その父と母も知っているはずじゃ
シャルル・ラウデールは、エゼルダーム王国からアルストツカに来た旅人。三百年前の戦争について調査をしていた。
────汽笛が聞こえる。
外は寒いのだろう。曇った窓の中で、暗闇に溶け込むことのない白くて淡い光が流れていく。窓の下にあるソファが赤い色で自己主張していた。上から射す光は、精巧な造りをしたランプによるものだ。汽車の揺れに合わせて、右へ左へと忙しい。
シャルルの手ほどもない大きさの、一枚の切符。なめらかな淡黄色は、羊皮紙ならではの質感と色だ。そこに行き先を記した文字が並び、残った右半分のスペースに、帝国の国章が描かれている。
大鷲が地を掴み、兵士が腕を交錯させ服従を表していた。
トントン……
控えめなノック音が聞こえた。扉の下の隙間から黒色の革靴が垣間見える。
車掌だろうか。
「どうぞ」
入ってきたのは三十代前後の細身の男だった。黒色の革帽子に、白のワイシャツの上に羽織った同じく黒色の上着と、ズボン。先ほど見えていた靴と合わせて、全てが黒系統に合わせられている。
腕には、帝国の腕章が巻かれている。
おそらくそれがアルストツカの制服というものなのだろう。そして、それらはまるで新品のように美しく、それに皺一つなく着こなされている。
男は何かを言おうとして、少女の手に持っているそれに気付く。
「拝見します」
男に見えるように差し出した。
切符を受け取った車掌は納得すると、滑らかな所作で少女に返した。
「それではよい旅を」
シャルル・ラウデールは開けた草原にひっそりと佇む寂しい村で育てられた。
眼下には谷間の畑や牧草地が緩やかな段々となって海まで続き、弧を描くラチ川に沿って、町がいくつか広がっていたが、振り返ってみれば、そこにあるのは森ばかり、そしてその先には雪を被った岩の尾根が見えた。
シャルルという名は母親が付けてくれたものだったが、彼女が娘に残したのは、この名前と命だけだった。ある大嵐が過ぎ去った朝、ラチ川に流れ着いた木箱を開けると幼いシャルルが顔を出した。彼女を可哀想に思った町に住むラウデール夫妻が引き取り、シャルル・ラウデールと名付け育てた。
父のオーウェン・ラウデールは、エゼルダーム公国に仕える料理人で裕福だった。ラウデール夫妻はシャルルを町の学校に通わせたが、シャルルはしょっちゅう授業を抜け出しては、深い森の中をほっつき歩き、流れが速くて、水の冷たいラチ川の淵で泳いだり、森を抜け、絶壁や斜面をよじ登って、尾根に立つなどした。
学校を落第の一歩手前で卒業した後、シャルルは母のルナ・ラウデールが営むレストランの看板娘として働いた。
金髪碧眼、スタイルもよく美貌に優れていた為、男達の人気は高かったが、仕事は殆ど「看板」で、客がいなくなると店の裏にある畑で農作業をしていた。
世にある欲や力について全く無知のままに生きたシャルルが一五歳になったある日のこと、彼女は荒れた畑に何やらぶつぶつと喋るおじいさんを目にした。
老人はさらに一言唱えた。
その呪文の一言で、何もない荒れ地から大きな杉の木がむくむくと立ち上がっのだ。
翌日、畑仕事と「看板」の仕事を終えたあと、シャルルは早速、例の呪文を若い杉の苗木に向かって投げかけてみた。
その意味も、どこの国の言葉かも、もちろん全く知らないままに。
アクトス・トステム!!
シャルルの声は山の斜面に響き渡った。
たちまち杉の苗木はシャルルの身の丈を越して、木の根元はどんどん太くなっていった。
シャルルは思わず声を上げて笑った。
しかし、止まらない。
杉の木が町の大きな大聖堂の高さよりも大きく感じると、急に怖くなった。
街全体を大きな影が覆い、住人たちは一斉に杉の木の麓へと飛び出した。
飛び出してきた人々の中にはあの老人も入っていた。
老人は杉の木に向かって一言つぶやいた。
とたんに杉の木は小さく萎み枯れだした。
しまいにはシャルルの腰ほどの高さになり元に戻った。
「おいで」
動揺する町人を横目に、老人はシャルルを呼んだ。
彼は一人きりで住んでいる自分の小屋にシャルルを連れていった。
その小屋には普段決して近所の子供を入れなかったが、子供の方も怖がって誰一人近寄ろうとしなかった。
屋根の低い小屋は窓もなく薄暗く、薬草の匂いが立ち込めていた。
老人はいろり端にあぐらをかいて座ると、羽織っていたケープを脱ぎ、シャルルを見やった。
あの時なんと言ったのか、その言葉の意味は分かっていたのか、と聞いた。
もとより、シャルルには何も分かっていない。
それでいながら、まじないをかけて、杉をあれだけ大きくさせたのだ。
それを知った老人は、彼女には人並み外れた力が備わっているに違いないとみてとった。
これまでは、老人にとってただの村の少女、というだけだったが、今、全く違う目でシャルルを眺め始めた。
そして、自分のつけている銀の指輪をシャルルの真っ白で繊細な指にはめた。
すると指輪に付けられた宝石が赤く輝き、熱を持ち始めた。
「お爺さん、壊れそうだよ。外していい?」
老人は聞く耳など持たず、目を丸くしてそれを見つめた。
とうとう宝石は耐えきれなくなり、シャルルの指の上で砕け散った。
「何という名だ…?」
老人はようやくシャルルの方を向いた。
シャルルは自分の名前を答える代わりにその老人の名前を聞いた。
「オキシド。大賢者として世界中を旅している」
「大賢者?」
「賢者の石の使い手。自然の力を宿す者」
「賢者の石?」
「お前さんたちが言う、いわゆるアルケミストじゃ」
「アル…」
シャルルは、口をつぐんだ。
「何をバカな事を、そんな事をしても何も変わらんわい」
「人の思っている事がわかるの?」
「神殿でわしの手ほどきを受ければな」
「その…神殿はどこにあるの?」
シャルルはずっと気になっていたことについて聞いた。
「陸の孤島アデルの断崖にある」
シャルルは、そのアデルという場所を、必死に想像してみた。
しかし、断崖という言葉からまず、困難の二文字が頭に浮かぶ。
「そんな難しい方法じゃない、ただ上を目指すのじゃ」
「上を目指す?」
シャルルは、目をパチクリさせた。
「崖を登るのじゃ」
「飛行船やら下らんおもちゃじゃ、神殿へは行けないからな」
シャルルから質問が無いのを待って、オキシドは続けた。
「お前さんが秘めたとてつもない力についてはよく分かった。軍が来てしまうから、明日にはアデルへ出発しよう。だから今日は早く寝なさい。」
「でも父さんと母さんがいるから…」
「その父も母も知っているはずじゃ、お前さんに何故、アルケミストの素質があるのかを」
鈍い音を出して、黒い巨体は速度を下げた。
アルストツカで最も大きな駅につくと、くたくたになった身体を休めるように完全に停止した。
古い故郷の記憶を辿っていたシャルルは、夜が明けたばかりの日の出に起こされた。
たった一つの荷物である革製トランクを持ちあげ、まだ熱い蒸気が立ち昇る列車を降りると、すぐに入国審査。促されるまま、窓口まで出向く。
「おやおや、齢16歳のお嬢さんには、列車の旅は辛かろうに」
手渡した切符と身分証を眺めながら、受付の老爺が優しく労いの言葉をかけてくれた。
「ありがとう、お爺さん。でも、私どうしても飛行船は好きになれなくて」
駅を出て、帝国広場に着くと、深く深呼吸した。
戦争の産物である蒸気飛行船が、無数に浮かび、彼女を見下ろす。
アルストツカ中心部の巨大な建物群が、彼女を囲む。
アルストツカでは、毎日の様に巨大建造物が建てられ、壊され、さらに奇怪な建造物へと育っていく。
その荘厳さといったら、見る者全てを魅了しただろう。エゼルダームの様な高貴な装飾は削がれ、もっと簡素な美意識に基づいて修繕される。
ちょうど目の前を、帝国軍の出兵行進が横切った。
硝煙をあげて、ゆっくりと進む歩行兵器。
アルストツカ帝国の腕章を付け、自動小銃を持った兵士たち。
どこへ行くのかシャルルには、知ったこっちゃないが、行進を見物する人々の熱狂ぶりには驚かされた。
帝都から目的地のアデル島までは、また列車に揺られて二時間半、そこからアデルの断崖を登らなければならないため、単純計算で半日かかる。
三年前の今頃、シャルルは、オキシドと一緒に、あのアデル島に訪れた。
もしかすると、あの人に会えるかもしれない。