の瀬戸際に救いの天使が降臨したのである。
「ママぁっ! さくらは、たいぐ─かいぜんを、ようきゅうするのぉ──っ!」
意味不明な言葉を叫びながら可愛らしい少女が乱入して来た瞬間、室内の重苦しい雰囲気は木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
(な、何を言っているのかしら、この娘は?)
頬を膨らませ唇を尖らせている少女をサクヤは唖然としたまま見つめるしかなかったが、クレアの狼狽ぶりを目の当たりにして更に驚かされてしまう。
先程まで大人びた柔らかい微笑みを浮かべていた淑女が、顔色を変えてあたふたしている姿を見せた事で、サクヤは漸く落ち着きを取り戻せたのだ。
(こんなに素敵な方でも取り乱されるのですね……)
妙な事に感心しながらも、幾分か気持ちが楽になったサクヤを後押しする様に、それまで空気を装っていたアナスタシアが、口元を押さえて笑い声をあげた。
「ホッホホホ……これはこれは! 可愛らしい陳情者じゃないか……この娘が噂のさくらちゃんだね? 話はヒルデガルド殿下から聞いていますよ」
「申し訳ありません! 陸な躾もできていなくて……御恥ずかしい限りです」
クレアは顔を朱に染めて非礼を詫びたが、アナスタシアは全く気にした風もなく、見知らぬ女性が二人もいて驚き立ち竦んでいる少女に笑顔で手招きする。
それを見てクレアの声にならない悲鳴が……。
(ひいぃ~~っ! さくらぁ! これ以上は勘弁してぇ~~)
母親の絶望的な心の声など知る由もない愛娘は素直に頷くや、トコトコとアナスタシアに歩み寄った。
この様な場合、素直で無邪気な子供は最強である。
「初めまして。さくらちゃんだね? 私はアナスタシア。あなたのお父さんの知り合いだよ」
「あ、あな……しあ?」
長い名前に戸惑い小首を傾げる少女の仕種が可愛らしくて、アナスタシアは笑いながらさくらを抱き締め優しく頭を撫でてやる。
「ホッホホホ……シアお婆ちゃんで充分だよ」
「シア? うんっ、わかったぁ! でもお婆ちゃんじゃないよぅ、シアおばちゃんだよっ! だって、ぜんぜん若くて綺麗なんだもんっ!」
頭を撫でられるのが心地よいのか、さくらは目を細めて嬉しそうに叫ぶ。
クレアは卒倒寸前だし、サクヤはアナスタシア相手に物怖じしない少女の存在に驚きを禁じ得ず、言葉を失くしてふたりの遣り取りを見守るしかなかった。
大伯母を知らないのだとしても、一種独特な覇気を纏う彼女を前にすれば、天真爛漫に振る舞える子供など、そうそう居るものではないのだが……。
すると、その少女と目が合ったサクヤは、何と言葉を掛ければ良いのか分からなくて口籠ってしまった。
さくらの言葉に気を良くした大伯母が、そんな彼女に冷たい視線を投げて溜め息交じりに苦言を呈す。
「年長者なのに挨拶も出来ないのかい? お前も私に『陸な躾ができていなくて』と言わせたいのかしらね?」
叱責されて我に返ったサクヤは、少女の小さな手を自分のそれで包み込んで口元を綻ばせた。
握った手から伝わって来る温もりが、頑なだった心と緊張感を解してくれる。
「はじめまして、さくらちゃん。私はサクヤといいます。仲良くしてね?」
「さ、さくらぁ? おんなじ名前なのぉ?」
「残念。少しだけ違うの。サ・ク・ヤ……サクヤよ。一字違いでよく似ているものね。でも似た名前で私も嬉しいわ」
ぱぁ~っと満面に笑みを浮かべたさくらは、優しい微笑みを向けてくれたお姉さんに抱きついて「私も嬉しいの」と燥ぐ。
この時点で少女は《待遇改善要求》を忘却の彼方へ放り投げたようだった。
◇◆◇◆◇
「大変御見苦しい所をお見せいたしました……どうかお許しください」
膝の上に鎮座するさくらを抱いたままのサクヤが丁寧に頭を下げた。
可愛い闖入者のお蔭で漸く平常心を取り戻せた彼女だが、それでも早鐘の如くに跳ねる胸の鼓動を懸命に押し隠すのは変わらない。
「いえ! 私の方こそ……娘の無礼をお詫びいたします。本当に申し訳ありませんでした」
クレアも心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「あのね! さくらね……」
愛娘が優しいお姉さんに何か言おうとするのを一睨みで黙らせたクレアは、地の底から響くかの様な重低音の言葉を口から零す。
「さくら。今度ママ達のお話が終わる前に喋ったら、一ヶ月間はハンバーグは作らないから……そのつもりでいなさい」
その台詞に震え上がった愛娘は小さな手を口の前で重ね合わせるや、フルフルと顔を左右に振って神妙な態度を取る。
流石に《ハンバーグ抜きの刑》の効果は絶大のようだ。
そんな、さくらの他愛もない仕種までもがサクヤには新鮮で可愛く映るらしく、まるで人形を慈しむかの様に抱き締めてしまう。
だが、これでは何をしに此処までやって来たのか分からないと思い直して姿勢を正すや、真剣な眼差しをクレアへと向ける。
この少女の前で話すか否か迷ったが、母親のクレアがこの場に留まるのを許した以上、自分が異を唱えるのは筋が違うと思い直し決死の覚悟で懇願した。
「本日お邪魔致しましたのは、伯爵夫人であるクレア様にお願いがあったからです……はしたなくも厚かましいのは重々承知の上でお願い致します! どうか! どうか私を……白銀達也様の妻の末席に加えては戴けないでしょうか?」
言った、とうとう言ってしまった!
心臓がバクバクと跳ね廻って真面にクレアの顔を見れず、サクヤは頭を下げるに任せて目を逸らしてしまう。
貴族である以上第二第三夫人を娶るのは珍しくはないが、それを女の側から願い出るなど、不躾で非常識極まる行為には違いない。
然も、正妻を相手に直談判に及んだとなれば、どんな罵倒が返って来ても不思議ではないのだ。
だから、不快感に満ちた言葉で厳しく叱責されるのだと覚悟し、身体を硬くしたのだが……。
「はい。姫様のお気持ちは承りました。最終的には主人が決める事ですが、私も全力で協力致しますから、OKして貰える様に力を合わせて頑張りましょう」
「……えっ?」
想定していたどの返事にも当て嵌まらない言葉を聞いたサクヤは思考停止状態に陥ってしまい、まじまじとクレアの顔を見つめ返すしかなかった。
彼女に対し失礼な態度だとは思うのだが、耳朶に響いた言葉がどうしても信じられない。
目の前の女性は変わらずに柔らかい微笑みを浮かべており、とても冗談を言っている様には見えないからこそ、困惑は深まるばかり……。
そんなサクヤが何も言葉にできないでいると、アナスタシアがクレアを揶揄う。
「いいのかい? クレアさん。私の亭主も何人もの愛人を連れて来ては、『頼む』の一言だけで平然としていたけどね。亭主と女達の首を何度絞めてやろうと思ったか……言いたい事があるなのならば、この機に言っておかないと後で後悔するかもしれませんよ?」
「おっ、大伯母様っ! そんな仰りようは!?」
まるで焚き付ける様なアナスタシアの言葉に、真っ青になって抗議するサクヤだったが、クレアは然も可笑しいと言わんばかりに口元を押さえた。
「うふふ。アナスタシア様も御人が悪い……サクヤ様の事を宜しく頼むと仰られて頭を御下げになられたのは貴女様ではありませんか。あの時点で私に他の選択肢は残されておりませんわ……一人の女としては言いたい事が無いわけではありませんが、それを口にして貴女様に笑われるのは嫌ですもの」
彼女の言葉に驚いたのはサクヤの方だ。
今回の件はお気に入りの白銀達也を引き立てる為の手段として、大伯母が自分の恋心を体よく利用したのだと思っていた。
それが、自分の為に頭まで下げてくれたのだと聞かされれば、感激で目頭が熱くなるのを我慢できない。
その一方で、あれほど口止めしたにも拘わらず、あっさり秘密を暴露されたアナスタシアは、顔を顰めて『フン』と鼻を鳴らしクレアに文句を言うのだった。
「貴女も随分と底意地が悪いわ。因業婆に恥を掻かせて何が面白いのかしらね? しかし、私も老いたものですよ。身内に情を懐く様になるなんてねぇ……あぁ嫌だ嫌だ! これだから歳は取りたくないんですよ」
すっかり拗ねてしまった彼女を宥め賺すクレアは、真摯な光を宿す瞳をサクヤへ向けて口を開く。
「さて、サクヤ様。私は貴女様に対してつまらない嫉妬はしないと決めました……それは新しく家族になる人とは仲良くしたい……そうでなければ家族というものは成り立たないからです」
一旦言葉を切って紅茶で喉を湿らせたクレアは、緊張するサクヤに覚悟を問う。
「貴女様はどうでしょうか? 七聖国有数の皇王家と我が家では何もかもが比較にもならないでしょう。それでも、我が白銀家の一員として、分け隔てなく他の家族を慈しんで下さいますか?」
伯爵位を持つ貴族であっても、達也もクレアもそんなモノを鼻に掛ける気は毛頭なく、ましてや子供達は尚更だ。
何よりも人として生きて行く……。
それが達也が家族に強いた、たった一つの願いだったのだから。
サクヤはそんな達也の人柄を知るからこそクレアからの問いの意味を正確に理解し、だからこそ寸瞬も迷わず心に秘めた決意を口にしたのである。
「達也様が私を受け入れて下さるのであれば、私の居場所は此処以外にはありません。そして、私の家族は皆様方を於いて他にはいないと思っています。ですから、私という女を認めて戴ける様に精一杯努力するつもりです」
この瞬間にクレアはサクヤという人間を認め受け入れたのだ。
だからこの儀式の終わりに、気になっていた事を聞いておこうと思い立って口を開いた。
「サクヤ様。ひとつだけお聞きしたいのですが……貴女様が達也さんを好きになったのは、造反した兵士達に拉致された時に助けられたからですか?」
それは先日の女子会の折に謎とされた話題であり、ヒルデガルドも詳しくは知らないと言っていただけに、機会があれば聞いてみたいと思っていたのだ。
話を振られたサクヤは一瞬だけ微苦笑を浮かべて逡巡したが、クレアからの問い掛けを断ろうとは思わなかった。
寧ろ、知っておいて欲しいと望んだのである。
「分かりました……私にとっては苦い思い出なのですが、お話しいたしますわ」
それまで大人同士のチンプンカンプンな話を聞かされていたさくらが、大好きなお父さんの名前を耳にした途端に目を輝かせる。
そんな少女の頭を愛おしげに撫でながら、サクヤは大切な思い出を語り始めるのだった。




