第五十話 悲劇のその裏で ③
「へ、陛下っ!?……あっ、あぁぁ……ご、御快癒なされたのですね?」
シャリテ・サジテール元近衛少将は恐懼感嘆し、現在自分が置かれている状況すら失念して声を震わせた。
(あぁっ、よかった……これで心おきなく、ソフィア皇后陛下とケイン皇太子殿下の御傍へ逝ける……)
唯一の憂いが晴れたシャリテは、胸を衝く歓喜に両の瞳から涙を零す。
謹厳実直で知られている彼女が取り乱す姿などレイモンドですら初見であるが故に、彼を含めて円卓に座す三人は、どうにも居心地が悪くて仕方がなかった。
然も、シャリテが両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちて咽び泣く姿を目の当たりにすれば、嫌でも罪悪感に苛まれてしまう。
レイモンドは当惑して父と伯父に視線を投げるが、ふたりとも顔を逸らして目を合わせようとはしない。
暗に『おまえが説得しろ』と言われたも同然で、現皇王は心の中でそっと溜息を吐くしかなかった。
近衛武官として皇后と皇太子に仕えて来たシャリテが、今回の事件でどれほどの絶望と悲嘆を味わったかは容易に想像できる。
十六歳で近衛軍士官に任官して以来、一途な忠義を奉げて職責を全うしてきたのだから、皇王家の人々からの信頼は厚く、軍人としての高い素養も相俟って彼女は確固たる地位を築いてきた。
そんな彼女と皇族の、特にソフィア皇后との深い繋がりを示すエピソードとして広く知られている有名な逸話がある。
シャリテが二十歳の折に、不幸にも彼女の両親が事故で他界したのだが、なんと当時は皇太子妃だったソフィアが皇王代理として弔問の使者を務め、周囲を大いに驚かせたのだ。
勿論、皇国の高位貴族からは挙って反対されたが、玉座の前に居並ぶ彼らを睥睨したソフィア皇太子妃は、冷然とした声で言い放ったのである。
『シャリテは私にとって実の妹のようなものです。大切な妹が悲しみに暮れているのに、姉が知らぬ顔をできましょうか?』
この話が巷に漏れ伝わるや、国民は諸手をあげてソフィアを、延いては皇王家の御方々を讃えたのだった。
当然の事ながら、シャリテの皇王家に対する忠節はこの時に極まったと言っても過言ではなく、今日に至るまで滅私奉公に徹してきたのである。
そんな信頼のおける彼女だからこそ、事前に今回の計略の全てを打ち明けるべきではないか……そうソフィアは強く進言していた。
しかし、近衛の中に貴族閥に通じている者がいないという確信が持てない以上、万が一を考えて秘した方が良いという達也の言を採らざるを得ず、レイモンド自身も断腸の思いで口を噤んだのである。
その結果、彼女は警護責任者としてその過失を厳しく追及されたばかりではなく、一時は極刑を以て償うべきとの軍上層部からの決定が下り、シャリテは一切の抗弁もせず、その命令を粛々と受け入れたのだ。
だがそれは、ルドルフによって棄却され、『今回の件はあくまでも不慮の事故であり、何人たりとも責任を負うに及ばず』という裁可によって、辛うじて罪を問われずに済んだという経緯があった。
しかし、責任感の強いシャリテは事後処理を済ませるや、軍籍を返上して近衛を退官し、皇宮を去る決断をしたのである。
そんな彼女が退任の挨拶を終えた後、如何なる未来を選ぶかは容易に想像でき、この場に居ない皇后の想いを鑑みれば、断固として阻止しなければならない。
そう誓うレイモンドだった。
「兎に角、そんな処に蹲っていては話もできぬ。其方もこちらに来て席に着くが良い」
敬愛する主君に促されたシャリテは立ち上がり、取り出したハンカチーフで双眸から頬の辺りを拭ったが、顔を伏せたまま再び片膝をついて臣下の礼を採る。
「臣には過分な御言葉を賜りましたが、この身は既に近衛を辞しておりますれば、平に御容赦下さいますように……本来ならば、陛下の御前に顔を出せる身ではありませぬが、御暇の御挨拶をいたしたく罷り越した次第であります」
生真面目なシャリテらしい物言いだが、その言葉の端々に強い自責の念が滲んでいるのは隠しようもない。
「長きに亘り陛下をはじめ御皇族の御方々に御厚情を賜りながら、その御恩の万分の一も御返しできなかった臣を御許しくださいませ」
一旦言葉を切ったシャリテは深々と頭を垂れ、心からの謝意と最後の想いを吐露する。
「陛下が無事に御快癒なされ、これで気掛かりはなくなりました。本日まで御傍に御仕えできて幸せでございました。いつまでも御壮健であらせられますよう御祈り申し上げます……それでは、これにて失礼致します」
想いを最後まで言葉にしたシャリテは、漸く心が軽くなった気がした。
これでソフィア皇后陛下の御下へと逝ける……。
逝って御詫び申し上げる事ができるのだ……。
そう思えば、いっそ嬉しくさえあった。
しかし、腰を折ったまま後退って退出しようとした彼女は、皇王の固い声で呼び止められてしまい、足を止めざるを得なかった。
「殉死は許さぬと父上が厳命した筈だ。当然私も許さぬぞ。サジテール」
それは、今回の忌まわしい事件が起きた早々、ルドルフ皇王代行が発した勅命に他ならない。
その高邁な慈悲により、殉死しようとした近衛武官らを思い留まらせたのだから、シャリテは寛大な処置に感謝したが、個人的には承服する気になれなかった。
だからこそ近衛を辞め、ただのシャリテ・サジテールとしてソフィア皇后の御許へ逝こうと決めたのである。
如何に皇王の命令とはいえ、今更その決意を変える気はなかった。
「思し召しは有難く……なれどこの身は既に臣ではございませぬ故に、どうか我儘を御許しくださいませ。泉下のソフィア様とケイン様……そして皇子皇女の皆様方に、御守りできなかった我が身の不甲斐なさを御詫びせねばならないのです……」
自分で言葉にしただけで、在りし日の皇王家の御方々の御姿が脳裏に蘇る。
シャリテは両の瞳から溢れようとする涙を懸命に堪えなければならなかった。
しかし、これ以上こんな無様な姿を晒してはおけないと思った刹那、皇王の言葉に打ち据えられた彼女は、大いに狼狽して取り乱したのである。
「その泉下とやらに赴いても、妃も皇太子も、ましてや子供らは誰一人もおらぬ。無駄足を踏むだけだから止めておくがよい」
その言葉の意味を計りかねたものの、それは皇族が生きていると言っている様にしか解釈できず、顔を上げたシャリテは思わず眼前の皇王らを睨んでしまった。
普段の彼女であれば断じて及ぶ筈もない不敬な行為であるが、事が事だけに今は儀礼に斟酌する余裕すら失い語気を荒げてしまう。
「そっ、それは如何なる意味でありましょうやッ! ま、まさか皇族の皆様方が、御生存あそばされておられるのですかッ!?」
鬼気迫る彼女の追及にタジタジになるレイモンドは、後ろめたい心持ちを隠せず、視線を泳がせて口籠るしかない。
だが、真実を語らない訳にもいかず、溜息を漏らしながら口を開くのだった。
両隣で素知らぬ顔をしている父親と伯父に、心の中で恨み言を呟きながら……。
◇◆◇◆◇
「なっ、なんと……そのような謀があったとは……」
レイモンドの口から今回の秘事の全てを聞かされたシャリテは、只々呆然として立ち尽くすしかなかった。
あの惨劇が全て芝居だったなどと聞かされても、俄かには信じられない。
しかし、レイモンド皇王自らが告白し、ルドルフ老公もガリュードも言を挟まず黙っている以上、それが真実なのだと納得せざるを得なかった。
だが、それは悲しみではなく、大いなる喜びに他ならないのだ。
ソフィア皇后やケイン皇太子、そして自分を慕ってくれた殿下達が生きていると知ったシャリテは、その場に崩れ落ちて今度こそ歓喜の涙を流すのだった。
そして漸く落ち着いた彼女は、今度こそ勧められる儘に席につくや、恨めしげな視線を眼前の尊き御方々に投げて一言。
「奸賊どもの動向が掴めなかったとはいえ……この私にまで計略を秘するとは……御恨み申し上げます……」
本気で憤っているのが分かるだけに、レイモンドの言葉にも力がない。
当然ながらルドルフもガリュードも、トバッチリを恐れて我関せずの姿勢を貫いている。
「そう申すでない。ソフィアは其方にだけは伝えるべきだと譲らなかったのだがな……最後は達也の説得に折れざるを得なかったのだ」
だが懸命に宥めようとしたこの一言が、彼女の怒りの矛先を変化させたのだから、正に怪我の功名と言う他はなかった。
「達也? 白銀達也ですか……あの慮外者めが。私を差しおいての不遜な行為の数々! 断じて己の分を思い知らさねばなりませぬっ! それでっ、ソフィア様は今何処におわすのですかッ!?」
顔馴染の男への怒りを滾らせるシャリテの問いを拒める筈もなく、レイモンドは妻や子らの居場所を白状するしかなかったのである。
※※※
この日より一週間後、正式な議会の承認を経て、筆頭公爵であるヴァンゲル・ ヘルツォークが新皇王に就任し、皇国に新しい皇王家が誕生した。
同時にレイモンドとルドルフは皇都を離れて僻地にある離宮で隠棲し、最愛の妻を喪ったガリュードも彼らの護衛名目で随行した為、皇都が寂しくなったと多くの国民が悲嘆に暮れたのである。
そして新皇王の誕生に貴族らが湧きたつ中、秘かにセーラを離れる船があったが、嘗て近衛武官だった者達がロックモンド船籍の貨物船に多数乗船していたとは、栄達に浮かれる新王以下、新政権の貴族らは誰も気づきもしなかった。
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