第五十五話 比翼連理 ③
「残念だけれど、セレーネを母体とした国家を起ち上げるのならば、達也を首班に仰ぐのは無理ですよ……あの子の言い分にも一理あるし、それを撤回させる材料に乏しいのも事実ですからねぇ」
如何にも苦々しいという胸の内を隠そうともしないアナスタシアは、そう答えて軽く息を吐いた。
だが、ある程度は覚悟していたとはいえ、言下にそう否定されたクレアは落胆せざるを得なかったが、政治巧者であり、女傑とも謳われる老淑女に縋るかのような視線を向けて言い募る。
「あの人の軍人としての覚悟や矜持は立派だと思います。ですが、これほど多くの人々に望まれているにも拘わらず、それが正道だからとはいえ、皆の願いに応えようとしないのは……」
クレアとて達也の言い分に異を唱える気はないし、非難するつもりも毛頭ない。
妻として夫の理念は尊重したいし、常に傍らに在って支えられるのならば、それに勝る幸せはないとも思っている。
だが、白銀達也以上に盟主に相応しい人材がいないのも、また事実だ。
それは、現状の政務を司っている人々の能力が劣っているという意味ではなく、達也に寄せられる住民からの期待と憧憬が大きすぎるが故に、他の誰にも代わりは務まらないという悩ましい問題だった。
しかし、そんな状況下で建国に突き進めば、産声を上げた新国家が上手く機能するかどうかさえ怪しく、早晩種族同士の不和を招きかねない危険すらある。
そう危惧するからこそ、クレアは不遜だとは思いながらも、夫の説得を諦め切れずにいるのだ。
その想いにはアナスタシアも大いに共感する所だが、彼女が否定したのには他にも理由があるからであり、先ずは切羽詰まった表情でいるクレアを落ち着かせるべく言葉を掛けた。
「貴女の言い分は尤もですよ。ですが、あの子の言う通り、その思想的歪さから、軍事政権は数多の興亡を繰り返してきました……それ故に、軍人は政治家には向かないという達也の言い分は、ある意味で正鵠を射ていると言えるでしょう」
「し、しかし……」
反論しようとしたクレアを視線だけで黙らせたアナスタシアは、そのまま淡々と言葉を続ける。
「勿論、全ての軍属を一括りにし『だから軍人は』と嘲り貶めるのは間違っているわ。それに、本人は絶対に認めないでしょうけれど、優秀な政治家足りえる才能を達也は持ち合わせている……この星の初代大統領になれば、その名は銀河史に刻まれて未来永劫語り継がれる存在になるかもしれないわね」
凡そ世辞や忖度とは無縁であるアナスタシアが、手放しで褒めるなど滅多なく、それは、隣に座るサクヤが吃驚して息を呑んだ様子からも明らかだった。
「ですが、たとえ人々から敬愛され、その能力に問題がなかったとしても、達也をこの星の指導者に祭り上げる訳にはいかないのよ……」
しかし、華やかな希望の台詞の後に続いた言葉には、無念を含んだ諦観が滲んでおり、クレアは反射的に問い返してしまう。
「なぜですか? なぜ達也さんでは不都合なのです? 多くの人々から指導者にと望まれ、その才もある人間を排除しなければならない理由とは……」
アナスタシアの言わんとする意味が分からず、クレアは非才の身である自分を歯痒く思うしかなかったが、そんな彼女からの問い掛けに、老淑女は何処か皮肉げな口調で意味深な台詞を漏らす。
「優秀過ぎるからこそ、この星の先行きに禍根を残す恐れがあるのよ。政治家なんてものはね、最低限度の常識さえ持ち合わせていれば馬鹿でもかまわない。実務的なフォローは官僚の仕事ですもの……だから政治家に最も必要な資質は何かと問われれば、全ての政策と国家運営に対して責任を負うという覚悟を持ち、いざという時に決断できるか否か……ただ、それだけなのです」
暴論だと謗られればそれまでだが、それでもクレアは妙に腑に落ちて納得せざるを得なかった。
思えば地球を追われて今日に至っているのも、政治の影響が少なからず働いたのは否定できないし、銀河連邦評議会の腐敗と、台頭した貴族閥の専横が加盟諸国の分断を生み、混乱を助長させているのも紛れもない事実なのだ。
だが、それならば、なぜ達也では駄目なのか……。
そう疑問に思い表情を曇らせるクレアにアナスタシアはその答えを示す。
「確かに達也は責任感が強く決断力もある……でもねぇ、あまりにも非の打ち所がないリーダーの下では部下が安閑として働かなくなるのよ。何もしなくても上から政策の叩き台は降りて来るし、それが多少の修正を加えるだけで通用する様な環境ではね……優秀な官僚は育たない」
思ってもみなかったその解答にクレアは言葉もなかったが、悄然とする姉貴分を見兼ねたサクヤが身を乗り出して嘴を挟んだ。
「それは、余りにも大袈裟な物言いではありませんか? 往々にしてその類の問題は、トップの指導力とカリスマ性が不足するが故に起きるものですわ。達也兄さまに限って、その様な不甲斐ない真似は……」
しかし、アナスタシアの険しい視線で一瞥されたサクヤは、最後まで言葉を声にできずに口籠らざるを得なかった。
「この星はランズベルグでもファーレンでもないんだよ? 長い年月を経て醸成された官僚機構がある訳じゃないんだ! 素人同然の人員を教育している最中で戦力として期待できるレベルじゃない。然も、その全員が達也に対して盲目的に恭敬の意を示している状況で、一体全体なにが機能すると言うんだい!? 暫くぬるま湯に浸っていた所為で、この程度の事もわからなくなったのかい? サクヤ!」
その厳しい叱声に打ち据えられたサクヤは唇を噛んで項垂れるしかなく、クレアも自分の甘さを面罵された気がして肩を落とすしかない。
「そう遠くないうちに建国するのは既定路線とはいえ、当面は我が国とファーレンのスタッフが支えるしかないわ……でもね、いずれはこの国の人間が行政と立法、そして司法の三権を担うしかないのよ? でも、まだまだ未熟な彼らを建国までに一人前にするのは不可能だわ。だったら現場で苦労して育って貰うしかないの! そんな厳しい環境が必要な状況下では、優秀な指導者は却って邪魔でしかない……だから、達也では駄目なのよ」
一気呵成に言い切ったアナスタシアだったが、思った以上に消沈しているクレアとサクヤを見れば、言葉が過ぎたかとも後悔してフォローするべきか否か逡巡してしまう。
すると、それまで黙って皆のやり取りを聞いていたソフィアが徐に口を開いたかと思えば、華やいだ声音で敬愛する伯母を宥め、場の重くなった空気を和らげるかの様に会話に割って入る。
「伯母上様の仰る通りだとは思いますが、初手からハードルを高くしては落伍する者も多くなりましょう。クレアさんやサクヤの為に厳しい物言いをなさっているのは分かりますが、本命の案件を理解させる前に意気消沈させては気の毒ですわ」
国母として広く国民から敬愛されているソフィアは、非の打ち所のない貴婦人中の貴婦人であり、ランズベルグ皇国どころか、銀河連邦に属する上流階級の人々が集う社交の場は、まさに彼女の独壇場であると言っても過言ではない。
その美しく整った顔に温和な人柄が滲み出た笑みを湛えれば、他国の気難しいと評判の国王であっても相好を崩さざるを得ないと言わしめ、彼女と知己を得ようとする者は枚挙に遑がない程の貴人でもある。
だが、そんな世評とは裏腹に、この甥っ子の嫁が決して一筋縄ではいかない強かな為政者なのを知るアナスタシアは、眉根を寄せて嫌味交じりに言い返した。
「おや。随分と娘達には優しいじゃないか? だったら、たまには貴女が教育してあげてはどうだい? 年寄りは何時お迎えが来るか分からないから、気ばかり急いて口調が乱暴になってしまってねぇ。私も好んで憎まれたくはないし、この娘達も皇后様の至言の方が理解し易いでしょう」
するとソフィアは嬉しそうに微笑みながらも、鼻を鳴らす伯母を揶揄うかの様に弾んだ声を返す。
「あらあら。そんなに拗ねなくても宜しいではありませんか。ですが御指名ならば致し方ありませんわね」
普段は滅多に自己主張しない皇后が、珍しく燥いでいる様を訝しむアナスタシアだったが、格式を重んじる頭の固い侍従達の手前、外出も儘ならない生活にストレスが溜まっているのだと気付き、その点は同情せざるを得ないと深く嘆息する。
(よほど退屈で仕方なかったんだねぇ……クレアさんとサクヤは暇つぶしには丁度良い相手という訳か……まぁ、お手並み拝見といきましょうか)
そんなアナスタシアの思惑を知ってか知らずか、微笑みを崩さないソフィアは、柔らかい声音でクレアに問い掛けた。
「伯母上様から聞いていますが、銀河系を席巻するであろう戦乱の引き金を引いた者として、如何なる形であれ、貴女の旦那様は戦後に責任を取る覚悟だとか?」
「はい。そう聞いております……ただ、主人の性格ならば仕方がないと思ますが、決して私利私欲の為に戦うのではないのですから、穏便に解決する道は必ずある筈だと私は信じています」
助力してくれる同胞達の尽力と幸運にも恵まれて思いがけず力を得たとはいえ、貴族閥の悪辣な奸計によって一時は死の淵まで追い詰められたのだ。
一旦敵対したならば、相手の言葉には耳を傾けもせずに一方的に断罪し、それが正義だと声高に喧伝する連中には、クレアも憤りを覚えずにはいられなかった。
だから、たとえ達也が自発的に裁きを求めたとしても、問題にされる筈がないと信じて疑ってもいなかったのである。
しかし、そのクレアの迷いなき返答を聞いたソフィアは、その変らぬ笑みを僅かに深くして厳しい言葉を返した。
「それは甘い見通しだと言う他はありませんね……貴女は達也を殺す気ですか? この美しい星を数多の血で染めざるを得なかった千五百年前の英雄たちの悲劇を、今また繰り返すつもりなのですか?」
その衝撃の言葉に胸を貫かれたクレアは、穏やかな陽光が射し込む室内の温度が一気に氷点下まで落ちたかの様な錯覚を覚え、困惑を露にしてソフィアを凝視するしかなかったのである。




