第五十一話 殿下たちの憂鬱 ⑦
河川敷の土手を一気に駆け下りたケインは、遠目から見ても狼狽していると分かる弟の元へ大股で歩を進める。
軽武装を纏った衛士達が慌てて付き従うが、頭に血が上っている皇太子殿下は、足を速めて先頭を譲ろうとはしない。
瞬く間にふたりの距離が詰まるや、弟の青褪めた表情までも視界に捉えたケインは、皇王家の男子にあるまじき醜態を晒すマーカスを一喝した。
「なぜ勝手に屋敷を抜けだしたりしたのだッ! おまえは私の命が聞けぬと言うのか!? 事と次第によっては、我が弟といえども許してはおかぬぞ!」
叱責されて恐懼したのか、顔を青褪めさせて目を逸らした弟を見たケインは、幾分か溜飲を下げて鼻を鳴らす。
それと同時に憤怒の情も薄れて周囲を窺う余裕が生まれれば、立ち尽くしている弟の背後に立つ、幼さを感じさせる面立ちをした人物の存在に気付いた。
此方の素性は承知している筈だが、その表情には臆した様子は微塵も見られず、寧ろ、その堂々とした佇まいからは凛とした風格さえ感じられる。
その正体を計り兼ねて困惑するケインだったが、手向かうようならば衛士に命じて捕縛すればよい、と割り切って残りの距離を一気に詰めた。
一方のマーカスは嚇怒する兄を恐れてはいたが、同時にその一方的な物言いには忸怩たる想いを懐かずにはおれず、胸の中に拡がる憤懣を持て余してしまう。
(どうして一方的に叱責されなければならないんだろう? 今回の件を納得していないのはケイン兄様だけだ。怒鳴ったり、家族や物に当たり散らしたり……おまけに外出を差し止めたのも兄様じゃないか!?)
考えれば考えるほど、仄暗い感情が胸の中に蟠っていく。
大人でも持て余す厄介な代物を御すのは幼いマーカスには難しく、だからこそ、溜まりに溜まった鬱屈した想いが口を衝いて飛び出すのを止められなかった。
「許可も得ずに勝手な真似をしたのは謝罪いたします! でも! 私は我慢できなかったのです! ケイン兄様が御怒りを解かないから、他の兄様や姉様達までもが八つ当たりを恐れて顔を見せません! いったい何時まで、こんな惨めで息苦しい思いをしなければならないのですかッ!?」
「なっ!? マ、マーカスッ!?」
末の弟が初めて見せた葛藤と怒りに、ケインは一瞬だがたじろいでしまう。
常日頃から物分かりが良く従順だった弟が見せた反抗的な態度に驚きを禁じ得なかったが、再度覚醒した怒りに煽られて思わず語気を荒げていた。
「八つ当たりとは何事かッ! 世の理など何も分かりもせぬ童の分際で、賢しらな物言いをするなッ!!」
己が吐いた言葉で感情の炎を煽られたケインは、その怒りの捌け口を求めて右手を振り上げてしまう。
その視線は恐怖に顔を強張らせるマーカスを見据えており、その只ならぬ様子を危惧したセリスが二人の間に割って入ろうとした瞬間だった。
「やめてぇ──ッ! マークをぶったら絶対に許さないからぁッ!」
甲高い少女の絶叫。
だが、その言葉に含まれているのは明確な憤りであり、それが一切の遠慮も忖度もなく大国の皇太子を打ち据えたのだ。
「なっ!?」
想定外の事態に見舞われて身体を強張らせたケインは、振り上げた拳を持て余してしまう。
見れば何時の間に集まって来たのか、グラウンドに居た全ての子供達がマーカスの背後に群がっており、彼らの瞳に宿る嫌悪の情に射竦められたケインは当惑せざるを得なかった。
皇国の次期皇王位を約束され、清廉潔白、眉目秀麗、質実剛健、才気煥発などなど、貴族や家臣は元より、皇国の民からも敬愛の念を一身に受けるのが当たり前だった彼にとって、譬え相手が年端もいかぬ子供とはいえ、鋭利でネガティブな感情をぶつけられたのは初めての経験だ。
すると、子供達の先頭に居た少女が大股でマーカスに歩み寄るや、彼を庇うかの様に前に出てケインを詰った。
「マークは悪くないよッ! さくらが御屋敷から連れ出したんだもんッ! だって寂しそうだったから……皆と遊べば元気になると思ったさくらが勝手な事をしたのッ! だから、マークを叱らないでッ!」
小気味好い啖呵を叩きつけてケインを睨むさくらだったが、それは自分が騒動の元凶だと白状したも同然であり、衛士達は表情を険しくして少女を睨む。
主である皇太子に暴言を吐き散らして侮辱した罪は、子供だからといって許されるものではない。
如何なる裁可が下されるにせよ、無法を見逃してはおけない彼らが前に出たのは、衛士としては当然の反応だった。
しかし……。
「待てっ! 手出しはならぬ。その場に控えていてくれ」
何とケインが片腕を上げて、さくらを捕縛しようとする衛士達を制したのだ。
主の命とあれば従わざるを得ず、彼らは再び元の位置に戻る。
この時点でケインは完全に冷静さを取り戻したのだが、それはこの少女の名前が記憶の片隅に残っていたからに他ならない。
(さくら……屋敷で達也が口にしていた名前だ。この子が神将の娘か……顔は似ても似つかないが、怒りを宿した瞳の苛烈さは、やはり彼を彷彿させるな)
結婚した奥方の連れ子だと聞いた覚えはあるが、マーカスと歳の変わらぬ少女が敢然と己の意志を露にした姿に、ケインは興味を引かれたのだ。
「なるほど。確かに君の言い分が正しいのならば、マーカスに非はないのだろう。しかし、弟はランズベルグ皇国の第四皇子だ。辛いからといって兄である私の命を違えて良い訳があるまい? 何よりも立場が違い過ぎる……マーカスは、君達とは別の世界の人間なのだ」
そう言ったものの、幼い子供が理解するには難しいかと思い、噛み砕いて説明しようとしたケインだったが、間髪入れずに返された疾呼に驚かされてしまった。
「そんなの関係ないよッ! この星は皆で力を合わせて仲良く生きて行く場所だもん! 立場とか難しい事は分からない。でもマークは友達だからッ! さくら達の大切な友達なんだから! いじめちゃダメなの!」
精一杯の声を張り上げる少女と意を同じくする子供達は、剣呑な雰囲気を纏って前に出るや、呆然と立ち尽くすしかないマーカスを庇うかのように人垣を作る。
彼らからは『断じて友達は渡さない』という子供らしい、純粋で強い意志が窺い知れて、ケインや衛士達は思わず唸らざるを得なかった。
大人と子供の力の差は歴然であり、ましてや衛士らは日頃から厳しい訓練を積んでいる為、普通の大人よりも格段に体格に優れている。
子供達からすれば、いかつい彼らが小山の様に見えてもおかしくはない筈だ。
にも拘らず、友達を護る為に敵の前に立ちはだかるその勇気に、ケインらは感嘆したのである。
一方、さくらたちの行動に胸を熱くするマーカスは、その不可思議な感情を持て余しながらも、それが歓喜の情に他ならないと気付いていた。
僅かばかりの時間を共に過ごしただけなのに、そんな自分を友達だと言ってくれた彼らの気持ちが無性に嬉しくて堪らなかったのだ。
しかし、流石のケインも、この予想外の展開には困惑せざるを得ず、説得を続けるか強硬策に打って出るか迷ってしまった。
すると、それまで黙って成り行きを見守っていたセリスが前に出るや、穏やかな声音で子供達を労ったのである。
「皆良く頑張ったね。でも、此処からは僕がお話をするから、ケイン殿下の御相手は任せて貰えないかな?」
逡巡するさくらや子供たちは顔を見合わせたが、渋々ながらもセリスの申し出を受け入れて後方へ下がる。
こうしてランズベルグ皇国皇太子とグランローデン帝国第十皇子は、指呼の距離で向かい合うのだった。
◇◆◇◆◇
二人の皇子が対峙したのと同時に河川敷のグラウンドを見下ろせる土手へと到着した達也とサクヤは、目にした光景に異なった想いを懐いた。
実兄の相手をしているのがセリスだと知ったサクヤは狼狽を露にしたが、そんな彼女とは裏腹に達也は安堵の吐息を漏らす。
それは、セリスがその背にマーカスを庇っているのと、ケインから剣呑な雰囲気が消え去っているのに気付いたからに他ならない。
だが、ケインに対して大いに憤慨しているサクヤには、そんな余裕はなかった。
自身の傲慢な物言いの所為でセリスを傷つけてしまい、その罪悪感に苛まれている彼女にすれば、怒りに我を忘れている実兄の暴言が、更に彼を傷つけるのではないかと気が気ではないのだ。
だから、ふたりの衝突を止めようとして、矢も楯もたまらずに駆け出そうとしたのだが……。
「なっ! 何をするのですか!? 放して下さいッ!」
達也に右手を掴まれ引き留められたサクヤは、逸る気持ちに焦れて声を荒げてしまうが、達也は穏やかな声で、そんな彼女を諫めた。
「この場はセリスに任せてみよう。最近の彼の成長ぶりには目覚ましいものがあるからね……それは君だって分かっているだろう?」
「そっ、それは……ですが! 分別をなくした今のケイン兄様では……これ以上、セリスが傷つくような事になったら……私は……」
不安で仕方がないのだろう。
愁色を濃くして臍を噛むサクヤに、達也は小さく首を振って言葉を重ねた。
「大丈夫……心配しなくていい。ケイン様からも怒りの波動は感じない。マーカス殿下の後ろに子供達が控えている限り、決して感情を優先させる様な真似はなさらないよ。どんな時でも臣民を惨くは扱わない……その程度の分別は弁えておられる御方だからね」
そう諭されたサクヤも漸く冷静さを取り戻したが、それでも完全には不安を払拭できず、切ない想いを滲ませた視線を眼下で対峙する二人に向け、その場に佇むしかなかったのである。




