第五十一話 殿下たちの憂鬱 ③
「その様に一方的に責めては、兄君が御可哀そうだよ」
困惑気味の顔をするセリスからそう窘められたサクヤは、眉根を寄せて不快感を露にする。
「なっ!? 事情を知りもしないのに、見当外れな事を言わないで下さい!」
故国を追われて亡命に等しい境遇にあるとはいえ、セリスが歴とした帝国皇子である事に変わりはない。
そんな彼に対し不遜な物言いをしているとの自覚はあるのだが、兄への苛立ちを抑えられないサクヤは、口を衝いて出る言葉を止められなかった。
「兄は次期皇王として、皇国と国民の安寧に尽くさなければならない身ですっ! それなのに浅ましいプライドに固執し、あまつさえ、駄々っ子の如き醜態を晒して恥じ入りもしないッ! 然も、母上や大伯母上ばかりか、弟妹にまで当たり散らすなど言語道断です。ケイン兄様には心底失望しましたッ!」
「サクヤ! それは言い過ぎだ」
「そうよ。セリスくんの言う通り……御兄様のお気持ちも察してあげないと……」
見兼ねた達也とクレアからも窘められたサクヤは漸く口を噤んだが、如何にも『私は納得していません』といった表情のまま顔を背けてしまう。
白銀夫妻は顔を見合わせて苦笑いするだけだったが、真剣な眼差しで姫君を見つめるセリスは、敢えて諫言を止めなかった。
「今生陛下をはじめ皇族の皆様方の御決断は、まさしく尊いものだと思います……ですが、ケイン皇太子殿下の御気持ちを鑑みれば、一方的に責めるのは酷ですよ。敬愛し目標としている父皇陛下から庇われるばかりの御自分が歯痒くて情けない。今の殿下の憤りは、御自身に対する御腹立ちの裏返しなのではありませんか?」
それは極めて正論だったし、確かにサクヤの心に届いたのだが、同居人としての気安さと年上である自負に折り合いがつけられない彼女は、つい何時もと変わらぬ調子で皮肉を込めた軽口を返していた。
「御立派な意見ですこと……貴方も御父上様の御厚情で生き延びられたのですものね……兄を擁護してくださるのは有難いですが、これは我がランズベルグ皇王家の問題です! 他家の事情に嘴を挟む暇があるのならば、御自分の御家族の心配をなされたら……」
「サクヤッ!!」
間近から発せられた達也の怒声に打ち据えられたサクヤは、反射的に残りの言葉を呑み込んだが、それで許される失態でないのは明らかだ。
感情に任せて吐き出した言葉が如何に配慮を欠いたものだったか、聡明な彼女は己の無知蒙昧さに恥じ入るしかなかった。
(わ、私は……なにを口走ってしまったの……彼にはもう……)
セリスにとって肉親と呼べる近しい存在は、この世にたった一人しか残されてはいない。
今は新皇帝を名乗る長兄リオンがそれであり、己の覇道を成就させる為に、父王以下全ての家族を粛清した張本人に他ならないのだ。
言わば実兄であるリオン新皇帝こそが、セリスにとっては倒さなければならない敵なのである。
そんな理不尽な現実を背負っている彼に対し、たとえ軽口の類だったとしても、言ってはならぬ事を口にしたのだ。
自分の過ちに気付いたサクヤは悲痛に表情を歪め、激しい後悔の念を懐かずにはいられなかった。
血相を変えた達也から怒鳴られたのも当然であり、自責の念に苛まれて身の置き所もないほどの羞恥に震える彼女は、セリスから浴びせられるであろう非難を甘んじて受けるべく、その身を固くしたのである。
しかし、返って来た言葉には悪感情の類は微塵も含まれてはいなかった。
「余計な御世話だとは重々承知していますが、肉親が誰一人として喪われずに再会できたのですから、まずは、その幸運を喜ぶべきではありませんか?」
何時もと変わらない穏やかな声音。
それは、軍人として己を律する術を知るが故の美徳でもあるのだろうが、サクヤを慮っての気遣いが多分に含まれているのも明らかだった。
「今は混乱されていても、冷静さを取り戻されれば、必ずご理解なされる筈です。ケイン皇太子殿下は聡明な御方と聞いております。心配はいりませんよ」
そう言って微笑むセリスに何も言葉を返せないでいるサクヤは、沈痛な面持ちで唇を噛み俯くしかない。
(いっそ口汚く罵ってくれた方が、ずっと気が楽なのに……)
自分の無礼な行為を責めようとはしないセリスに、ほんの少しだけ恨みがましい想いを懐くサクヤだった。
◇◆◇◆◇
その夜サクヤは床に就いたものの眼が冴えて眠れず、ベッドの上で何度も寝返りをうっていた。
(嫌な女だと思われたでしょうね……でも、それも仕方がないわ……)
説教じみた台詞を返されて我を見失ったとはいえ、天涯孤独に等しいセリスへ、『自分の家族の心配をしろ』と詰った己の無神経さが悔やまれてならない。
だが、同時に考えさせられてしまうのだ……。
それは、最近胸の中に蟠っている疑問であり、明確な答えを得られない厄介な代物でもある。
(彼が相手だと、なぜ私は意地を張ってしまうのだろう……)
物心がつく頃から必要な教養やマナーを教育されてきたし、アナスタシアの薫陶にも助けられて、皇国皇女としての立ち居振舞は完璧だと褒めそやされてきた。
また、気疲れしか得るものが無い婚約者候補達との交流も、その取り繕った笑顔の下に不快感を隠して無難にやり過ごしてきたし、誰にも本心を悟らせなかったという自負もある。
それなのに相手がセリスだと、どうにも勝手が違うのだ。
(同じ屋根の下で同居しているからかもしれないけれど、距離感が曖昧で……然も私の方が年上だから、つい弟達に接している様なつもりで……)
何度目かの寝返りをうちながら、サクヤは益々思考に没頭していく。
だが、思い出されるのは些細な事で口論になったセリスとのやり取りばかりで、己の幼稚さを再確認させられた気がして、如何にも恥ずかしくて仕方がなかった。
(弟と思っていたのは私の思い上がりに過ぎなかったのかもしれない……少なくとも今日の私はどうかしていたわ……)
ケインの分別の無さに苛立っていたとはいえ、他者にその憤懣やるかたない思いをぶつけて良い筈がないのだ。
それを分かっていながらも、醜悪な感情をコントロールできなかったのだから、弁解の余地は欠片ほどもないと認めざるを得なかった。
(でも……だったら何故、いつもと同じ様に振舞えないのだろう……彼の前で子供じみた真似をしてしまうのは一体……)
東の空が白み始めるまで堂々巡りを繰り返した自問自答だが、納得できる答えは終ぞ得られなかったのである。
◇◆◇◆◇
先月末七歳の誕生日を迎えたばかりのマーカス・ランズベルグは、幼いながらも才気溢れる麒麟児との評判が高く、その将来を嘱望されている皇国第四皇子だ。
現皇王レイモンドは正妃であるソフィア以外にも五人の側妃(愛妾)らを娶っており、それらの妻達の間に十人の子を儲けている。
ソフィア皇后の寛仁で謙虚な性格が幸いしてか、妃同士の仲も円満だし子供らの仲も頗る良い。
弟妹達がケイン皇太子とサクヤ第一皇女に懐く敬愛の情は一方ならぬものがあり、それは彼らが皇后の実子であるというだけではなく、その人柄に傾倒している部分が大きいと言えるだろう。
それはマーカスも同じであり、『いつか皇族の一員として大成し、ケイン兄上の御力になりたい』と思い定め、日々の研鑽の糧にしている。
しかし、あの『新嘗の大祭』の最中に起こった亡命劇以降、皇王家の全てが一変し、不安と失意の中で息を顰める生活を余儀なくされてしまった。
あの騒動が父皇と大人達合意の上での御芝居であったと、ソフィア皇后から打ち明けられたのにも驚かされたが、それ以上に彼ら兄弟(姉妹)らを震撼させたのは、他ならない長兄ケインの変貌ぶりだった。
鷹揚で何時も微笑みを絶やさずに自分達を慈しんでくれた長兄。
そのケインが憤怒に歪んだ顔で、実の母である皇后や大伯母にあたるアナスタシアを罵倒し、喰って掛かる様を目の当たりにしたのだから、その衝撃は計り知れないものがあった。
また、長兄の憤懣は弟妹達にも向けられ、仮宮となった邸宅の雰囲気は悪くなる一方で、先が見えない現状に誰もが不安を隠せないでいる。
自室に閉じ籠った他の兄弟達は、災禍が通り過ぎるのをひたすら待っているが、マーカスはそんな陰鬱な状況には耐えられず、かと言って外出は固く禁じられており、この二日間というもの庭園の奥まった空間を占拠しては、日がな一日ドームの遥か上空に拡がる蒼天を眺めて過ごしていた。
今日も早朝から白銀達也とサクヤが訪ねて来ているが、ふたりの説得は功を奏さず、相も変らぬ長兄の怒鳴り声だけが屋敷を震わせている。
死んだと聞かされていたサクヤが、実は生きていたのだと知ったのが唯一の朗報であり、マーカスも再会を果たして歓喜したのだが、今回の謀を主導したという白銀達也には複雑な感情を懐かざるを得なかった。
(兄さまや姉さま達は頼りにしている素振りだけれど……)
まだ幼い彼は達也との付き合いは浅く、他の兄姉の様に無条件で慕う気にはなれない。
英雄の誉れ高いガリュード大伯父が認める優秀な軍人で、サクヤが恋心を寄せている男性……という程度の知識しかないマーカスは、強面と揶揄される彼の面相が苦手でもあり、積極的に関わろうという気にはなれないでいた。
(でも、そんな事はどうでもいい……早くケイン兄様が昔の優しい兄様に戻ってくれたら……それだけで僕は……)
しかし、そんなマーカスのささやかな願いを踏み躙るかの如き罵声が、少し離れた屋敷の二階から聞こえたのである。
「言い訳など聞きたくはないッ! 直ぐに私をランズベルグに戻せッ!!」
昨日よりも剣呑さを増したその怒声に戦いたマーカスは、思わず両耳を塞いでしまう。
何も聞きたくない……。
そう念じた時だった。
「あれぇ? こんな寒い場所に寝っ転がって何をしているの?」
兄の怒声とは違う朗らかで澄んだ声音が頭上から降り注ぎ、吃驚したマーカスは閉じていた両の眼を見開いたのである。




