第五十四話 羊頭を懸けて狗肉を売る ②
「御仕事お疲れさま。なにか軽めの食事でも作りましょうか?」
日付が変わろうかという時刻に帰宅した夫に気遣わしげに問うたクレアだったが、達也は柔らかい笑みを浮かべて顔を左右に振った。
「大丈夫。会議の合間に食事は済ませたから。それよりもお義父さんとお義母さんは、何か不自由しておられないかな?」
アルバートと美沙緒が同居を始めて既に一週間になるが、共に自宅で過ごせたのは初日と翌日の二日間だけだった為、義父母が慣れない環境の中で戸惑っているのではないかと心配していたのだ。
だが、楽しげに含み笑いを漏らす愛妻は、夫の不安を否定した。
「昼間は蒼也にべったりだし、子供達が学校から帰ったら帰ったで燥いじゃって。幸せな老後ライフを満喫しているわ。然も、蒼也を手放したくないばかりに自分達の寝室で寝かせるのよ? それが毎晩だから呆れてしまうわ」
「ははは。そうか。それならば良いが君も大概だね。実の両親を捉まえて老後はないだろう? バーベキューパーティーの時には、何か商売でも始めるかと意欲満々だったよ?」
「お父さんも六十歳になるんだから、齷齪しなくてもいいのにね……」
会話の途中で言葉を切ったクレアは穏やかな視線を達也に向けて、その艶っぽい唇から感謝の言葉を零す。
「ありがとう……あなた。こんなに穏やかで幸せな時間を得られるなんて、本当に夢みたい、あっ……」
感謝の言葉を言い終わらないうちに抱き締められて唇を奪われてしまう。
暫しの口づけの後に解放されたクレアは、少々眉根を寄せて悪戯好きの夫を睨んだのだが……。
「それは俺の台詞だよ。君が隣に居てくれたからこそ、俺は陸でもない人生を歩まずに済んだ……だから、これからも見捨てないで欲しいな」
そう言われて微笑まれれば、怒った顔を取り繕うのは無理だ。
「もう! やっぱり達也さんは軍人よりもジゴロがお似合いです。でも、私以外の女性を口説いちゃ嫌ですよ……」
照れ隠しにそう釘を刺してみたものの……。
「馬鹿だなぁ……銀河系中を探しても君よりも素敵な女性はいないさ」
再び強く抱き締められて耳元で囁かれるや、当然の様に熱いキス……。
久しぶりの夫婦水入らずの時間を達也とクレアは満喫したのである。
※※※
風呂に入って疲れを癒した達也が寝室に戻ると、クレアがハーブティーを用意して待っていてくれた。
セレーネの山野の至る所で採取できるありふれた野草なのだが、丁寧に下処理が施されたその茶葉は、香ばしい風味を醸し出すので有名な逸品だ。
主に精神の安定や疲労回復に効果があるとされ、クレアのお気に入りでもある。
瀟洒なデザインの小さくて丸い木製テーブルに落ち着いた夫婦は、微かに鼻孔を擽るハーブティーの芳香と気軽な会話を楽しむ。
極秘の勧誘が功を奏し、銀河連邦宇宙軍の退役軍人らが続々と梁山泊軍への参加を希望してセレーネに移住してきており、軍の体裁は整いつつある。
そんな中でクレアは自ら退役を申し出て、先日その申請は受理された。
人手不足を理由に高級将官の地位を得た以上、懸念が払拭された今、分不相応な人事は返上したいというのが、その理由だ。
勿論、クレアの軍人としての能力を惜しむ声は大きかったが、アルカディーナ達の相談役としても多忙を極める中では退役も已むなしと、最終的に達也が判断したのである。
だからこそ、達也が語る知り合い達の近況にクレアは表情を綻ばせ、皆の活躍を我が事の様に喜ぶのだった。
そして、互いの近況報告が一段落した時……。
「そう言えば、先日宇宙港でひと騒動あったと聞いたけれど、大丈夫でしたの? 何でも、公衆の面前で大層な美人に言い寄られ、思いっきり相好を崩していたそうじゃありませんか?」
子供らの近況を聞いて安堵していた達也は、そう問われて思わず顔を顰めるや、恨めしげな視線で愛妻をひと睨みしてから溜息を零した。
「その後半部分には大いに異議があるぞ。そもそも俺は被害者だ。いきなり胸倉を掴まれて鬼の様な形相で叱責されたんだよ? 相好を崩した? うっかりそんな醜態を晒そうものなら、その場で殺されていたさ。彼女はシャリテ・サジテールといってね、元ランズベルグ皇国近衛艦隊司令官だった女性だ」
達也の声には明らかに妻に対する非難が込められている。
サクヤとの婚約関係を解消し、名目上の爵位も放棄して一般人に戻ったのだが、それを境にしてクレアの嫉妬の虫がチラチラと顔を覗かせる様になったのだ。
まさか本気で女性関係を疑っている訳ではなかろうが、達也にしてみれば居心地が悪い事この上ない。
極めて誠実に妻を愛しているという自負があるだけに、身に覚えのない濡れ衣には断固抗議せねばと思うのだった。
一方のクレアにしてみれば些少の妬心を懐かないではないが、夫の為人は熟知している為、浮気を心配している訳ではない。
最近では仕事仕事で家を空ける事が増えた夫に対する、単なる悪巫山戯に他ならないのだ。
尤も、アルカディーナにとって達也は英雄そのものであり、獣人女性達の中には熱い憧憬を懐く者も多いという話は耳にしており、おまけに志保やエレオノーラから散々揶揄われていた為、つい嫌味を口にして憂さ晴らしをしているのだった。
しかし、絡んで来た相手がランズベルグ皇国親衛艦隊の司令官と聞けば、嫌でも先日の騒動が脳裏を過ぎり、納得しながらも表情を曇らせざるを得ない。
「まあ! そうだったの……それで達也さんに掴みかかったのね」
「ゼムで執り行われた『新嘗の大祭』の時の拉致計画は、彼女に伝えてはいなかったからね……彼女自身に問題はなかったが、配下の近衛の中には皇国貴族の師弟も多い。秘密裏に事を運ぶには彼女も騙すしかなかったんだ」
「それで嚇怒したサジテールさんに、再会早々怒鳴りつけられたと?」
クレアの憐憫の情が滲んだ言葉に達也は頷く他はない。
「致し方なかったとはいえ非は俺にある……彼女はソフィア皇后陛下とケイン殿下に盲目的な忠誠を捧げていてね。事件の捜査終了後に退役し、皇王陛下に暇乞いを済ませてから殉死するつもりだったそうだ」
殉死という言葉を耳にしたクレアの表情が硬くなるのを察した達也は、その不安を払拭するべく言葉を重ねた。
「レイモンド陛下からの説得で最悪の事態は回避されたが、その場で陛下の口から俺の名を聞いたらしくてね。計画の詳細と立案者が白銀達也だと知って激怒したらしい……それが宇宙港での騒ぎに繋がったという次第だよ」
「それで、問題なくその場は収まったのですか? 漏れ聞いた話では、一触即発の状態だったと……」
この話をクレアに齎したのは、偶々宇宙港に居合わせた梁山泊軍の元部下だ。
その者の話によると、サジテール女史一行と宇宙港を利用していた住民達の間に不穏な空気が流れたとの事だった。
その為、今後ランズベルグ皇王家との関係構築に支障が出ないか、クレアは心配しているのだ。
「それは大袈裟だよ。彼女の志に賛同してランズベルグを出奔した元近衛の部下達が間に入ってくれたからね。サジテール女史も怒りを収めたし、大きな騒ぎにはならなかったさ」
達也の言葉で、クレアはホッと胸を撫で下ろす。
現在子供達が通う学校では皇王家の殿下方の留学が開始されており、獣人の子供達とも打ち解け、概ね良い関係が構築されていると聞いていた。
そんな大切な時期に大人社会で問題が発生するのは如何にも不味い。
幸いにも物騒な事態にはならなかったが、些細な擦れ違いが原因で、共生社会の実現に一丸となっている人々の間に亀裂が入るのは好ましくないだろう。
(生活共同体たる国家の成熟なしに急激な発展と豊かさを享受したセレーネは、一歩間違えば、退廃の道を転げ落ちる危うさを内包しているわ)
本来ならば達也を首班として建国し、その理念を明確にした上で発展を目指すのが正道なのだが、本人が自らの資質を否定している以上、他に適任者が見当たらない中での建国は無謀だと言わざるを得ない。
誰もが認める英雄を蔑ろにして他の候補が乱立した場合、最悪の場合は種族間の断絶を生み、共生の理念など消し飛んでしまう恐れがある。
達也が建国を遅らせたのは、軍人としての矜持を曲げなかったばかりではなく、戦時という非常事態を喧伝し、その中で寄せ集めであるセレーネの人々の団結心を煽ろうという思惑があったのも事実なのだ。
(でも……アルカディーナの人達が達也さん以外の人間を首長として認めるかしら? それに生半可な者ではファーレン出身者も納得しないでしょうし……)
昨今では移住してきたファーレン人の中にも、セレーネに永住したいという者達が名乗りを上げており、エリザベート女王もそれを咎める気はないらしい。
梁山泊軍への参加を希望する元銀河連邦の軍人とその家族らは専ら多民族の集合体であり、先住民族でもあるアルカディーナが少数派に甘んじるのは避けられない状況だ。
そんな厄介なこの星の行く末を憂うクレアとしては、この時ばかりは実直で清廉な夫の性格が怨めしくて仕方がなかった。
(一度アナスタシア様に相談してみようかしら……達也さんを説得するのは難しいけれど、何か妙案を御持ちかもしれないし……)
結局のところ彼女が頼れる人間は一人しかおらず、面談の段取りをつけるべく、クレアは彼是と算段を巡らせるのだった。
◆◇◆◇◆
愛する妻と一夜だけの逢瀬を楽しんだ達也だったが、懸案事項が目白押しの現状ではニーニャの梁山泊軍本部にトンボ返りしなければならず、朝食の食卓を囲んだ僅かな時間を子供らと過ごしただけで家を後にした。
最近はユリアを見倣ってか、さくらやマーヤも駄々を捏ねなくなったが、それでも寂しさと不満は隠せないようで、可愛い顔を曇らせるのが常だ。
そんな子供達にしてやれたのは、一緒に通学して学校の校門まで送り届ける位しかなかったのだが、それでも娘達は達也との散歩を喜んでくれた。
自分が良い父親ではないのは自覚しているが、このセレーネに集う人々の行く末を左右しかねない身としては、私情に溺れて不幸を招くなど、断じてあってはならないと己に言い聞かせてもいる。
その重圧を背負うからこそ、さくらとマーヤが校門に消えるのを見送った瞬間に意識を切り替え、少し離れた場所で待機していた送迎車に乗り込んだ。
ラインハルトからは『せめて移動には専用のシャトルを』と事ある毎に進言されていたが、それは断っていた。
幕僚達は軍司令官が気安く民間人と同じ空間に身を曝すのを不安視し、警備上の問題を論って再考を迫るのだが、達也は頑として応じない。
『この星に俺の命を狙う様な暇人はいやしないさ』
そう言って笑う最高司令官の呑気さに周囲はハラハラしどうしだった。
しかし、譬え、達也の言が正しいとしても、万が一があってからでは取り返しがつかないのも確かだ。
それは先日のシャリテ・サジテールとの邂逅が雄弁に物語っており、彼女が悪意ある暗殺者だったらと思えば、幕僚の面々は背筋が凍る思いだったろう。
それ故に護衛を増やす様に進言したのだが、にべもなく断られてしまい万策尽きて頭を抱えているのだ。
(まったく大袈裟にもほどがあるぞ。多種族からなる住人達が互いを理解し合おうとしているのに、俺が物々しく構えていたのでは彼らの努力に水を差してしまう。ラインハルトの心配性にも困ったものだ)
先日の親友とのやり取りを思い出した達也は苦笑いする他はなかったが、結局、最低限の警備は断れず、二名の護衛官を従える羽目に陥ったのは、良い落し処だったのかもしれない。
そんな一行は星系内の各地に移動する人々でごった返す宇宙港に到着した。
勿論、ホールで擦れ違う人々の反応は総じて好意的であり、相手が顔見知りであれば、短い時間であっても言葉を交わす。
しかし、そんな和やかな雰囲気は、突然人垣を割って飛び出して来た人物によって一変したのだ。
「白銀達也ぁ!」
そう叫んだ男が制止しようとした護衛を躱すや、険しい形相で達也に掴み掛かり、周囲からは悲鳴が上がってロビーは騒然とした空気に包まれるのだった。




