マデリーン・アッシュフィールドの婚約者 1
マデリーン・アッシュフィールドは今にも叫び出したい衝動を抑えながら、目の前の光景を食い入るように見つめていた。
卒業パーティーだというのに、女生徒の多くは婚約者や恋人にエスコートしてもらいながらダンス会場に行くというのに、マデリーンの婚約者はどこにもいない。
数日前、エスコートの話を振ったマデリーンに、そっけなくできないことを告げる連絡が来た時から予想はしていた。
せめて、彼にどうしても外せない用事があって、この卒業パーティー自体に参加しないというなら、それでよかった。しかし彼は、実に堂々と別の女性を伴ってパーティー会場に入っていった。
「本当だよ。君の方がずっとかわいいし、魅力的だ。それに比べて、僕の婚約者ときたら不美人なのはわかっていたけど、年上だし、いつも辛気臭い顔して気が利かないし、華やかさがないっていうの?地味なんだよね。おどおどしてて、そのくせやたら身体だけはでかくて」
もしかしなくても、その婚約者というのは自分のことだろうか、とマデリーンは屈辱に体が震えるのを感じた。
「やだあ、アイヴァン様ったら。そこまで言っちゃうと、婚約者さんがかわいそう」
お相手の女子生徒は、優越感を滲ませた笑みを浮かべて見せた。歪んだ口元は心底楽しそうで、誠に憎たらしい。けれど、彼女は小柄でかわいらしく、マデリーンは大柄で、少しもかわいくないのだった。
「かわいそうなのは僕の方さ。どうして愛してもいない女性と結婚しないといけないんだ。本当は、君のようなかわいらしい恋人と青春を謳歌したかった」
そう言って、彼は目の前にいる少女の頬を優しく撫でた。彼女はうっとりと目を細め、そんな彼女を、彼は愛おしげに見ている。マデリーンが、今まで一度たりとも向けられたことのない、優しいまなざしだった。
二人がダンス会場に入って行っても、マデリーンは動けなかった。とにかくみじめで、恥ずかしかった。
足元がおぼつかないのは、震えていたからだ。だから、後ろから声をかけられても、彼女はすぐには振り返らなかった。
「アッシュフィールド。ここはもうじき閉められる。もう誰もいないが、中には入らないのか?」
その声を、マデリーンは知っていた。クラスこそ違ったが、同じく授業をいくつか選択していたので。
「……失礼しました、アーカーソン様。すぐにここから離れますので。お邪魔しましたわ」
「いや、邪魔とかではないんだが……」
目の前にいる彼の名はヴィクトール・アーカーソン。艶やかなダークブラウンの髪は彼の妹ヴァイオレットと全く同じ色だが、ヴァイオレットの菫色の瞳と違って、彼の瞳は冷たいアイスブルーだ。その色と冷ややかな美貌のせいで、周囲は遠巻きに眺めるばかり。そうしてこっそり「氷の貴公子」だとか「孤高の貴公子」だとか、少し笑えるあだ名がつけられている。本人がその事実を知っているかは知らないが。
成績優秀な美丈夫、おまけに国王の覚えもめでたい名門貴族の嫡男。確か、妹のヴァイオレットは王太子の婚約者と聞く(二人が不仲だというのは有名ではあるが)。
当然貴族女性の多くが彼に憧れを抱き、想いを寄せているが、大変残念なことに彼は大の女嫌いで有名なのだ。なので、もう十八というのに婚約者もいない。たまに見合いをしているようだが、どれも悉く破談となっているらしい。噂では、結婚を厭った彼が、こっそり潰しているのだとか。
たまたま同じ学校で、たまたまいくつか同じ授業を取っていただけのこと。
今日の卒業を持って、お互いの縁(と呼ぶほどではないが)は切れ、彼はアーカーソン家の跡取りとして輝かしい人生を生きていくだろうし、自分もまた、分相応な道を歩んでいくのだろう。この時の彼女はそう思っていた。
何もかも持っている彼は、マデリーンにとっては遥か彼方の存在であり、自分と関わりを持つ人間とも思っていなかった。
「ちょっと待て。君、酷い顔色だが」
だから、彼が自分を追いかけ、気遣わし気な目を向けたことにはかなり驚いた。でも、本音を言えばそっとしておいて欲しかった。何しろ、先ほどの婚約者の発言と、マデリーンを嘲笑いながら去っていくあの背中のせいで、泣くのをずっと堪えていたのだ。
今すぐに立ち去って、一人で思いきり泣いてしまいたかった。それなのに、彼はマデリーンの腕を掴んで離してくれない。
「本当に、だいじょう、ぶ……」
そこまで言った時点で、堪えに堪えていたものが、とうとう決壊した。
「アッシュフィールド!?」
一度壊れてしまうと、もう止められなかった。とうとう、彼女は顔を覆って泣き出した。涙は後から後から出てくるし、口からは嗚咽がこぼれてくる。彼が、そっと手を引いてくれたのがわかった。おそらく突然泣き出した彼女の姿を誰かに見られないよう、人がいない場所へ誘導してくれているのだろう。
婚約者がいる未婚の女性が、婚約者ではない異性の前で泣いているなど、お互いにとって醜聞でしかない。放っておいてくれてよかったのだが、彼はそうはしなかった。
泣いて泣いて、とうとうまともに呼吸すらできなくなったところで、ようやく彼女は恐る恐る顔を上げた。
端正な顔が、強張っているのが見えた。ただ強張っているのではない。ものすごく強張っていた。おろおろする、動揺する、そういった言葉の見本の様に、彼、ヴィクトールは取り乱し、冷や汗をかきつつも、震える手でマデリーンにハンカチを差し出していた。その顔は、妙に赤い。
「あの、その、大変……お辛いこととは存じますが、そろそろ、泣き止んで、くれませんかね」
「なんで敬語?」
思わず声に出た。しかも、驚きのせいで口調が些か砕けすぎてしまった。慌てて口を抑えるも、彼の方はそのことを気にする風でもない。そもそも、口調がおかしいのは彼の方が先だ。彼と話したことは数えるほどだったが、彼がマデリーンに敬語を使ったことはない。そこは問題ない。二人は同級生なのだから。問題なのは、なぜこのタイミングで、急にこんな口調になっているかだ。
それが理解できないあまり、涙も引っ込んだ。差し出されたハンカチを受け取りつつも首を傾げると、彼はマデリーンが泣き止んだことで明らかにほっとした面持ちになり、その後顔を逸らした。
「ふ、普通驚くだろ。泣いてる女子とかどうしたらいいか……」
「見なかったことにして放っておくとか?」
正直、彼はそうすると思っていた。こんな面倒臭い、しかも不美人など、見てみぬふりでもすると思っていた。
「俺は鬼畜か!?」
一応紳士ではあるようだ。しかし、泣いてる女子を放置するだけで鬼畜とは。どうやら、彼は周囲が認識する「氷の貴公子」ではなかったらしい。
「慰めるとか?」
「そんな高等技術を要求するのか!?」
ちっとも高等技術じゃないと思う。
「無理に決まってる。大体、他人と話すことだって本当は緊張するのに、女子だぞ!?しかも美人。できるか」
彼は、思っていたよりコミュニケーション能力が低いらしい。そうやって見ると、「孤高の貴公子」の方はあながち間違ってはいなかったようだ。この時、彼の口からさらっと「美人」という単語が出たことに、マデリーンは気付かなかった。気が付いていれば、早々に恋に落ちたかもしれないが、そんな単語、マデリーンには全く縁のない、関係のない単語だと思っていたから、耳に入っていなかったのだ。
「いや、なんか、本当に……意外」
自分は敬語が抜けていたことに気付き、謝罪しようとするもタイミングがつかめず、マデリーンはつい受け取っていたハンカチに目を向けた。こちらも、洗って返さないと。そうして、白いハンカチの端に、刺繍で「ヴィクトール・アーカーソン」と縫われていることに気付き、彼女は思わず噴き出した。
「こ、孤高の貴公子が、名前入りのハンカチ……」
「いや、こ、これはだな。妹が刺繍の練習をするからと」
母親お手製でなくてよかったと思うべきか。
「やだ、もう笑い過ぎて涙出てきた」
「え、それは困る」
再び焦りだすヴィクトールに、マデリーンはもう一度噴き出した。女子生徒の憧れの貴公子が、まさかこんな残念な貴公子だったとは。
「まあ、笑えるようになったらいいんだが。それより、君は、その……どうするんだ」
「どうする?」
「さっきのアホ……もとい、君のバ……婚約者だが」
「やだ。もしかして聞いてらした?」
すっかりいい気分だったのが台無しだ。けれど、さっきのあの背中を思い出しても、それほど胸は痛まなかった。目の前の青年が、彼のことをアホだと言ったからかもしれない。
「それほど聞いていない。せいぜい『本当だよ。君の方がずっとかわいいし』からだ」
「私もそこから聞きましたわ」
悲しくはなかったが、今度は少し腹が立ってきた。大体、なぜこの男に自分の極めてデリケートな問題に口を挟まれなければならないのか。
「アーカーソン様には関係ないことなのでは?」
「確かにそうなのだが。君があの男との婚約をやめにするのなら、是非にお願いしたいことがある」
「お願い?」
ここで初めて、マデリーンは彼が何かしら目的をもって自分に近づいていたのだと知った。
「何でしょう?」
少しばかり身構えて尋ねると、彼はマデリーンに向き合って言った。
「マデリーン・アッシュフィールド。どうか、うちの事業に参加してくれないか?」
本編より二年前の話。名前だけ出てたあの令嬢とお兄様の話。
ヴィクトール兄さんは実はコミュ障気味でした。




