第五十三話 春遠からじ ①
惑星アイドース。
銀河連邦西部方面域にあるこの星は、惑星国家グロッタ共和国の母星として知られているが、地球を母星とする太陽系と同様にグランローデン帝国の支配域と境を接しており、政情は常に不安定だった。
他所に誇れる主要産業はないが、西部方面域に於ける銀河連邦の権限が拡大して以降は、流通の要衝として俄かに活気づいている。
其れも此れも、太陽系で勃発したバイナ軍との戦闘に白銀艦隊が圧勝したが故の結果だが、その勝利の立役者が反乱騒動を引き起こした挙句に死んだともなれば、その賑わいも何時まで続くかは不透明というのが評論家達の一致した見解だった。
とは言え、そんな大局論に思いを馳せる一般市民は稀であり、彼らの興味の大半を占めるのは、浮き沈みが激しい日々の生活に他ならない。
間接共和制を敷いてはいるが、議会は親銀河連邦派と反銀河連邦派とで色分けされており、それを反映してか国民の間にも分断の影は顕著に表れている。
また、新年早々に銀河連邦評議会本会議に於いて、新大統領にカルロス・モナルキア大元帥が選任されたのも不安要因に他ならず、貴族閥の潮流から外れた自国の運命を憂う国民らが集っては、議論する姿が彼方此方で見られる様になっていた。
そんな空気のなか、繁華街にある酒場は議論を戦わせるには格好の舞台であり、多くの店が仕事帰りの酔客で賑わうのが常だ。
数多ある酒場にはそれぞれの常連客が付いており、ホワイトカラーが大半を占めるサラリーマンと、荒くれ者が多い肉体労働者では贔屓にする店は自ずと異なる。
だが、議論の内容や想いの熱さに差はなく、今夜も美味い酒を片手に夜更けまで酔っ払い同士の討論が続くのだった。
◇◆◇◆◇
『ボニュール・ジュール』と店名が書かれた草臥れた看板がぶら下がるその酒場は、繁華街の外れにある古びた店だが、安い酒は安く提供するという初代店主からの伝統を頑なに守り続けており、常連の労働階級者に支えられて繁盛していた。
「艦長。今夜はこの一杯で切り上げましょうよ? 奥様も心配していますから」
雑多な喧騒の中、店の奥まった薄暗い一角に設えられたテーブル。
そこに陣取っている二人は安っぽい作業着姿の労働者風であり、他の酔客同様に自分の世界に浸りきっていて周囲を気にする様子はない。
だが、酩酊している年配の男は、煩わしそうに語気を荒げた。
「ごちゃごちゃ五月蠅い! それから何度も言うが、俺を艦長と呼ぶんじゃない! 俺はもう軍を辞めたんだ!」
重ねたグラスが何杯目かは分からないが、その澱んだ瞳に酒精を滲ませた男は、ぶっきら棒な物言いで悪態をつく。
その酔っ払いを気遣う若い男は『仕方がない』と言わんばかりに苦笑いするや、グラス片手に不機嫌さを隠そうともしない艦長殿に意見した。
「気持ちは分かりますが、新しい生活を始めた以上、あまり無理はなさらないでくださいね」
そう短く告げて立ち上がった若者が支払いを済ませ、カウンターに立つ無愛想なマスターに二言三言話し掛けたのを見て、残された男は心の中で再度愚痴を零す。
(口喧しい古女房じゃあるまいし……何時まで副長気取りなんだ?)
そう毒づいてみたものの、酒とは別の苦い何かに胸中を焼かれれば、思わず顔を顰めざるを得ない。
それが後ろめたさという感情に他ならないと分かってはいても、飲んだくれて不貞腐れる位しかできない己が、惨めに思えてならなかった。
彼の名はジョイ・ミットライト。
今では故郷のこの星で港湾地区の肉体労働者に身を窶しているとはいえ、半年前までは、栄えある銀河連邦宇宙軍大佐として航宙母艦インパルスの艦長を務めていたエリート士官だった。
因みに先程の若者は長年副長を務めてくれた嘗ての部下であり、ジョイが退役する時に一緒に軍を辞めてついて来た変わり者である。
いや、変わり者は彼だけではなく、当時の部下だった百名ほどが共に辞表を叩きつけたのだから、嬉しいと思う反面、大いに後悔もさせられたものだ。
彼らが軍を辞めたのは、自分を慕ってくれたからだと自惚れるつもりはない。
部下達の大多数が辞表を提出するに至ったのは、敬愛するガリュード・ランズベルグ大元帥が解任され、傲慢な貴族閥の専横に憤ったが故の結果だった。
そして何よりも彼らが命の恩人と慕ってやまない、白銀達也大元帥への断ち切り難い哀切の情が、部下達の心情を左右したのは間違いないだろう。
(白銀閣下。貴方が生きておられれば、今の我々を見て御笑いになられますか?)
只一度だけの邂逅の中、絶望的な戦局を見事な差配で勝利へ導いた若き司令官の顔が鮮やかに蘇る。
海賊に敗戦し艦隊司令官が逃亡するという危地に赴任して来た彼の雄姿は鮮明に思い出せるし、自身が処罰されるのも厭わず、不遜な前司令官を打擲して部下達を庇った清廉さには、今でも胸が熱くなる思いだ。
だが、それが原因で左遷されたのがケチの付き始めだったと、ジョイは臍を噛むしかなかった。
故郷である地球に赴任を命じられた白銀達也が、一年も経たぬうちに軍に対して造反を企て、当時の軍令部総長ゲルトハルト・エンペラドルと刺し違えて戦死したと聞かされた時は、流石にその荒唐無稽な内容に耳を疑ったものだ。
だが、時間の経過に伴い詳細が明らかになるにつれ、形を成した落胆に苛まれ、絶望と言う名の沼底へと身も心も沈めるしかなかったのである。
その日を境にして貴族閥の勢力は急速に拡大し、エンペラドルという政敵の死によりモナルキア派の躍進を阻める者はおらず、今や連邦評議会までもが彼の傀儡と化している。
軍内部でも貴族閥の専横は顕著であり、民主派士官に対する横暴が日に日に増していく中、ジョイはその不見識を正そうと上層部に対して意見具申を続けた。
だが、そんな努力も大勢に影響を与えるには至らず、澱んだ空気に嫌気がさした良識的な士官や下士官らの退役が相次いだのである。
ジョイ自身も所属していた方面軍で次第に居場所を失い、辞表を出さざるを得ない状況に追い込まれ、半年前に退役を余儀なくされたのだ。
以来、共に退役した部下達と母星に帰り、普通の労働者としての生活を始めた。
幸いにも軍人年金の恩恵は受けているし、新しい仕事での報酬も安定しており、生活に対する不安はない。
しかし、何かが物足りないのだ。
それが何であるかは明確だったが、今更それを口にしても虚しいだけ……。
それがジョイの偽らざる心境だったからこそ、この安酒場で毎夜蜷局を巻いて、苦い酒を呷っているのだ。
(白銀提督……どうして死んでしまったのですか。貴方ならば根腐れする軍を再生できると信じておりましたのに……)
この一年あまりの間に何度同じ文言を胸の中で紡いだだろう。
最近ではそれが呪詛の如くに思えてしまい、未練がましい自分に嫌気がさすのも屡々だった。
だから悪酔いする前に切り上げようと、グラスの底に残ったアルコールを一気に呷ったのだが、その空の容器をテーブルに置くタイミングで不意に声を掛けられた彼は、思わず胡散臭いものを見るかの様な視線を声の主へ向けたのである。
「失礼ながら。ジョイ・ミットライト殿と御見受け致しますが、間違いございませんかねぇ?」
その飄々とした物言いとは裏腹に、この酒場には不似合いな三つ揃えのスーツを着こなす紳士を見たジョイは、軽く鼻を鳴らして瞳に嫌悪感を滲ませた。
それは、銀河連邦軍に奉職した三十年間で得た経験が、この男の正体を悟らせたからに他ならない。
「俺は軍を辞めた人間だ。今更情報局に纏わり付かれる覚えはないぞ?」
「おや? 随分と勘が良いですねぇ……因みに、どの辺りで判断なされたのでしょうか?」
妙に馴れ馴れしい男の態度に鼻白んだが、ジョイは他に仲間がいないか周囲への警戒は怠らなかった。
既に深夜と言っても差し支えのない時間だからか、何時の間にか店内に客の姿は疎らになっており、カウンターに数人の男達が残っているだけだ。
他に仲間はいないと判断したジョイは、他人に話を聞かれる心配はないと確信しながらも、声を落として男の質問に答えた。
「強いて言えば雰囲気だとしか言いようがないな……所詮は軍人だ。表で殺す俺と裏で殺すあんた。違いはそれだけで同じ匂いがする……そんな所かな?」
「おやおや。これは奇遇ですねぇ。あの人と同じ事を仰るなんて驚きです」
愉快そうに嘯く男が同じテーブルの椅子に腰を下ろしたのを見たジョイは、鼻を鳴らして席を立とうとしたが、投げ掛けられた不愉快な台詞に表情を険しくする。
「実は、貴方と部下の方々をスカウトしに来たのですよ。如何です? 長年培ってきた技術を生かしてみる気はありませんかねぇ?」
「真っ平御免だ! 今更連邦軍に戻る気も、いけ好かない貴族連中の私設軍に入る気もない!」
提案された途端に貴族閥に対する憤懣やる方ない思いに胸を衝かれたジョイは、その申し出を一蹴した。
たとえ今の仕事にやり甲斐を見出せないとしても、貴族閥の専横の片棒を担ぐのだけは御免だと激昂した彼は、今度こそ席を立って男に背を向けたのだが……。
「これは失礼しました。説明が不足していたようです。就職先は彼の日雇い提督殿の会社なのですが?」
その台詞の中の言葉『日雇い提督』を無視できず足を止めたジョイは、気が付けば平然とした顔でグラスを傾ける男に詰め寄り語気を荒げていた。
「貴様どういうつもりだ!? 白銀提督は一年以上も前に死んだんだぞ!?」
その険しい表情に微かな期待が滲んでいるのを看破した男は、口角を吊り上げて然も面白そうに問い返す。
「ふふっ……貴方はあの御方が、エンペラドル如きの謀略で死んだ等と本気で信じているのですか?」
「…………」
そう問われても半信半疑のジョイは、答えを返せずに男を睨むしかない。
だが、その表情には先程までの怒りはなく、スカウトの成功を男は確信した。
「生きていますよ。そして牙を研いで機会を窺っています……こう言えば経験豊富な貴方ならば察しがつくでしょう?」
男の謎掛けにジョイは今度こそ頷き、肯定の言葉を返す。
「連邦軍に喧嘩を売るという事か! その為に経験者が欲しいのだな?」
「御明察感謝致します……つきましては人材は多い方が良いのですが、無理をして情報が漏れては台無しです。当分は身を潜める必要がありますのでね。秘密厳守でお願いします……これは貴方だけではなく、他の方々も同様ですよ?」
それは至極尤もな言い分でありジョイも肝に命じはしたが、何よりも白銀達也が生きているという話に気分は高揚するばかりだった。
「分かっている。提督に恥を掻かせる訳にはいかん。それで人員の目途がついたらどうしたらいいんだ?」
ジョイが声を潜めて問うと、男は懐から封筒を取り出す。
「人数は何人でも構いませんし、秘密さえ守れるのならば家族もOKです。生活の心配はありませんが、一旦決断したら帰りの船は用意できませんよ……それだけは御承知おきください」
「それは覚悟の上だ。条件を了承した仲間だけを連れて馳せ参じるつもりだ」
「結構……ならば準備が出来次第、首都商業区三番街にある、ロックモンド運輸の事務所を訪ねてこの書類を見せなさい。あとはそこの人間が全ての段取りを整えてくれる筈です」
「分かった……感謝する!」
そう短く礼を告げるやジョイは今度こそ席を立ち、二度と振り返らずに店を出て行った。
そんな彼の背中を見送りながら男……クラウス・リューグナーは唇の端を僅かに歪めてグラスに残った液体を飲み干す。
「人徳ですかねぇ……提督の名を聞いた者は誰もかれもが熱に浮かされたかの様に見境をなくしてしまう。喜ぶべきか、悲しむべきか……やはり貴方は大ペテン師ですよ。白銀提督」
そう楽しげに嘯いたクラウスは席を立ち、店主に釣りは要らないと断って金貨を渡すや、店を出て闇にその姿を紛れさせる。
次なる彼の目的地は比較的近しい星系の太陽系であり、地球を最後にセレーネに帰還するつもりでいた。
(やれやれ。それにしても人使いが荒いですねぇ。エリザに何かみやげでも買って帰らなければ、今度こそ離婚の危機でしょうか?)
憂慮すべき未来予想図を思い浮かべて溜息を吐くクラウスだったが、セレーネで驚愕の案件が持ち上がっているとは、終ぞ考えもしなかったのである。




