マデリーン・アッシュフィールドの婚約者 4
ヴィクトールがマデリーン・アッシュフィールドと再会したのは、思っていたよりも早かった。彼女の家の経済状況を考えれば近いうちだとは思っていたが、彼女はきちんと自分の家の状況を理解していたのだ。どちらかというと、理解していないのはあの父親だろう、とヴィクトールは見ている。
あの、自分の無能さを誰かのせいにせずにはおれない愚かな男。
「彼女のことは、お任せください」
そう言ってにっこり笑うのは、トーマス・トレヴァーだ。何年も異国を巡り、その感性や商才を磨いてきたからか、彼はマデリーンの素質をすぐに見抜いていた。
「あのドレスを着こなすのは少し難しいんですよね。彼女ならきっと着こなしてくれると思います。それに、彼女の髪なら、このカンザシもさぞ映えるでしょう。ゆくゆくはヒノモトの生地で作ったドレスなども誂えたいですね」
そう言う彼の手にある、ヒノモト独自のものである簪とかいう名前の髪飾りは、銀製の細長い棒状のもので、先端は鋭く尖っている。造り自体はいたってシンプルだ。上部にはガラス玉がついていて、トンボ玉とかいうユニークな名前の付いたそのガラス玉は、繊細で美しい模様を織りなしていた。
「武器としても使えそうだな」
先端を見ながらそう言うヴィクトールに、トーマスは「なんとまあ情緒のない」と嘆いて見せた。彼の身分は平民だが、トレヴァー商会を担って立つ彼の商会内での立場は、ヴィクトールより上だ。
「いや、しかし本当に武器としても使えるよ。僕も身に着けておこうかな」
横から口を挟んだのはヴィクトールの義妹であるローザだ。
「それって、使う相手はあのバカ王子だろ。これだと、下手したら殺してしまうんじゃないか?」
「大丈夫。狙う時は目だから」
物騒な発言をしつつ、ローザがふと顔を上げた。
「おっと、お嬢様が来たようだよ」
お嬢様というのは、マデリーンのことだろう。ヴィクトールが顔を上げると、居たたまれない顔をしたマデリーンがこちらへやってくるところだった。ローザはそそくさと引き上げる。令嬢としてまだまだ修行中のローザは、家族以外の人間と極力会わないようにしているのだ。
「よくお似合いですよ。このドレスはトレヴァー商会の新作の生地を使ったオリエンタル風で、このカンザシの色と合わせてみました」
今日のマデリーンのドレスを見立てたのはトーマスだ。ちなみに彼はローザの普段のドレスも見立てている。さすがトレヴァー商会の被服・装飾担当と言うべきか。
一方のマデリーンはすでにいっぱいいっぱいだ。最近は綿や麻の感触しか馴染みがなかった肌に、この光沢のある生地の感触は非常に気後れさせた。この光沢は、もしかしたら絹ではないだろうか。そう思うと、汚したらどうしようと落ち着かない気分になる。
オリエンタル風とかいう、少々変わったデザインのドレスは、裾のゆったりとしたおとなしめのデザインだが、それでいて他のドレスと同じく腰はコルセットで絞められ、胸元は開いてはいないものの、さりげなく強調するようなデザインになっており、女性らしい複雑な曲線をことさら強調しているように見える。
淑女らしい慎みを保ちつつも、どこか挑発的なデザインのドレスだと思った。それに、深い赤はワインのようで、落ち着きながらも華やかさを欠いていない。
髪は緩やかなハーフアップにし、残りは緩やかに流しているので、肩から背中の辺りまで、真紅のドレスを漆黒の夜空みたいに覆い、赤と黒というこれまた挑戦的で、何とも魅力的な色の組み合わせを作り出している。どちらも、マデリーンの白い肌、これまたトレヴァー商会が売り込みだしたクリームを体中にすりこんで、ぴかぴかに磨き上げたつやつやの肌によく似合っていた。
鮮やかな発色の紅を差し、瞼にうっすらと色づく粉をつけ、眉を整え、睫毛をできる限り伸ばし、そうして出来上がった自分の顔を鏡で見て、マデリーンは驚いた。
そこには、マデリーンの知らない、華やかな女性がいたのだ。
そうして、その夜空のような艶やかな黒髪に、銀色に光る簪がそっと差し込まれていた。そのてっぺんでは、トンボ玉とかいう複雑で美しいガラス玉が、控えめに揺れている。
ドレスが目も眩むような華やかさなので、この髪型や髪飾りの慎ましやかなのは、かえってよかった。
「やはりドレスは赤で正解でした」
じろじろと無遠慮にマデリーンを見ていたトーマスが口を開いた。彼の視線は不愉快ではなかった。このドレスも、髪型も、化粧も装飾品もすべて見立てたのは彼だし、何よりこれはトレヴァー商会の新商品のお披露目なのだ。彼が見る、いや吟味するのは仕事の一つだ。
(そう、お披露目)
広報というから、一体何をするのだと思っていたが、まさか自分が新作ドレスを着て人々の前に出るとは、夢にも思っていなかった。出された煌びやかなドレスは自分の世界に縁のない物だと思っていたから、それをまさか自分が着ることになるとも思っていなかったし、ましてやその姿を人に見せるなんて。しかし、マデリーンはすでに契約してしまっている。それに、ドレスを着て夜会に出るだけで大金が入ってくるのは魅力だ。
「けど、その姿勢は駄目ですね。せっかくすらりとしているのに、それでは台無しです」
マデリーンが猫背気味になってしまうのは、この無駄に高い身長のせいである。マデリーンの身長は平均男子並み、クラスで半分の男子生徒よりも背が高いのだ。ほんのわずかだが婚約者のアイヴァンよりも高い。そしてそのことを、彼がことのほか苦々しく思っていることも、彼女は知っていた。
「でも……」
「身長が高いことは短所ではなく長所であり、あなたの魅力です。スタイルがいいから何でも着こなせる。ドレスの魅力を最大限に引き出すことができる」
トーマスはそう言って、「ねえ、ヴィクトール様」とヴィクトールに声をかけた。
「よくお似合いですよね?」
ヴィクトールの方は、声をかけられるまでずっと、目の前の美女に釘付けだった。話を振られても、返答に窮する。こうも美しいと、どうしても気後れしてしまう。結局、「ああ、そうだな」というありきたりな、おざなりな返事しかできなかったが、普段褒められたことのないマデリーンを動揺させるには十分だった。
ヴィクトールは、本人の内面の、ある部分に関するところが大変残念なことは彼女も知っているが、それでも彼はハンサムだし優秀だし、家柄もいい貴族の令嬢たちの憧れの的だ。そんな彼に褒められるなんてこと、数日前、婚約者にさんざん貶められた彼女の身に起きるとは、到底思えなかった。
「さあ、姿勢を正してください。今夜は夜会です。新商品の売り上げは、お二人にかかっているんですからね」
トーマスの言葉に、弾かれたようにマデリーンは背筋を伸ばした。そうだ、これは仕事なのだ。
(私はドレスを美しく見せなければいけない。そう、主役はドレス)
そう思うと、少し気が楽になった。それに、姿勢よく歩くのは、伯爵家の令嬢である彼女だって叩き込まれている。ここ数年、彼女の身長を忌々しく思っているアイヴァンのせいで少し身をすくめていただけだ。
背筋を伸ばし、顔を上げた彼女にヴィクトールの方は少し微笑み、そして緊張しながらそっと手を差し伸べた。
「今夜のエスコートは俺が務めさせていただく。申し訳ないが、よろしく頼む」