準備
3月13日
「これが、今回王子がまとめられたメモを清書にしたものです」
「ふん、そうか」
膨大な量の書類をまとめたトーマス・トレヴァーに対して、エルドレッドはねぎらいの言葉ひとつかけなかった。
なぜなら、彼は同じ学園の生徒ではあったものの、平民だったから。
トーマスはある豪商の息子である。といっても、彼の家がやっているトレヴァー商会が台頭したのは、ここ二、三年のことだ。
トレヴァー商会はもともと庶民向けの食品や服飾などを細々と売っていたのだが、三年ほど前に、とある商品を売り出したのがきっかけで飛躍した。
彼の家が売り出した染髪剤が、庶民から貴族まで、瞬く間に広まったのだ。それまでの染髪剤といえば、やたら時間はかかるくせに、さして効果はない、ムラがあってみっともなくなるなどといった理由から、ほとんどが白髪を隠すためのものでしかなかった。
しかし、今回売り出された染髪剤は違う。短時間で、驚くほど自然で、鮮やかな髪色になるという。金髪や赤毛、黒髪などバリエーションもあり、今後も増やす予定らしい。しかも、庶民でも気軽に手が出せる値段だ。
これにより財を成したトレヴァー家は、成金らしく息子を貴族の子女の多くが通う名門学園へ転入させた。しかし、エルドレッドに言わせれば、どれほど裕福になろうが、所詮は平民である。
「エルドレッド様。ここまでしてくださったトーマス様には、きちんとご褒美を上げないと」
甘ったるい声を上げたのは、エルドレッドの恋人ローザだった。彼女はくすくす笑いながら、上目遣いでそっとエルドレッドを見上げた。その蠱惑的なまなざしに、王子は一瞬声を詰まらせた。
ああ、早く彼女を自分だけのものにしたい。そのためには、家柄と頭だけが取り柄の、地味でつまらないヴァイオレットを排除しなくては。
「ああ、なんと優しいのだローザは。あの女とは天と地ほども違う」
エルドレッドは、婚約者の顔を思い浮かべて、不愉快そうに顔を顰めた。彼の婚約者であるヴァイオレットは、彼に一度も笑いかけたことなどなかった。彼に会う時も、侯爵令嬢らしい、それなりの装いはするものの、特別お洒落をするというわけでもなく、とにかくもう愛想がなかった。
学内にいる時はもっと酷い。分厚い黒縁眼鏡で顔の半分は隠れてしまい、茶色い髪は野暮ったい三つ編みにして、まるでどこかの田舎娘のようだ。授業が終わると温室に赴き、カモミールだの、マージョラムだの、その辺の雑草のような草を集めては、何やら難しそうな顔をするか、やたら分厚い本を読みながら、香りのきついハーブティーを飲んでいる姿しか知らない。そのくせ、他の生徒たちからの受けはいい。
「エルドレッド様、もうすぐですわね」
結局、ローザもこれ以上トーマスへのエルドレッドの態度を諫めることはなかった。結局、恋人同士の戯れの肴にされただけなのだろうと、トーマスも静かに退室する。
「ああ、もうすぐだ」
愛する少女にとろけるような笑みを向けながら、エルドレッドは書類を一瞥した。




