第四十一話 灰色狐は大いに嘆息す ②
「ま、まぁ……お互いに言いたいことはあると思うけどさぁ、こ、ここはひとつ、穏便にだねぇ……」
他人の思惑に忖度し、ぎこちない作り笑いを顔に張り付けて遜る……。
已むを得ない仕儀だとはいえ、こんな惨めな真似をする日がこようとは……。
自分が置かれている状況に切歯扼腕するヒルデガルドは、大いに慨嘆して胸の中で悪態をつくのだった。
(惨めだよぉ~~腹立たしいよぉ~~。し、しかし、この二人が仲違いするのを看過したとなれば……達也やクラウスは兎も角として、エリザベート婆が黙っている訳がないよん! 下手をすればボクは抹殺されてしまうかもだよぉッ!)
《暴虐の魔王》と自他共に認める彼女が唯一頭の上がらない相手……。
エリザベート女王の笑顔の下に潜む夜叉の一面を知るだけに、クレアとエリザの不仲が原因でファーレンとの友好関係に悪影響が及ぶような事態になれば……。
己の凄惨な末路が脳内劇場で絶賛上映されるのを幻視したヒルデガルドは、その恐怖に身震いする他はなかった。
現在彼女の目の前では、応接用テーブルを挟んだ格好でクレアとエリザが向かい合っており、ふたりは入れ替えたばかりの紅茶を楽しんでいる。
事象の表面だけを見れば確かにそう描写するしかないのだが、その穏やかな光景が、血で血を洗う壮絶なバトルを前にした、所謂『嵐の前の静けさ』ではないかとヒルデガルドには思えて仕方がないのだ。
(クレア君にしてみれば、エリザは憎い詐欺師の女房だし、反対にエリザから見れば、クレア君は旦那の子を生した泥棒猫に等しい女……子宝に恵まれないエリザには、その事実が何よりも辛い筈。二人とも表面上は平静を装っているけれど……)
勿論、ヒルデガルドなりに彼女らを心配してこの場に居残ったのだが、そこには幾つかの打算が介在しているのも確かだ。
その最たるものが、今回の精霊石の無償譲渡という手柄を盾にして、事ある毎に女王の座の禅譲を迫って来るエリザベートの要請を突っ撥ねるという思惑に他ならない。
(辛気臭い政務なんかやっていられないよん! あと二百年ぐらいは、自由気儘にさせて貰ってもバチは当たらないはずさぁッ!!)
実に身勝手な言い分ではあるが、自由をこよなく愛するヒルデガルドにとっては、まさに今が、今後の命運を分ける分岐点なのだ。
だから、どんな些細な失態も許されないと、己を鼓舞しているのである。
自分が不利になる様な材料を女王に与えない為にも、何としても目の前のふたりを和解させねばならない。
ヒルデガルドは改めて気合を入れ直し、善意の仲介者を装って慎重に説得を続けようとしたのだが……。
そんな彼女の図々しい思惑などお見通しのエリザは、見当外れの御節介をされない為にも軽く釘を刺した。
「殿下……そう御心配なさらずともいいのですよ? 私はクレアさんを責めたりはしませんし、彼女も怨み言を言う気はないと仰ったではありませんか?」
「うっ……そうは言ってもねぇ。本音と建て前は違うんじゃないかい?」
恐る恐るといった風情で顔色を窺ってくる女王候補の言い種に、エリザが呆れて溜息を零すと、柔らかい微笑みを浮かべるクレアも、その懸念を否定する。
「本音も建前もありません。私の夫の久藤悠也は不幸な事故で死んだのですわ……それだけが真実です。ですが、それとは別に、私はエリザ様に御詫びしなければなりません。貴女様のお気持ちも考えずに、不躾にも御主人様にさくらを引き合わせた事……嘸かし御不快であったと思います……誠に申し訳ありませんでした」
そして、謝罪の言葉と共にエリザに対して恭しく頭を下げた。
その真摯な態度に感じ入ったエリザは、口元を綻ばせて言葉を返す。
「そのようなお気遣いは無用ですわ。主人も強がってはいましたが、きっと嬉しく思った筈です……クラウスに成り代わって心から御礼申し上げます」
互いの胸の中を晒し合った二人は、相手の気持ちに嘘偽りがないのを瞬時に理解して微笑みあう。
そんな彼女達のやり取りを見たヒルデガルドは、自らの懸念が杞憂に終わったのを知って大いに破顔し歓声を上げるのだった。
「これにて一件落着だようぅッ! いやぁ~~良かった良かった! それにしてもクレア君。君は少々お人好しが過ぎないかい? 間違いなく流血沙汰になるとボクは楽しみにしていたんだがねぇ~?」
厄介事が無事に解決して重圧から解放されたからか、安堵感を露にしたヒルデガルドが軽口を叩く。
だが、揶揄う気満々のその失礼な物言いに苦笑いしながらも、小さく首を振ったクレアはその言葉を否定した。
「達也さんが話してくれたんです……さくらが五体満足で誕生できたのは、間違いなくあの人……いえ、クラウスさんのお蔭なのだ……と」
クラウスにしてみれば、他人に成りすまして擬装結婚をしたのは任務を完遂する為の詭弁に過ぎず、クレアに愛情を懐いていた訳ではない。
それでも、情を交わした相手に対し冷徹に徹するのも憚られ、最低限のフォローだけはしようとしたのだ。
不幸な事故に巻き込まれて『久藤悠也』は死んだ……。
そういう筋立てにすれば、暫くは悲しみに暮れてはいても、いずれは立ち直って人生をやり直してくれる……。
クレアはそんな強い女性だと彼なりに評価していたのである。
しかし、僅かな結婚生活で彼女が子供を宿してしまったのは、クラウスにとって想定外の事態に他ならず、冷静沈着を以て成る『グレイ・フォックス』を狼狽させるに充分な効果を発揮した。
本来ならば、長命種である自分と短命種のクレアの間に子は生せない筈であり、その長年の研究の定説が覆った事実は、ある不安を彼に懐かせたのだ。
『可哀そうだが、この子は無事に生まれては来ない』
神の気まぐれか悪魔の企みかは知らないが、本来ならば誕生しないはずの命が、何事もなく無事に生まれて来ると楽観的に考えていては情報員など務まらない。
だからこそ、夫と我が子の死という二重の悲劇からクレアを護るために、そして長い人生で初めて得た我が子のために、クラウスは薄氷を踏む思いで最善手を模索し、遂にはその目的を達成したのである。
「達也さんは『自分の憶測に過ぎない』と断った上で話してくれたのですが、私は妙に納得してしまって……ならば、さくらが無事に生まれてくれた……それだけで充分だと思ってしまったのです。それに……」
清々しい微笑みを浮かべてそう言ったクレアが急に言葉を濁す。
本気の恋愛経験がないヒルデガルドにはピンと来なかったようだが、彼女が飲み込んだ言葉をエリザは正確に理解して微笑んだ。
「『それに』の後は『私には達也さんがいてくれましたから』、と仰りたかったのでしょう?」
その言に頬を赤らめて頷くクレアと、『ヒュー、ヒュー!』と歓声を上げて囃し立てるヒルデガルド。
その温かい光景を目の当たりにしたエリザは、胸の中に生まれた羨望という名の感情に戸惑いながらも、清々しい薫風が吹き抜けたが如き心地良さも感じていた。
だからこそ、心の奥底に仕舞っていた想いが、思わず口をついて出てしまったのかも知れない。
「羨ましいわ……私などは百二十年も共に暮らしているのに、クラウスに我が子を抱かせてもやれないのだから……長命種の宿命とはいえ、妻として不甲斐ない気持ちでいっぱい」
自嘲気味にそう呟くエリザの儚げな風情に、一番驚かされたのはヒルデガルドだった。
そもそも、ファーレンの次期女王候補筆頭の座は、才媛として名高い彼女こそが相応しいと誰もが信じていたのだ。
そんな彼女が全てを投げ打って一般人のクラウスと駆け落ち婚を選択した時は、それこそ国中が悲嘆に暮れたのだから、その期待の大きさが如何ばかりだったかは推して知るべしである。
快活にして破天荒、繊細にして大胆と評されたエリザでさえ、ままならぬ葛藤を抱えて生きているのだと思い至ったヒルデガルドは、彼女に掛ける言葉さえ見つけられなかった。
しかし、幸いにもこの場には、もう一人の才媛がいたのである。
ソファーから立ち上がったクレアはエリザの隣に移動するや、何事かと困惑する彼女の手をとって迷わず進言したのだ。
「何を弱気な……未だ人生の三分の一にも満たない時間が過ぎただけではありませんか。諦めさえしなければ必ず神様は微笑んで下さいます。あぁ! そうだわ! ねぇ、エリザさん! もしも……」
激励の途中で絶妙の名案を思い付いたクレアは、輝かんばかりの笑顔でエリザに妙案を告げるのだった。
◇◆◇◆◇
「なぁ~。もう一度考えてみないかい? 幸い資金はあるから、かなりの好待遇を約束できるんだけど?」
背後から投げ掛けられる執拗な勧誘にクラウスは辟易していた。
用件を済ませて妻の待つリビングへ向かおうと書斎を出たのだが、未練たらたらといった風情の達也が、まるで背後霊の如くピタリと張り付いているものだから、鬱陶しくて仕方がないのだ。
「いい加減にしてくれませんかねぇ。私はもう、血生臭い世界から足を洗うと決めたのですよ。再考する余地は微塵もありませんので! あしからず!!」
「しかしさぁ……」
何度も断っているにも拘わらず、一向に諦める気配がない達也にクラウスの苛立ちは募るばかり……。
(本当にしつこい……。エリザが女王陛下の要請を勝手に受けたばかりに、こんな目に遭うとは……やはりファーレンで惰眠を貪っていれば良かったですかねぇ)
心中でそう嘆いてはみたものの、彼が感じている焦燥感は、必ずしも執拗な勧誘ばかりが原因ではなかった。
楽隠居を決め込みたいと願う反面、この白銀達也が作り出す世界を見てみたいという思いがあるのも事実なのだ。
自分の心の片隅を占拠する厄介な好奇心は、次第にその比重を大きくしており、自分を律していないと、つい『いいですよ。御手伝いしましょうか』、と口を滑らせてしまいそうなのである。
(つくづく面倒な御人ですねぇ。天下無敵の銀河連邦を相手にして、勝ち目など欠片もない筈なのに、この男ならば……そう思わせる何かがある。おっと、感情に溺れるなど私らしくもない。ふふ、これもあの子に触れたのが影響しているのですかねぇ……)
愛しい我が子の笑顔が脳裏に浮かんだが、好奇心を押し殺したクラウスは当初の想いを貫くと決めたのである。
これから動乱の時代へと向かう此の世界の喧騒から離れ、愛するエリザと一緒に穏やかな生活を営もう……。
そうすれば、待望の我が子を授かるかもしれない……。
そんな淡い幻想を胸に、早足で階段を下りてリビングへと歩を進めるクラウスだった。
目的の部屋の直前で背後から達也の溜息が聞こえ、漸く勧誘を諦めてくれたかと安堵したのだが……。
「まあっ! この家屋は素敵ですわ。地球式の教会も風情があって良いですわねぇ……どれにするか迷ってしまうわぁ……」
「本格的な教会は、もっと荘厳な様式美を兼ね備えていますから、きっと気に入って貰えると思います」
扉が開け放たれたリビングから聞こえて来るのは、本家愛妻と元愛妻(?)が嬉々として燥ぐ声だった。
その妙に華やかな雰囲気にクラウスは言い知れぬ不安を懐いてしまう。
そして、それはリビングへ足を踏み入れた途端に投げ掛けられた、エリザの言葉で現実のものになるのだった。
「あら、あなた! 丁度良かったわ。私、この星に移住する事に決めましたから。これを機に神官としての仕事を再開しようかと思っているの。それでね、今は移住推進キャンペーンの真っ最中で、住まいと神殿の両方を白銀家が進呈して下さると仰るのよッ! こんなビッグチャンスを逃す手はないわッ!」
まるで夢の宝くじに当選したと言わんばかりに喜ぶ妻に、クラウスは狼狽を露わにして言い募る。
「移住って……ちょ、ちょっと待ってくれませんかねぇ。エリザベート陛下の命を果たしたら、そのまま東部方面域の辺境に隠棲すると決めたじゃありませんか?」
「あら、同じ辺境惑星なら此処の方が百倍は素敵だわ。環境も良いし、クレアさんの様な良き隣人もいらっしゃるのよ? それに、何と言っても新築の物件が無償で手に入るなんて本当に夢のよう……こんな好条件が他にあって?」
この顔は既に心を決めてしまった顔だ……。
長年の夫婦生活の中で妻の機微を知り尽くしているクラウスは、破顔するエリザを見て絶望と言う名の縄で雁字搦めにされた気分になってしまう。
(どうして、こんなことになるのですかねぇ~。本来ならば、このふたりが仲良くなる要因など微塵もない筈なのですが……)
女という生き物の摩訶不思議さを思うクラウスは弱々しく首を振るしかない。
そんな落胆した様子を隠そうともしない夫に、エリザは清々しいまでの微笑みを添えて引導を渡すのだった。
「それに、薄情にも銀河連邦軍は退職金も死亡見舞い金も支払ってくれなかったんですもの。今までの貯えでは先々が不安ですからね。貴方にはまだまだ稼いで戴きませんと……ねぇ? ク・ラ・ウ・ス……おほほほほ!」
愛妻を翻意させるのは不可能だと悟ったクラウスは、苦虫を嚙み潰したかの様な顔で閉口するしかない。
しかし、そんな彼に追い打ちを掛ける無神経な男がひとり。
「気安く人の肩を叩くのは止めてくれませんかねぇ……今の私はヘラヘラ愛想笑いを浮かべられる気分じゃないのですよ」
背後から伸びて来た手で右肩をポン、ポンと叩かれたクラウスは、イラッとして言葉を荒げてしまう。
然も、腹立たしい事に、その手の主である達也からは、喜色のオーラが駄々洩れなのが手に取る様に分かってしまうのだから腹立たしくて仕方がない。
長年研鑽を積んで身につけた技能が、今は只々怨めしいと憤慨したクラウスは、敢然と振り向くや、満面に笑みを浮かべる疫病神殿に心からの罵倒を叩きつけたのである。
「本当に貴方と関わると陸な事になりませんねぇっ! 以前に言われた通りでしたよ! 貴方も私も同じ穴の狢! くそったれの人殺し野郎ですッ! 悠々自適の隠遁生活をフイにされた責任はとって貰いますからねぇッッ!!」
そんな亭主達のやり取りを妻達は心底嬉しそうな表情で見つめるのだった。
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