第五十二話 埋火(うずみび) ③
「許嫁など……十番目の皇子を伴侶に望むような物好きはいませんよ」
サクヤからの問いに辛うじてそう答えたものの、得体の知れない苦味が口の中に滲むのを覚えたセリスは、知らず知らずのうちに眉根を寄せてしまう。
彼女の表情に邪気はなく、純粋な興味からの問いなのは容易に察せられた。
事実、サクヤの顔には返答に対する驚きはなく、どこか楽しげであるかの様にも見えてしまい、それが彼の心に仄暗い影を落とす。
罪悪感から解放され、何時もの心安い関係に戻れたのを嬉しく思った彼女が燥ぐ気持ちは分かるし、それはセリス自身も同じだった。
サクヤが笑顔でいてくれるのならば、それだけでいい……。
そう思っていた筈なのに……。
自分という存在が、彼女の中では異性と認識されていない……。
サクヤからの問い掛けは、セリスにそう認識させるに充分なものだった。
そして、彼の心情の変遷に気付かない姫君は、迂闊にも余計な一言をその口から零してしまったのだ。
「ならば軍や行政部の中にでも、何方か好いた御方はいないのですか? あなたが達也兄さまを目標にして励んでいるのは皆も承知していますし、好意的に受け止めている女性も多いのですよ?」
そう言われた瞬間、やや強い風に頬を撫でられたセリスは、ほんの僅かだが身体を震わせていた。
それは冬の冷たい夜気の所為ではなく、サクヤの本音を改めて認識して胸が軋んだからに他ならない。
恐らく自分は彼女の中では、所詮出来の悪い弟でしかないのだろう……。
今までの接し方を見れば、それも当然だとセリスは割り切っていた。
だが、しかし……。
(意中の想い人の有無を確かめた上で他の女性との恋愛を勧めるのは……)
自分でも驚くほどの落胆を覚えたセリスは、そんな己に困惑するしかない。
秘かな恋心を懐いてはいても、それが叶うとは露ほども思ってはいないし、今は色恋沙汰に現を抜かしている場合でないのは充分に理解していた。
だからこそ、彼女が幸せになれるのならば、それだけで良いと自分の想いを封印したのに、当のサクヤから面と向かって、『好きな女性はいないのか?』と笑顔で問われたのだ。
それが、これ程の痛みを齎すとは、終ぞ思いもしなかったのである。
然も、サクヤの台詞には達也への変わらぬ愛情と信頼が滲んでおり、やる瀬ない苛立ちを感じずにはいられなかった。
婚約が解消された今でも、サクヤの心が誰の元にあるのかは明白だ。
今後彼と縁を戻せるとは思っていないだろうが、だからといって誰か別の伴侶を得ようとも思ってはいない……その想いが分かってしまうだけに、胸の中に拡がる苦く重い感情をセリスは持て余してしまう。
(自分がやっている事は、只の自己満足に過ぎないのではないだろうか?)
サクヤの心安い問い掛けにそんな思いが脳裏を掠め、気が付けばセリスは焦慮を露にして語気を荒げていた。
「そんな者は居ません。今の私には女性の事などを考えている暇はないのです! 以前も言いましたが、年上だからと賢しらな物言いは止めて頂きたい! 私が女性に興味があろうが無かろうが、貴女には関係ないではありませんか!」
言葉を重ねれば重ねる程に感情は昂り、醜い想いが淀みなく零れ落ちていく。
そしてサクヤの表情が驚きから戸惑いへと変化し、その中に明らかな憤りを見て取ったセリスは、自分の身勝手な想いが彼女を傷つけるのだと憂悶した。
一方のサクヤにしてみれば、何が原因でセリスの態度が急変したのか分からずに困惑するしかなかったが、険しい表情で言い放たれた『貴女には関係ない』という言葉が酷く癇に障り、眉根を寄せて不快感を露にする。
先ほどまでの悔恨の情も和解した事で霧散しており、軽口を交わし合う何時もの関係が許されるのだと油断していたが故に感情の儘に反論していた。
それが、決定的にセリスを追い詰めてしまうとも知らずに。
「まあっ! そんな言い方はないでしょう!? 別に年上ぶって説教をしている訳ではありませんわ。出自や家柄という柵がない世界にいるのですから、折角の縁を無下にするのは勿体ないと言っているのです!」
「それが余計な御世話だと言うのです! 第一、貴女に私の伴侶の心配をして頂く謂れはないでしょう!?」
「そっ、それはそうですが、それを言うならば、あなただって私が行き遅れる云々と余計な心配をして揶揄ったじゃありませんか!?」
「それは事実でしょうッ!? 男の私に結婚を急ぐ理由はありませんが、二十歳を過ぎた皇族女性が結婚相手を得るのは容易ではありません! 大国ランズベルグの姫君ともなれば尚更ではないかと言っているのです!」
「まあっ! 何て酷い……それこそ余計な御世話です! 私が誰と結婚しようが、あなたには関係ないでしょう! その上から目線の物言いこそ不愉快ですわ!」
売り言葉に買い言葉で口論はヒートアップしていく。
年若いだけに情のやり取りが未熟なふたりを責めるのは酷であろうし、只でさえセリスとサクヤが置かれている環境は過酷に過ぎた。
普段ならば何方かが折れて言い争いを終えるのが常なのに、それが出来ないのは何故なのか……。
しかし、そんな釈然としない想いに振り回されるふたりの諍いは、実に呆気なく終局へ至ったのである。
「本当に嫌な人! 同じ軍人でも達也兄さまとは雲泥の差です! 分かりました。これ以上余計な心配などしません。私はあなたを見損なっていたようです。不躾で驕慢な人など大っ嫌いです! その旨を他の女性にも忠告しておきましょう!」
腹立ち紛れにサクヤがそう言い放つや、セリスの顔が悲しげに歪んだ。
場の状況にそぐわないその反応に怪訝な顔をするサクヤだったが、いきなり両肩を掴まれて吃驚し、何をするのかと非難しようとした瞬間だった。
強引に距離を詰めて来たセリスの唇によって自分のそれを奪われた彼女は、大きく双眸を見開いて四肢を硬直させるしかない。
しかし、それはほんの一瞬の出来事であり、深夜の静寂に響いた乾いた音によって終わりを告げたのである。
振り抜いた右手がセリスの頬を打つや唇はあっけなく解放されたが、混乱しながらも数歩後退ったサクヤは、怒りを滲ませた険しい視線で慮外者を睨みつけた。
だが、その視線の先に立ち尽くす少年の顔は哀切の情に彩られており、その事を察したサクヤを大いに困惑させたのである。
そして、セリスは当惑する彼女へ酷く冷めた声で告げるのだった。
「御心配なく……私が愛しているのは貴女だけです。他の女性にこんな不埒な真似をする気はありませんよ」
そう言い残したセリスは踵を返して足早に館へと駆け込んでいく。
そして、残されたサクヤは呆然とした儘、淡いニーニャの光を受けて立ち尽くすしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
サクヤの話を聞き終えたクレアは、思わず零れそうになる溜息を呑み込むしかなかった。
(口喧嘩の末に告白なんてねぇ……セリス君が置かれている状況を考えれば理解できなくはないけれど……少々強引すぎたわね)
目の前で身を小さくして啜り泣いているサクヤの心情を慮れば、セリスの行為は確かに暴挙だと断ぜざるを得ないし、許される事ではないだろう。
しかし、日頃の彼のサクヤへの接し方を見ていたクレアは、彼が胸に秘めていた想いに朧気ながら気付いており、譬え、それが一方的な片想いであったとしても、決して無意味ではないと考えていた。
だからこそ、敢えて口出しせずに見守ってきたのだが、まさか激情に任せて口論した挙句に実力行使に及ぶとは……。
セリスの想いの強さを見誤った自分のミスだとクレアは臍を噛むしかなかった。
だが、起きてしまった事を今更とやかく言っても仕方がないだろう。
(セリス君には後で説教するとして……サクヤさんの方が問題よねぇ……)
サクヤの心が未だに達也に向けられているのをクレアは承知していたが、彼女の恋が破れた原因である己が何かを言うのは烏滸がましいと思い、嘴を差し挿むような真似は控えていた。
しかし、日頃の輝きは見る影もなく、悄然として泣き伏す彼女を放っておけないクレアは、慎重に言葉を選びながらサクヤを諭した。
「不意打ちだったのでは驚いたわよね……勿論、セリス君の行為は許されるものではないけれど、憎まないであげてね」
自他ともに認める平民のクレアに皇族であるサクヤの心情を慮るのは難しいが、相手を嫌悪する程に憎むのは違うと思い、そう慰めの言葉を掛けたのだ。
しかし、サクヤはイヤイヤと左右に頭を振るや、意外な言葉を口にしてクレアを驚かせた。
「に、憎んだりはしません……でも、でも……分からないのです……」
「分からない? それはセリス君の気持ちが? 彼が『愛している』と言った言葉が偽りだと?」
その掠れた途切れ途切れの言葉に戸惑いながらもクレアは問い返すが、サクヤは再び頭を振って否定するや、後悔を滲ませた声音を漏らす。
「違います……分からないのは、私自身の気持ちです……唇を奪われたのに嫌じゃなかった……あんな無礼な仕打ちを受けたのに……」
その言葉に唖然とするクレアだったが、意外過ぎる真相に今度こそ小さな溜息を零してしまった。
(ふたりとも一緒に暮らすうちに、互いに好意を懐くようになっていたのね。自分の気持ちに気付いて秘したセリス君と、気付かない儘に魅かれていたサクヤさん。今回の件が良い切っ掛けになれば良いのだけれど……)
そんな期待を懐いたクレアはサクヤの隣に移動するや、彼女に優しく寄り添って抱き締めてやる。
そして、驚いて顔を上げた彼女の耳元で囁いたのだ。
「貴女の胸に芽生えた、そのよく分からない気持ちを大切にして欲しいわ……目を背けずにちゃんと向き合って頂戴。そうすればきっと良い結果が得られる筈よ」
「クレアお姉さまぁ~~~」
サクヤにクレアの真意は分からないだろう。
しかし、今の混乱した無様な自分に味方がいるという事実が、彼女を混沌の淵から救い上げる力になったのは間違いない。
自分の胸に顔を埋めて泣き伏すサクヤを抱き締めたクレアは、労るかの様にその震える背中を撫でるのだった。
幾ばくかの時が流れた頃、サクヤが落ち着きを取り戻すのを待っていたかの様に入り口のドアがノックされる。
クレアが誰何すると、入室して来たメイドが一礼して用件を伝えた。
「奥様。旦那様から御連絡が入りました。『サクヤ様を同行して、至急軍務局まで来るように』と言付かっております」
クレアは頷いてからメイドに礼を言い、晴れやかな笑みを浮かべて立ち上がる。
この時にサクヤを伴って来いというのは、セリス絡みで何か進展があったのだと看破したクレアは、夫の手腕と事態の打開に大いに期待したのだ。
だから、不安げな顔をするサクヤを急かして身支度を整えるや、そのまま屋敷を後にしたのである。




