マデリーン・アッシュフィールドの婚約者 5
人と接することが苦手で、特に異性相手だとまともに話すこともできない。
感情的に声を荒げるのも嫌いだし、感情的になった人間はもっと嫌いだ。
誰とも接点を持たない人間は孤独であるということは知っている。けれど、家族や数人の友人がいれば、それで寂しさは満たされた。それ以上は必要を感じない。
貴族、それもかなりの地位のある家の嫡男である以上、いずれは結婚を余儀なくされるだろうが、とりあえずそれは今じゃない。
ヴィクトール・アーカーソンは常々そう思っており、ろくに知らない人間ばかりが集まり、その中であれこれ交流をしなければならない夜会は、心底煩わしい物だった。
とはいえ、面倒だと思ってはいても、それが苦痛だったわけじゃない。
むしろ気楽だった。何しろ、社交の場は仕事の一環なのだ。そこにあるのは損か得か、有利か不利かの二択である。
どの相手にどのような説明をするのか。遠回しな言葉の中に相手の意図や背景を読み取る。与えられた情報から、いかに読み取って進めていき、より円滑に得する方へ進める。それは、難しいがやりごたえのあるパズルのようだ。
特に最近の彼の仕事は、トレヴァー商会を通じて推し進めている事業のさらなる進出である。
未だ知られていない東国の商品をいかに魅力的に見せ、購買意欲を刺激するか。
今日はその第一歩である。
「そういう風に考えたら、少しは楽ね」
彼の持論を馬車で聞いていたマデリーンは、一瞬だけ身震いした。まだ緊張は取れていない。
「要は慣れだ。俺も全力でカバーする。あ、あと今日は俺がパートナーを務めるが、次回は父が務めることになると思う」
これは、婚約者がおり、未婚であるマデリーンを気遣ってのことだろう。
「それはありがたいわ」
なにしろヴィクトールは人気が高い。家柄もよく、財産もあり、妹は王太子の婚約者でもある。今を時めくアーカーソン家の嫡男だ。そして彼は未婚であり、婚約者もいない。令嬢たちの視線を集めないという方が無理がある。
「今日の夜会はハーシャル家の主催だからな。招待客も地位も名誉もある貴族ばかりだ。緊張するだろうが、やりやすいと思うぞ。つまり、お行儀がよく、金払いもいい。多少のミスはあっても、にっこり笑えば見て見ぬふりくらいはしてくれるさ」
「侯爵家ご子息の言葉とは思えない台詞ね」
くすくす笑ったマデリーンだったが、ひょっとしたら彼は緊張をほぐそうとしてくれたのだろうかと彼女が気付いたのは、馬車を降りてからだった。
夜会は豪華ではあったが、落ち着いた、上品なものだった。招待客も、全体的に年齢層が高めであり、若く華やかなヴィクトールとマデリーンは嫌でも人目についた。
主催するハーシャル侯爵は、アーカーソン家とは昔から懇意にしているため、ハーシャル夫人はヴィクトールの姿を見るなり、にっこりと微笑んだ。
「ヴィクトールよく来てくれたわ。まあまあ立派になったこと」
「ハーシャル侯爵夫人も、お変わりなく」
余所行き用の笑みを浮かべつつ、ヴィクトールが老婦人の手を恭しく取り、キスを送るのを、マデリーンはそっと横目で見た。とても、以前泣く女を前にうろたえまくった男と同一人物には見えなかった。
「ところで、そちらの魅力的なご令嬢はあなたの婚約者?」
「いえ、残念ながら。彼女はマデリーン・アッシュフィールド伯爵令嬢。実は妹のヴァイオレットの友人なのですが、妹はあいにく体調を崩してしまい、急遽私のパートナーを務めてくださることになったのです」
この設定は、あらかじめ決めておいたものだ。ヴィクトールの妹、ヴァイオレット・アーカーソンは一年前の、とある功績によって王太子の婚約者となったが、なぜか彼女は、あまり夜会に出ることはない。
「まあ、そうなの。それにしてもマデリーン様、素晴らしいドレスね。華やかなのに落ち着いていて、黒髪に何て似合うんでしょう。今までにないデザインだけど上品で、本当に素敵だわ」
その一言で、会場にいる女性たちのマデリーンに向ける視線が、一気に柔らかくなった。
ハーシャル夫人はかつて社交界で華々しく活躍していた女傑だ。知的で美しく、センスが良くスタイルもいい彼女は、あらゆるドレスを完璧に着こなし、貴族たちの憧れの的だった。流行は彼女が作っていたと言っても過言では無い時期すらあった。その彼女が、マデリーンのドレスを褒めそやしたのだ。
これで、ヴィクトールたちの目的は半分達成されたようなものだ。あとは、衆人環視の下踊って見せ、このドレスの華やかさをさらに見せつけなくてはならない。
そうすれば、あとはここにいる女性たちが、頼まずとも宣伝してくれるだろう。
次の日、ヴィクトールの狙い通り、マデリーンが身に着けた異国風のドレスは予約が殺到し、髪に挿していた簪は完売した。ドレスと違い、ガラスを加工した簪は、かなりの在庫が揃っていたのに、だ。色が豊富で、加工技術が優れているとはいえガラス製のそれは、貴族のアクセサリーの中では手が出やすい値段だ。
「しばらくドレスはこのデザインが流行るな。まあ、ゆくゆくはヒノモトの布を使ってみたいところだが」
新聞をの社交面を読みながら、ヴィクトールは満足そうに頷いたが、マデリーンはぐったりとソファに寄りかかっていた。
「緊張したわ……。最後の方はトレヴァー商会の。としか言ってなかった気がする」
「台詞がシンプルになってよかったな」
何しろ、自己紹介をしたら、すぐにドレスに関して尋ねられるのだ。ドレスも、簪も。果ては髪に塗っている香油や化粧まで。そのどれもトレヴァー商会のものなのだ。広報担当なのだから当然なのだが。
「新聞にも名前が出ている。これでますます知れ渡るな」
「お父様の反応が怖いわ」
いずればれることは覚悟していたが、こうも大々的に知られてしまえば、父がこの事実を知るのも時間の問題だろう。
マデリーンの予測通り、その日の午後には、昨夜の出来事は父の知ることとなった。
父のマーカスは最初、噂の美女とやらが自分の娘のことだとは露ほども思っていなかった。何しろ、彼の娘は「不美人」な上に愛想もなく、無駄に身長が高いせいでかわいげのない、みすぼらしい娘だったのだから。
おまけに、名門貴族アーカーソン家の嫡男にエスコートされてハーシャル家の夜会に出席など、あろうはずがない。アッシュフィールド家は、歴史こそあるが、ここ数年で没落が見え始めた貧乏貴族だ。
マデリーンとしては、父の反応は非常に気になった。今回マデリーンに関する評判は悪くない。悪くないどころではない。新聞は彼女も読んだが、あれではマデリーンが令嬢たちの憧れの的のようではないか。実際、一晩で彼女の評価はとんでもなく上がっている。
「無駄に高い身長」は「スタイルがいい」に、「陰気臭い黒髪」は「エキゾチックで艶やかな黒髪」に、「愛想がない」は「クールで落ち着いた」に、いとも簡単に変わった。
ほとんどは、あのドレスやエスコートするヴィクトールがいたからだとマデリーンは謙虚に思っているが、それでも父はどういう反応をするのか。見直してくれるのか、褒めてくれるのか。今回の夜会の手当ては相当なものだった。少なくとも、この金額には悪い顔はしないはずだ。これだけあれば、一か月は借金のことを考えずに済む。
しかし、父がよこしたものは、苛立ちを含んだ嫌悪の視線と罵倒だった。
「一体何を考えていたマデリーン!よくもみっともないことをして、わしに恥をかかせてくれて……」
「恥……」
長年蔑まれてきたマデリーンの精神は、反論するよりも委縮した。昨夜、大勢の人間が、名だたる貴族の面々が彼女を褒めそやしたが、父親のその一言で、芽生えかけた自信がぽっきりと折れた。伸ばしていた背筋が、急激に丸まるのを、どこか遠くで感じた。視線が床に向けられ、黒い瞳はおどおどと落ち着きなく辺りを見回した。それは、父と話す時の彼女の癖だった。
けれど、ほとんど霧散しつつも、かろうじて残った自尊心が、彼女に口を開かせた。
「どうして恥なのですか。わ、私は、」
父が自分を睨みつけるのを見て、再び彼女は俯いた。しかし、やはり言わずにはおれなかった。
「私は、みすぼらしくない。確かにお母様のような美人ではないけれど、私にだって長所は――」
「何を言っている。婚約者がいる身のくせに、別の男と夜会に出席した、身持ちの悪い娘のくせに。大体、周りに褒められて舞い上がっているようだが、それが嘘だとなぜ気付かない。みんな、お前を笑いものにしているだけだ」
「違います!皆様立派な方で、本心で褒めてくださいました。わ、私は決して不美人じゃないし、何もできないわけじゃない。こうして働いて――」
それ以上は言えなかった。父親が、弱くない力で、彼女の頬を打ったからだ。打たれた彼女は呆然と父親を見、父は父で、打った自分の手を呆然と見ていた。どちらもお互いショックを受けていたし、痛みは遅れてやってきた。
「どうして――」
マデリーンの黒い瞳から涙がこぼれた。
(どうしていつだってお父様は私を否定するの。どうして決めつけるの。どうして私を惨めな気持ちにさせるの。どうして私を)
「そこまででいいですか、お二人とも」
その時、場違いな声と共に、マデリーンの知った顔がひょっこりと顔をのぞかせた。
「ヴィクトール……」
マデリーンは呟いた後、顔を背けた。彼に、こんな場面を見られたくはなかった。みじめさと屈辱で体が震えた。無性に恥ずかしくてたまらなくなった。
「だ、誰だお前は!?おい、誰か」
「ヴィクトール・アーカーソンです。初めまして……ではないんですが」
恭しく礼をし、彼は後ろにいた少女を促した。眼鏡をかけた小柄な少女の顔を見て、マデリーンは目を見開いたが、彼女はそっとマデリーンの手を取った。
「マデリーン様、早く冷やさないと。明日も夜会に呼ばれているのに、頬が腫れていたら困ります」
「な!?お前らか!くだらない茶番に娘を巻き込んだのは」
「さ、早く」
綺麗に父親の罵声を無視し、少女がマデリーンを部屋の外に連れ出した。それを見届けた後、ヴィクトールは大きなため息をついた。
「まあ、突然来た非礼はこちらにありますがね、少し冷静になった方がよくありませんか?」
「はあ?」
「先程名乗りましたが、私の名前はヴィクトール・アーカーソンです。お会いしたことはあるんですがね」
「アーカーソン……」
ようやく少し落ち着いたのか、マーカスは呟き、次いで顔を上げた。アーカーソンの名前を知らない貴族は、それほどいない。そして、アーカーソン家の嫡男の名前がヴィクトールであることも、知らない者はほぼいない。
ようやく、自分が誰に、どんな物言いをしたのか理解したマーカスは、顔を青ざめさせた。
「困るんですよね。彼女はうちの大切な従業員で、うちの事業が成功するかどうかは、彼女にかかっているんです。そんな彼女の、よりにもよって顔に、傷をつけるなんて」
「し、しかしですね。その、これはいわば親心でして」
「親心?」
「そ、その、うちの娘は何と言いますか、不美人だし、婚約者にも好かれない、不出来な娘なんですよ。それを、あのように華々しい場所に連れて行って身の程知らずになってしまったら、いい物笑いの種です」
ヴィクトールは何も言わない。端正な顔が無表情でこちらを見ていることに居心地の悪さを感じつつも、マーカスは続けた。
「大体、アーカーソン家の事業に参加できる様な器じゃないんです。未熟だし、そのうち必ず何かしでかして恥をかくに決まってます。従業員と仰ってましたが、女の身で働くなんてとんでもない。所詮は女ですよ。だから、大変申し訳ないのですが、うちの娘はもうこのまま家でおとなしくしている方が、娘のためなんです。いずれ、娘も結婚しますし」
「なるほど」
ヴィクトールから肯定するかのような言葉が返ってきたので、マーカスは勢いづいて顔を上げた。
「つまり、若く未熟、女である彼女は役に立たない、と?」
「ええ、ええ、その通りです」
「なるほど。そうなると、疑問が一つ」
人差し指を立てて、ヴィクトールは一歩マーカスに近づいた。
「え?」
「男でオッサンのお前は、何でそんなに無能なんだ?」
まっすぐに見つめながら、彼は言った。呆然とするマーカスに、さらに続けた。
「事業主であるくせに、俺のことも、妹のことも気付いてなかったな。お前、自分が無能って自覚あるのか?お前の代になって没落一歩手前だぞ?夫人が積み上げていた人脈を悉く潰し、一体何がしたいんだ?いい物笑いの種は自分だと、なぜ気付かない?」
畳みかけるように言われ、マーカスは目を白黒させた。大体、アーカーソン家の嫡男が、何と乱暴な口を利くことか。しかし、今更だが目の前の端正な顔が、アーカーソン家の次期当主であると確信した。何しろ、いつも遠巻きに見ていた、あのやり手の父親とそっくりなのだから。
この日、マーカス・アッシュフィールドは、自分でもうっすら、いや、心の奥底ではきちんとわかっていたのに、ずっと目を背けていた、「自分は無能である」という事実を、己の半分も生きていない若造から叩きつけられた。