マデリーン・アッシュフィールドの婚約者 2
その日、アーカーソン家は来客中だった。
「ヴァイオレット、顔が痛いんだがどうすればいいと思う?」
「……酷い日焼けね。一体何をやったらそんなに皮がむけることになるの」
久しぶりにアーカーソン家に遊びに来たグレゴリー・ヒースコートの顔をじっと見ながら、ヴァイオレットがため息をついた。
「昨日の訓練だよ。炎天下ずっとやってたんだ。おかげで顔が痛い」
「そりゃ痛いでしょう。だからヴァイオレットに言われていたように、日焼け止めを塗っておけばよかったんですよ」
ラドクリフ・カーライルが呆れた顔をした。彼の前には淹れたばかりのハーブティーがあるが、彼はなかなか手を出そうとしない。苦手なのではなく、冷ましているのだ。冷ます間に、彼はテーブルの上の焼き菓子に手を伸ばした。
「やだよ。日焼け止め塗るなんて女みたいじゃん。絶対仲間にも笑われる」
「そのせいで顔の皮がむけてるんですけどね。笑われない代わりに驚かれるか怖がられますね」
「それは仕方ないけど、痛い」
「日焼けなら、まずは顔の保湿が大事ね。あとは乾燥させておいたマグワートをあげるから、それを入れたお風呂にゆっくり浸かって」
ヴァイオレットが持ってきたハーブを見ながら、グレゴリーはため息をついた。
「結局塗るのか。それに薬草風呂とか。やっぱり女みてぇ」
「でも、塗らないとよくならないわよ。それに、日焼けが過ぎると、皮膚の病気になる確率が上がるんですって。きちんと対処しておかなくちゃ」
彼女の言葉に、グレゴリーはようやく頷いた。皮膚の病気というのがどういったものかはわからなかったが、日焼けの痛みは割と辛い。
「とりあえずは保湿クリームね。まずはこれを塗って」
ヴァイオレットが差し出したのは、彼女お手製の保湿クリームだ。このクリームは後にさらに改良が加えられ、優秀なハンドクリームとして貴族の女子を中心に一大ブームを巻き起こすことになる。
「何だよこれ?」
「数種類の油にミツロウ、それとハーブから抽出した精油を混ぜたものよ。まず手に塗って、何ともなければ顔に塗って」
こわごわといった調子で手にクリームを塗るグレゴリーに、横からラドクリフが口を挟んだ。
「う~んフローラルな香りですね。とても男らしい」
「余計なこと言わないの。ラベンダーの香りはリラックス効果もあるから疲れた体にはいいのよ」
グレゴリーの方は、手の匂いをしきりに嗅いでいる。その仕草は少々動物じみていたが、ヴァイオレットは少しだけかわいいと思った。思っただけで口には出さなかったが。
「いい匂い。香水より匂いがきつくないし、自然でいいかもしれないな。肌にもいいなら僕もこれ付けようかな。こういう方が、あの阿呆のエルドレッドをたぶらかすのに使えそうだ」
今までずっと生クリームがたっぷり塗られたケーキを食べていたローザが保湿用クリームに目を向けた。 アーカーソン家の養女という立場のローザの当面の目的は、ヴァイオレットの婚約者である王太子を篭絡することではあるが、こうもはっきり言われるとヴァイオレットとしては少し複雑だ。
「使いたいならご自由にどうぞ。それとローザ。一人称が僕になっているわ。使用人は下げているけど、気を付けて」
「おっといけない。気を付けるよ……じゃなく、気を付けますわ」
おほほ、と取って付けたように笑うローザは、侯爵家の令嬢を装ってはいるが、実は男性だ。ある目的があって女性と偽っている。あと一か月ほどで学園に通うことになるのだから、もう少し令嬢らしい振る舞いを身に付けなければならないのだが、いまいち女性らしさに欠ける。外見だけなら完璧なのに、細やかな仕草や言葉遣いは、どうしても男性であった時の癖が出てしまうのだ。
ラドクリフは、ようやくハーブティーを飲む気になったが一口飲んだ後、顔を顰めてお茶に息を吹きかけた。両手でカップを持ったまま息を噴いて冷ます仕草は、これまたかわいらしい。
グレゴリーがようやく顔にクリームを塗り始めた時、ヴィクトールが入って来た。
「何だ、この会合は。今日は女子会やってるのか?」
その言葉に不満そうなのはグレゴリーとラドクリフだった。不満そうではあったが、彼らは何も反論しなかった。うまい反論の言葉が出てこなかったからだ。
「あらお兄様。昨日はどうだったの?」
ヴァイオレットが兄と顔を合わせるのは今日は初めてだ。昨夜の彼は学園の卒業パーティーがあったために、帰宅したのは夜遅くだったため、彼は寝坊してしまったらしい。
あんなに人の多い場に出席するのは、兄にとってはさぞかし苦痛だったろうと彼女は思った。
在校生であるヴァイオレットやグレゴリー達も参加はしたものの、すぐに帰宅している。ヴァイオレットはエスコートしてくれるはずの婚約者が早々に彼女を置いてどこかへ行ってしまったし、グレゴリー達もパーティーに興味はなかったからだ。しかし、兄には役目があったのだ。
彼女の兄は優秀ではあるが、社交の面で少々問題がある。商談など、ビジネスに徹している時はそつなく会話できるのだが、そういったものが絡まないと、途端に何も話せなくなるのだ。相手が異性ならばなおさらだ。おかげで友人と呼べる人間は少ない。この場にいる面子くらいか。
「一応アッシュフィールド嬢には接触した。すぐに返事はもらえなかったが、まあ了承してくれるだろう」
「へえ。アッシュフィールド家ってそんなに困っているのか?」
ローザがケーキに再び手を伸ばしながら尋ねた。
「ローザ、言葉遣い」
「そうだった。こ、困っているの?」
「そのようだな。もともとアッシュフィールド家の事業の大部分を担っていたのは、夫人の方だ。夫人は才覚もあったし、社交的でカリスマ性もあった。それが数年前に病死して以来夫に経営が廻って来たが、あれは酷いな」
ヴィクトールはそう言って、妹が用意してくれたハーブティーの入ったカップに手を伸ばした。ヒソップとペパーミントとローズマリーが入った、眠気覚ましに効果があるお茶だ。彼の妹は相手が今一番必要としているものを予測してお茶を淹れる。
「それで、何でお義兄様は不機嫌なのかしら?」
ローザが意地の悪い笑みを浮かべながら言った。ローザは本来元の身分はこの中の誰よりも高い。だが、今は侯爵家の養女という立場なので、ヴァイオレットもヴィクトールも敬語を使うことはない。
「別に不機嫌じゃない」
そう言いつつも、ヴィクトールは自分の感情が表に出ていたことをこっそり恥じながら、当てつけのようにハーブティーを飲んだ。ミントの香りがふわっと上り、鼻孔をくすぐった。
「むしろ上機嫌だ。モラン伯爵の子息、あれはただの屑だ。屑の父親にそっくりだ。おかげで、遠慮なく叩き潰せる」
「へえ、それは朗報だね」
ローザの方も、ニヤリと唇を歪めた。義兄の口から上った「モラン伯爵」に対して、彼は並々ならぬ感情を抱いている。彼には地獄を見てもらうが、関係のない家族にまで被害が及ぶことは少々心が痛む。だから、一番とばっちりを喰うであろう彼の息子が、彼と同じくらいの屑だというなら、罪悪感を抱くこともなかろう。
「しかも、お誂え向きにあのバカ息子には浮気相手がいる。相手は金で男爵家になったような家だが、金はある。あの男爵は一代でのし上がるだけあってしたたかだ。地位があるうちは離さないだろうが、バカ息子が素寒貧になれば、掌を返すだろうよ」
今日の兄はいつも以上に口が悪いと、ヴァイオレットは思った。
「あの令嬢には悪いが、せいぜいバカ息子を繋ぎとめてもらいたいな。そうすれば、マデリーン嬢もそのうち愛想を尽かすだろう。彼女にはぜひとも協力してもらいたい」
「……あの令嬢を巻き込むのは気が引ける」
「でも、あのままモラン家と繋がってた方が不幸ですよ」
ラドクリフの言葉に、ヴィクトールは「わかっている」とそっけなく答えた。
ローザが言うように、彼の機嫌はすこぶる悪いようだが、それがなぜなのか、ヴァイオレットにはちっともわからなかった。




