…のその先は
軽く読んで下されまし
「シルビア!!
今日をもってお前との婚約を破棄する!!」
隣国の皇太子シリウス様を招いての晩餐会の会場で私の婚約者である第3王子カール様が叫ばれました。
カール様の後ろにはカール様と共に社交界の話題の中心になってる男爵令嬢のマリアンナさんの着飾った姿も見えます。
これはもしや噂の?
カール様と私は同じ年でこの春学校を卒業したあと結婚する運びとなっていたのですがこれでは…。
「これは王子としての命令だ!」
凍り付く、を居合わせた皆様が体感した一瞬でした。
半年前カール様の言動がおかしくなってきた頃からこの展開の予測はしていましたので驚きは有りませんが周りの視線が痛いです。
婚約者の私のエスコートをしないでマリアンナさんの手を引くカール様から、近くに居た人たちが不自然にならないよう離れ始めました。
幸いなのは移動する大半の視線が私を哀れんでいた事でしょうか。
少数『欲望』を面に出してる令嬢も居ますがそちらは無視で良いでしょう。
場の雰囲気は『静観』を決めているように見えます。
きっとお招きしたシリウス様次第、でしょうか。
扇越しにお父様を見ると、お父様はカール様の父親である陛下を目を細めて見ていました。
お父様、怖いです。
先日お父様ともしもの話をした時に、もしカール様が心変わりをなされたら…『シルビアはどうしたい』と聞かれて、カール様に恋する気持ちは有りませんので『婚約を白紙に戻したい』と希望を伝えました。
そのもしもが現実になってしまいました。
この先どんな結果になっても、お父様に全てお任せする覚悟は出来ているつもりです。
陛下の横にいらっしゃったお妃様は額に手を当てて椅子に座り込まれました。
末の王女様が駆け寄られましたから心配はないでしょう。
本来なら、この晩餐会はシリウス様と年頃になられた上2人の王女様のお見合いの席でしたがこれでは立ち消えでしょうか。
お父様が陛下を睨んでるのも半分はその事が有るからなのです。
隣国との国境を守るお父様の仲立ちで今夜の晩餐会が開かれました。
それをカール様が台無しにしようとしてるのですから怒らない方が不思議です。
シリウス様はと見れば、自然な仕草で口許を隠されて笑いを堪えておられました。
あのお顔は楽しんでおられます。
私の災難ですからなお楽しいのかもですね。
「カール様は、我が娘との婚約を破棄したいと言われるのですな」
1番に動いたのはお父様でした。
「そうだ。私の愛するマリアンナに嫉妬し怪我をさせたんだぞ!幸い近くに居た者が助けたから大怪我にはならなかったが、もしそうなったらお前ごと厳罰にしてやる!!」
カール様は顔を真っ赤にして怒鳴っていらっしゃいます。
そんなカール様をマリアンナさんがうっとりと見て…はいませんでした。
マリアンナさんの視線はシリウス様に向けられていたのです。
会場に不穏な空気が流れ始めました。
私と同じくマリアンナさんの視線に気付いた令嬢たちが扇で口許を隠してマリアンナさんを非難の目で見ているからです。
マリアンナさんの無作法な行いから婚約が破談になったり、なり掛けた令嬢が何人も居ますから新しい標的を見付けたかのような目線が許せないのでしょう。
それに…『あの豪華な衣装…』『あの宝石も』『まさかカール王子が?』更には『辺境侯も舐められた者ね』とひそひそと話す声が聞こえていて、出来る事なら耳を塞いでしまいたいほどでした。
「私を厳罰に、ですか」
お父様は冷笑を浮かべてカール様を見返します。
「愚かな子は国を危うくなさりたいようで」
カール様から視線を動かさずお父様は言いました。
誰に向けた言葉なのか、理解した時は背中が冷たかったです。
「脅しても無駄だぞっ!父上。こいつに厳罰を与えて下さい。王子である僕を親子で馬鹿にしているのですよ!」
陛下はカール様を見ていましたが何もおっしゃいませんでした。
「父上っ!」
陛下が動かないと知ると、カール様は衛兵に向けて命令しました。
「この親子を捕らえよ!」
思わず扇を握りしめてしまいました。
私の周囲には仲好くしてくれる令嬢たちも居ます。
彼女たちを危うい目には会わせられません。
困惑している衛兵たちの方へ1歩足を踏み出しました。
「不愉快だ」
私の前へと素早く動いてきたシリウス様が阻止するように立ち塞がってしまいました。
衛兵たちの立ち往生している様を見て、お父様が陛下に確認しました。
「この婚約は『破棄』でよろしいですな」
怒っているのがその口調で伝わってきます。
慇懃無礼に一礼して退出しようとするお父様を陛下が止めました。
「待たれよ『破棄』は認めぬ」
会場がどよめきます。
明らかにカール様の不実な行いは陛下のお耳にも入っているはずなのに陛下は『認めぬ』とおっしゃったのです。
どよめきをよそに出席していた側近の公爵、侯爵の当主の方たちはホッとした顔をして互いに頷き合っていました。
このままお父様を帰してしまっては国の危機になってしまいますから当然かもしれません。
『チッ』
広い背中から?
空耳、ですよね?
お父様は何故か黙って陛下を見ているだけでカール様も陛下を見ています。
息が苦しくなる沈黙が1分くらいあって、どうなるのかと思っていたら陛下が沈黙に負けてお応えになりました。
「辺境を守るそなたはこの国の守りの要手離すわけにはいかぬ」
言ってしまってから陛下は苦渋の顔で口を閉しました。
「私もそう思って今まで支えて参りました。亡き父と前王との親交を思えばこそでした」
お父様はカール様を見て淡々と言葉を続けます。
「ですが、これを機に仮の爵位を返還致します」
お父様の爆弾発言に陛下と側近の数名が凍り付きました。
残りの大半はキョトンとしています。
陛下から何も知らされていないのですからその反応は当然では無いでしょうか。
今更ですがこの時代の国の始まりはいくつかの領地の集まりでした。
国を広げるためには新しい領地を攻めて降参させて国に加えていくのです。
勿論反発する領地もあるので国の境界線は歪になりますが一応これで国の形が出来上がります。
そして、時代が流れる間に領地の境があやふやになりいつの間にか個々の領地が国の領地、国領になっていきました。
その国領を陛下から爵位を授かって治めるのが貴族なのです。
例外は我が家のようなパターンでしょうか。
小さい頃に聞いたお話だと代々我が家系はどの国にも属さないとか。
たゆまぬ訓練でそれだけの武力を備えているからこそ可能な話なのだとお父様から教えられました。
お父様のお父様にあたるお祖父様とこの国の前王とは親友同士で自分が生きている間はこの国を支える約束をなさったそうです。
負けたわけではないので臣下にはならず形だけ侯爵の爵位を受けたのだとか。
前王がお亡くなりになる時に重ねてくれぐれもと頼まれてお祖父様も断れなかったそうで、後々揉めてもいけないので自分の代だけは約束なのでこの国を守り次の代はお父様の意志に任せると互いに誓約を交わされたと伺いました。
その立会人としてお祖父様と友好関係にある国々の大使も参列したそうです。
国からは公爵、侯爵の当主の方々が参列したと聞いています。
伯爵より下の貴族はその事を知らされておりませんでしたのでたまに夜会などで『田舎者が』とお父様をあざける方がいらっしゃいました。
その声にもお父様は堪えてこられました。
それはお祖父様がお決めになった私とカール様との婚約があったからでした。
「下手な脅しを掛けても無駄だぞっ!国境の1つや2つ私が守ってみせる!父上。早くこいつに厳罰を与えて下さい。王子である僕を馬鹿にしているのですよ!」
お父様の言葉に激怒するカール様が腰の剣に手を掛けようとした所でシリウス様が言いました。
「それを抜いたら我が国と全面戦争になるが、それで良いのだな」
カール様は剣に手を掛けた姿でギョッとして固まってしまいました。
情報ではシリウス様は知性派で穏やかな人柄だと伝わっていましたからまさかの展開です。
「懇意にしている辺境候の招待でなければこの話は受けなかった。その辺境候を害する者は私の敵でもある」
カール様はシリウス様が何を言っているのか分からない顔をしていましたが何かに思い当たったのか助けを求める目で陛下を振り返りました。
「気が高ぶって言い過ぎた事は息子から謝罪させよう。許されよ」
陛下が横柄な仲裁に入りました。
それを聞いて、私は内心ハラハラしておりました。
流れている情報と違いシリウス様は怒らせると怖い方なのです。
それに、陛下はこの国の国力を他国へ自慢していますが、『冷静に隣国と我が国の国力を比べると戦争をしてこの国が勝てる可能性は限り無くゼロに近い』と学校の歴史を教える先生がおっしゃっていました。
「謝罪は私にではなく辺境候にすべきでしょう」
シリウス様のにべもない返しに陛下の顔が微かに歪みました。
そのお顔から『屈辱』の2文字が読み取れて胸が痛みます。
これまでも幾度か陛下はお父様を家臣と見ているのでは?と感じる時が多々ありました。
やはりそれは思い違いでは無かったのだと感じます。
それを今まで耐えてこられたお父様のお気持ちを思うと切なくてなりません。
見守って居ましたが陛下は言葉を濁すように横を向かれました。
大臣を勤めている公爵の方が陛下に耳打ちされますが陛下は頷きませんでした。
その光景をぼんやり見ていた私なのですが、前からの押される空気で現実に返りました。
視線をシリウス様の背中に戻しますとゆらゆらとかげろうのように怒りが揺れているのが見えました。
お止めしなければ。
「シリウス様」
思わず小さくお名前を呼んでしまいました。
シリウス様のお名前を口にしたのは初めてで言葉にして直ぐ後悔しました。
自分に課していた決心が言葉にした事で崩れてしまいそうになります。
泣きそうになるのを懸命に堪え扇でうつ向いた顔を隠しました。
「シルビア姫」
シリウス様の背中から怒りが消え小さく名前を呼ばれた時の幸せをどう表せば良いのでしょう。
このひとときの思い出を大切に胸に抱えてこれからの一生を生きていけます。
『…お慕いしております』
けして口に出来ない禁句を噛み締めて目を伏せました。
「家臣に謝るなど出来るか!俺は王族だぞっ、この国の第3王子だぞっ!」
陛下の態度を見てカール様は強気になったようでした。
カール様の『家臣』の言葉が私の胸に刺さります。
陛下はカール様に話されていないのでしょうか。
「そうだ、そうだっ!」
少なくなったカール様の取り巻きが声を張り上げます。
それを援護射撃と思ったのかカール様はシリウス様を指差しました。
「後ろのシルビアを引き渡して貰おう」
カール様が衛兵を急かします。
「お前が呼び捨てにしていい方ではない」
シリウス様に睨み付けられ衛兵は困りきった顔を陛下に向けますが陛下はお応えになりませんでした。
「たかが侯爵の娘をなぜ庇う。ああそうか、シルビアが大国の王女と親密だからか?そのお陰でお前の姉は大国に嫁ぐんだからな」
前から感じる空気からふわりと怒りが薄れた気がしました。
不思議でしたがこの場を思えばホッとした気持ちになります。
「相手をするのが馬鹿らしくなるな」
シリウス様は肩をすくめて陛下とお父様を見ました。
「愚かな子を持つと国が滅びる」
シリウス様は大きな出窓に向かって指を鳴らされました。
「何をしたっ!」
シリウス様の行動に過敏な反応を見せるのはカール様でした。
シリウス様に掴み掛かろうとするのを衛兵が必死に止めます。
ここでカール様がシリウス様に切り掛かれば隣国との戦争になりかねません。
大国と隣国との関係を思えば衛兵の判断は正しいでしょう。
「伝令を飛ばしたまで。この国での辺境候の扱いを父王と大国に居る姉も心配していたからな」
淡々としたシリウス様の言葉に陛下がお顔を上げられました。
側近の方々も顔を歪めて陛下とシリウス様を交互に見ています。
陛下が対応を間違えば外交問題になるでしょう。
「取り消せっ!」
カール様がシリウス様に向かって怒鳴ります。
カール様を動かしているのは上から目線のシリウス様への対抗心だけで陛下や側近の方々が緊張したわけは理解しておられないでしょう。
そんなカール様をシリウス様は平然と見返されていました。
「まさか、婚約の事も」
大臣の公爵様は真っ青になってシリウス様に訪ねました。
「勿論だ。特にカール王子の言葉は倍の大きさで送れと指示しておいた」
シリウス様の言葉に大臣は膝からがっくりと力尽きたようにしゃがみこんでしまいました。
前王とお祖父様との約束は他国では周知の事実ですのでもしこの国からお父様が退いたと他国に知られれば、外交は厳しい立場に立たされこの国は他国からの侵略の危機に晒される可能性も出てきてしまいます。
「大臣は何をそんなに嘆かれるのか」
遠巻きにしていた貴族の中から伯爵の1人がそう呟きました。
それを聞いて、シリウス様は周りに聞こえるようわざと声を出して笑われました。
「この国の王の例えを使って答えるならば『この国の守りの要が消えた』カール王子の軽率な一言でな」
「守りの要が消える?」
呟いた伯爵がシリウス様の言葉を繰り返します。
遠巻きな中から『有り得ない』とか『陛下に逆らうのか』とか聞こえてきました。
「陛下。カール王子と娘の婚約は破棄でよろしいな」
お父様が冷静に言いました。
居合わせた全部が陛下に注目しています。
「…ならぬ」
少しの沈黙のあと陛下は苦しげにお答えになりました。
お父様の顔に苛立ちが見えます。
カール様のように一方的に宣言しても婚約の破棄はできないのです。
幼いながら、私にも神の見前で導かれるまま誓った記憶が残っています。
今は悔やんでいても、それほどに婚約の誓いは神聖なのです。
初めてシリウス様にお逢いしたのはお祖父様に同行して隣国を訪れた時でした。
私は8歳、シリウス様は10歳でした。
「シルビアと申します」
シリウス様に淑女の礼をした時の緊張は今も忘れられません。
そして…気付くのです。
私にはお祖父様の定めた婚約者がいるのだと。
諦めるしかない…諦めなくてはいけない。
誰にも気付かれないよう唇を噛み締めました。
せめて婚約の儀式がシリウス様と出会った後なら…。
「何故ですっ!私はシルビアとの婚約を破棄してマリアンナと結婚したいのですっ!」
カール様が堪えきれないように叫ばれました。
それまでカール様の後ろにいたマリアンナさんがふらふらとシリウス様に近付いて来ます。
その顔は満面の笑みを浮かべていてシリウス様しか見えていないようでした。
自信に満ちているマリアンナさんの表情に狂気が見えた気がして、不安な気持ちが沸き上がります。
もしやシリウス様まで…。
想像するだけで胃がきゅっと締め付けられました。
シリウス様が退ける前にカール様が気付かれてマリアンナさんの手を掴まれました。
その動作で私だけでなく周囲の令嬢も納得した顔になりました。
私の位置からでは見えてませんでしたが、きっとカール様がマリアンナさんの手をずっと掴んでいたのではないでしょうか。
それが先程の大声で離してしまいマリアンナさんはシリウス様へと近付いたのだと思います。
「これでも認めないと?」
お父様はカール様を一目見て、陛下に短く言いました。
「カールには心を入れ換えさせる」
陛下の嫌々言っている空気が伝わってきて、いたたまれなくなりました。
カール様と私との婚約が白紙になればお父様はこの国との関わりを迷わず切るでしょう。
そうと分かっているからこそ、陛下はこの国のために国防の要のお父様を引き止める口実の婚約の解消をお認めにならないのです。
1分でも早くこの場から離れたい。
心の中はその気持ちで一杯でした。
「待て、悪いのはシルビアだっ!」
お父様と陛下の間に割って入るようにカール様が言いました。
誰も驚きでリアクションが取れません。
私もポカンとカール様を見てしまいます。
「みんなも聞いてくれ。シルビアはマリアンナを階段の上から突き飛ばして殺そうとしたんだ!」
遠巻きにする貴族たちの波にどよめきが起こりました。
ひそひそと『本当なの?』とか『寝とられた嫉妬か?』とか酷い言葉が聞こえます。
羞恥で耳たぶまで赤くなっているのが自分でも分かりました。
懸命に堪えても体の震えを止められなくて、手のひらに爪が食い込む痛さが辛うじて私を立たせていました。
「それは何時の事だ」
陛下がカール様に聞きます。
お父様を引き止める口実にしたい、と陛下の声は教えていました。
カール様はそうとは知らず目を輝かせて言いました。
「一昨日の昼です」
カール様の返事を聞いて陛下はがっかりした顔をされました。
一昨日…つい目の前の広い背中を見てしまいます。
「俺に感謝しろよ」
シリウス様の背中が小さく揺れて微かに笑う声が聞こえました。
「何時頃の話だ」
今度はお父様が尋ねました。
「昼食の後一休みして教室に戻る途中だった」
お父様にぞんざいに答えたカール様が陛下に訴える目を向けました。
陛下はカール様の期待を振り払うように手を振られ話を終わらせようとなさいましたがカール様は承知しませんでした。
「父上っ!証拠もありますっ!マリアンナを突き飛ばした奴が落としていったペンダントですっ」
カール様は陛下に向けてポケットから出した物を見せました。
「あれは…」
思わず身を乗り出してしまいました。
カール様の手には祖母の形見が握られていたのです。
動揺してお父様を見てしまいました。
お父様も私を見ています。
何故?
どうして?
寮の部屋の小さな引き出しに大切にしまっておいたはずなのにどうして何でなんでしょう。
大切なお婆様の形見がカール様の手にある事が信じられなくて、泣きそうになっていました。
冷静になって考えれば直ぐ分かる事なのにその時は犯人にされてしまう恐怖に潰されていて、お父様の唇が『任せなさい』と動くのを見なかったら取り乱していたでしょう。
お父様はカール様に訪ねられました。
「それは私の母の形見だが、どうしてカール王子の手にあるのか説明して貰いたい」
「これはマリアンナを階段から突き落とした者が落とした証拠品だ」
カール様は意味有り気に笑って私を見ました。
「シルビア!お前が逃げる姿を証人が見ているんだぞ、素直に白状しろっ!」
カール様の声は高過ぎてキーンと耳鳴りがします。
私も片手を耳にあて眉をしかめてしまいました。
「カール王子、あなたの話では説明不足だ」
お父様より先にシリウス様がカール様に尋ねられました。
「マリアンナとは誰で、何時何処で何があったのか、順序立てて話せ」
「私も説明をお聞きしたい」
命令口調のシリウス様の後からお父様も聞きます。
カール様は不服そうにシリウス様とお父様を睨んでから話始めました。
「マリアンナは私の横の女性だ」
カール様は空いている方の手でマリアンナさんを指しました。
「事件は一昨日学校で起こった」
一昨日、一昨日ならきちんと弁明が出来ます。
ホッとしている顔を扇で隠しました。
「彼女も学生なのか?」
シリウス様が確認するように聞かれました。
「そうだ、私は3年でマリアンナは1年だ」
名前を呼ばれたマリアンナさんはシリウス様の方へ駆け出そうとしてまたカール様に引き留められていました。
「それで、事件とは?」
シリウス様がカール様を促します。
「その詮索は今で無くてもよかろう。客人が帰られた後に改めよ」
シリウス様を押し止めるように陛下が片手を上げられました。
多分ですが、陛下はシリウス様を通して醜聞が外へ流れるのを阻止したかったのではないでしょうか。
ですが陛下の声にもシリウス様は譲ろうとはなさいませんでした。
「いえ、私もはっきり聞かせて貰いたい。続けて」
シリウス様は構わずカール様を目で促されました。
さらりと流された陛下の苛立ちがここまで伝わってきて、無意識に一歩下がっていました。
友人たちも恐ろしかったのでしょう、同じく下がってしまってました。
「一昨日の昼過ぎ、昼食の後教室に戻る時シルビアが階段の上で待ち伏せしてマリアンナを突き落としたんだ」
「一昨日。その日に間違いは無いのだね」
お父様がカール様に何回も確認します。
「しつこい」
「大切な事だから聞いているんだ」
お父様は不機嫌なカール様に「間違いないか」もう1回確認してから私に頷きました。
私もホッと胸を撫で下ろします。
でも、誰が私の部屋からお婆様のペンダントを盗んだのかは分かっていません。
誰か知らない人が私の部屋に…そう思うと気味悪くて今夜部屋へ戻るのが恐ろしくなってしまいました。
「それで、落ちたのは何段くらいだ?」
シリウス様の問いにカール様はムッとした顔で答えられました。
「上から下までだっ!」
「普通の階段なら10段はあるだろう。それで怪我も無しか。よほど運動神経が良いんだな」
シリウス様はカール様に感心している顔を向けられました。
「幸い軽い捻挫で済んだがもしかしたら大怪我になっていたんだぞっ!」
カール様が怒った顔で怒鳴られます。
それを平然と流してもっとシリウス様が尋ねました。
「その場を誰か見ていたのか?」
カール様は少ない取り巻きの1人を指差されました。
「彼が逃げるシルビアとぶつかって、その時落としたペンダントを拾ったんだ」
「確かにシルビア姫だったのか?」
シリウス様の問いに彼はおどおどしつつ頷きました。
「大切な事だからもう1度聞く、確かにシルビア姫だったと証言するのか」
聞かれた彼は逃げ腰でもう1回頷きました。
「偽証の罪の重さは分かっているな。証言を変えるなら今だが」
自信に満ちたシリウス様の言葉に彼は後ずさりしてみるみる表情が引き吊ってその場にしゃがみこんでしまいました。
目の前の背中からでもシリウス様が彼を睨んでるのが感じられて、思わず『お止めください』とお願いしそうになりました。
「おいっ!」
そんな彼をカール様が怒ります。
それでも彼は立ち上がれないようでした。
「卑怯だぞっ!」
カール様がシリウス様に避難の言葉を投げました。
シリウス様はきっと目を細めてカール様を見返しているのではないでしょうか。
鋭いシリウス様の視線が思い出されて体が震えてしまいます。
「君は彼が真実を話す機会を奪ったようだな」
「シルビアを捕まえられたら対面に関わりるか?お前の案内人はシルビアだからな」
カール様は皮肉を混ぜてシリウス様に返しました。
「分かっているじゃないか。シルビアに彼女を突き落とす事は不可能」
「誤魔化すのかっ!こっちには証拠のペンダントがあるんだぞ」
シリウス様とカール様の間で噛み合わない会話が数回行き交いました。
「分からない奴だな。いいか、昨夜俺たちを案内してこの国に戻ったシルビアに前日彼女を階段から突き落とす事は出来ない、と言ってるんだ」
「…え、あ…」
やっとカール様もお分かり下さったように見えました。
「嘘だ、彼は確かにシルビアだったと」
カール様はぼそぼそ呟きながらしゃがみこんでる彼を見ます。
彼はぶるぶる震えて必死に違う、違うと首を振っていました。
「説明しろっ!!」
カール様は顔を真っ赤にして怒鳴りました。
それでも彼は『違う』としか言いませんでした。
「俺に恥をかかせたのかっ!!」
カール様が彼に掴み掛かりましたが誰も止めません。
カール様の彼を罵倒して殴る音が聞こえてきて、咄嗟にシリウス様の上着の裾につかまってしまいました。
「助けてっ、助けて。マリアンナに頼まれたんだ、上手に言えたらデートしてくれるって言うから。僕はマリアンナの言った通りにカール様に話しただけなんですっ」
彼は必死に言うと他の取り巻きの後ろに逃げ込みました。
切迫した彼の表情や言葉はとても嘘を付いているようには思えません。
きっとマリアンナさんの一人芝居だったのでしょう。
カール様は逃げた彼を追い掛けないでマリアンナさんを呆然と見ていました。
その表情には『まさか』や『もしや』や『もしかしたら』が混じりあっているように見えて、カール様が可哀想に思えました。
「カール私を信じて、彼が嘘を付いているの。私は知らない…」
マリアンナさんは悲しそうにうつむいて肩を震わせています。
それなのに、カール様はマリアンナさんを慰めようとはなさいませんでした。
見かねた取り巻きのお1人がマリアンナさんの肩を抱いて慰め始めます。
カール様はそんな2人をじっと見ていました。
「カール様」
マリアンナさんを慰めなから、その方は避難の目線をカール様に向けます。
カール様はその視線を憎々しそうに睨み返した後シリウス様を見ました。
そして、何かを決意なさった顔で手を離すとドン、とその方の方へとマリアンナさんを突き飛ばしました。
「カール…」
悲しそうなマリアンナさんにカール様は言いました。
「何度も周りから『あなたは彼女に騙されてる』と忠告されてきた。それを今まで信じないできた。他の男に色目を使い、そいつに肩を抱かれて拒まない君を見て分かった。彼らが正しかったと」
カール様は悔しそうにマリアンナさんを見て迷わず陛下の元へと歩き出されました。
「婚約破棄は無効、良いな」
陛下がもう決まった事のように強引に宣言されました。
側近の方たちの顔にも安堵の表情が浮かびます。
私は…扇で顔を隠しきつく目を瞑りました。
これが私の運命なのだと自分に言い聞かせて目を開けました。
例えこの婚約が白紙になっても、現実に変わりはないのです。
いえ、もっと悪くなる事でしょう。
私に過失は無くても、『婚約を破棄された娘』に新しい縁談があるとは思えません。
何より破談になってお父様に心配を掛けるのだけは避けたいのです。
ならば…めくらになってカール様に嫁ぐのが私に与えられた運命だと思わなくては。
心を決めて、私はお父様に微笑んで見せました。
次にシリウス様とお目にかかる時を思うと胸が苦しくなります。
小さく息を整え、私を驚いているような苦い物を噛み潰したかのようなお顔で見ているお父様の方へと歩き出そうとしました。
「それならば陛下には約束を守っていただかねばなりませんな」
お父様の声に足を止めました。
陛下との約束?
お父様は陛下と側近の方々を順番に見ています。
「その話は後で良かろう」
陛下はお疲れになった様子で、面倒そうにお父様へ下がるよう手を振りました。
「それで私が下がるとお思いか。あなたの家臣と同じだとは思わぬ事だ」
お父様はきっぱり言い切ります。
驚きの表情の陛下のお顔が上がりました。
「辺境侯」
大臣が慌ててお父様をいさめます。
「カール王子の一件が片付いたら速やかに事に当たる約束でしたな」
お父様は構わず先を進めます。
「この場でする話でもありますまい」
公爵の1人もお父様を宥めるように言いました。
「この場でせずば意味が無い」
お父様は陛下の後ろのカール様を睨んでいます。
「カール王子、あなたは私の娘に一言の謝罪もしていない」
お父様の言葉に会場がどよめきました。
「一方的に冤罪を掛けられ、名誉を傷付けられた娘に対してカール王子だけでなくその父親である陛下からも一言の謝罪も無い事をどう弁明される」
「それも含めて場を変えてと言っているのだ」
仲立ちに入った公爵の苛立たしそうな声が会場に響きます。
「この場での正式な謝罪で無い限り娘の名誉の回復は有り得ない」
お父様は頑として引く姿勢を見せませんでした。
「謝罪の無い限りこれからのカール王子への援助は打ち切らせていただく。それと、この請求書の支払いは筋が違うので断った。今日にでもカール王子本人か陛下に請求が届く事でしょう」
お父様は数枚の請求書を仲立ちの公爵に手渡しました。
「なっ、何とっ!」
請求書を受け取った陛下は驚かれ今一度確かめるように請求書に目を落とされてから後ろに控えるカール様を見られました。
陛下にいきなり振り向かれて、カール様は目をぱちくりしています。
怒りに顔を歪ませて、陛下はマリアンナさんも見ました。
「衛兵っ!その女を捉えよっ!その女の家族も皆取り押さえ資産を差し押さえろっ!急げっ!!」
会場に響き渡った陛下の声に誰も反応出来ませんでした。
何が起こったのか、何も分からないざわめきが会場に溢れました。
「シリウス様~」
近くで女性の声がして、シリウス様は剣を抜かれました。
「きゃぁ」
シリウス様の周囲に風が起こって次に少女の驚いてるような悲鳴に似た声が聞こえてきましたが誰の悲鳴なのか考える余裕も有りませんでした。
色々な事が1度にありすぎて、私は現実に着いていけませんでした。
どれくらい時間が経ったのか分かりません。
気が付いたらぼんやりとシリウス様の背中を見ていたのです。
慌てて周りを見回しました。
それほどの時間は経っていないようなのでホッと胸を撫で下ろします。
次の瞬間脳裏にさっきのシリウス様を呼ぶ声が甦って、同時にマリアンナさんの姿が浮かびました。
まさか、本当にマリアンナさんの声なのでしょうか。
そう思うと急に不吉な予感が押し寄せてきました。
仲良しの令嬢たちも不安そうにシリウス様の背中に視線を投げています。
でも、マリアンナさんは…。
「いったぁーい」
考えあぐねていると少し舌ったらずな甘え声がシリウス様の前から聞こえて来ました。
ドキン。
驚きすぎて心臓が跳ねました。
やはりマリアンナさんが前に居るのでしょうか。
不安に負けてシリウス様の後ろからそっと前を覗いてしまいました。
やはり…シリウス様の前にはマリアンナさんが居て左の頬にスッとナイフか何かで切れた痕がありました。
マリアンナさんの後ろに衛兵の姿はありません。
見るとどうすれば良いのか分からずお父様の後ろで右往左往している姿がありました。
「去れ」
剣を抜いたままのシリウス様がマリアンナさんに言います。
「いや、私をあなたの国へ連れていって。もうこの国には居たくないわ。大国の皇太子も紹介してね、そうしたらたまにデートしてあげても良いわよ」
信じられない事を言いながらマリアンナさんは甘えるようにシリウス様の腕に掴まろうとして、そのまま急に動かなくなってしまいました。
「去れ」
マリアンナさんは恐怖に目を見開いてシリウス様を見上げているように見えます。
傷付いた気持ちでシリウス様の横顔を見ると、剣をマリアンナさんに向けて怖い笑顔で見下ろしていました。
ふっ…とシリウス様の手元に視線が吸い寄せられて…そこに見た信じられない光景に鳥肌が立ちます。
シリウス様が固まっているマリアンナさんの首から剣を離すと、マリアンナさんはプルプル震えて床にしゃがみ込みました。
うっすら血が滲んでいるマリアンナさんの首筋が見えて思わず悲鳴を上げそうになりましたが声が喉に張り付いてしまって空気が漏れるだけで言葉になってはくれませんでした。
余程怖かったのでしょう。
マリアンナさんは必死に後ずさりしてシリウス様から離れようとしている所を衛兵に捕まえられました。
その後の騒ぎは上手く言葉に出来ません。
お父様が請求書を陛下にお渡したあとの会場は滅茶苦茶でした。
居合わせていたマリアンナさんのご両親を捕らえるために近衛まで駆り出されましたので会場がどうなったかは想像できるのではないでしょうか。
あの日の夜、どうしても寮の自室に戻る勇気が出なくて都に居る時だけお父様が使われている屋敷に私も泊まりました。
今もその屋敷に滞在しています。
今回の騒ぎを調べるからとあの翌日から学校は休校になって寮も閉鎖になり生徒は家に戻されました。
校内でマリアンナさんに関わっていた方が予想以上に多いらしく短い時間では調べきれないからだ、とお父様が教えてくださいました。
マリアンナさんが何に関わっていたのかは返事を濁して教えてくれませんでしたが屋敷の使用人が『賄賂』『貢がせる』など口にしているのが聞こえていて、学校だけの問題では終わらない空気でした。
結局、カール様からの謝罪はうやむやになってしまったようです。
きっとこのまま春には婚姻の儀式が執り行われ、私はカール様の妻になるのでしょう。
1つため息を付いて、自分に言い聞かせるために目を閉じました。
この次シリウス様にお会いする時は…私はカール様の妻としてシリウス様をおもてなしししなければならないのです。
それから2日して、突然シリウス様が訪ねて来られました。
お国に戻られているとばかり思っていましたので小さな再開を心の中で喜びました。
お茶をお持ちして下がろうとした所をお父様に引き留められました。
会話の邪魔にならないようソファーの隅に座りました。
お父様とシリウス様の話はやはりカール様とマリアンナさんの話です。
カール様がマリアンナさんに色々買って差し上げているのはどうしても聞こえてきていましたから驚きもしませんでした。
「シルビアが思いもよらない額だ」
お父様はそう苦笑されました。
マリアンナさんは洋服だけではなくて宝石もいくつも望まれていたそうです。
「この程度の屋敷なら少なく見積もって10は買えるだろう」
お父様は軽く言いますが額が大きすぎて想像も出来ません。
お父様が請求書を陛下に渡されたのも当然に思えました。
晩餐会でマリアンナさんが着けていた衣装と宝石だけでも家からの援助では到底間に合わない金額だそうです。
「シルビアはマリアンナと面識はあったのかい?」
お父様に『無かった』と答えます。
言えば告げ口になる気がしてマリアンナさんが男性にばかり話し掛けていたのは言いませんでした。
「学年も違うから接点が無いか」
お父様はぶつぶつと1人で完結してしまいました。
「学校だが、当分の間休校になるだろう」
「当分…とは、?」
話の邪魔にならないよう短く聞き返します。
「教え手の半数が処分されるから補充が終わるまでだな。速くとも新学期になるだろう」
お父様の言う教え手とは先生方の気がします。
マリアンナさんと先生方が?
「確定ではないが、春を待たずに『卒業』の書類が届くはずだ」
その場では聞ける雰囲気ではありませんでしたのでそこでお仕舞いになりましたが、後日友人の令嬢から先生方もマリアンナさんに便宜を計ったり高価な贈り物をしていた、と教えられました。
「カール王子の事で聞きたかったんだが」
シリウス様が真面目な顔でお父様に尋ねられました。
「カール王子の生活を援助していたと聞いたが本当なのか?」
「ええ、この国では王になる長男と補佐する次男は税金から暮らしの資金が出て3男からは婚家に養わせるんです」
「まさか全部か?」
お父様の説明にシリウス様は驚いていました。
「基本王子の衣食住全てを婚家が用意します」
お父様は大雑把に指を折ってシリウス様に教えました。
カール様個人の部屋もカール様付きの召し使いの給金も婚家になる家が費用を出していたと聞かされて申し訳なさに下を向いてしまいました。
前回の晩餐会でも私とカール様の衣装を対になるよう宝石も合わせて造ったはずです。
「王子としての対面を保つには他にもかなりの額が必要だと思うが」
シリウス様は考える仕草でお父様の返事を待っていました。
「これ以上の話をシルビアの前でするのは酷だろう」
お父様は私を見て1度話を止めました。
それでもシリウス様の目力に負けて話を続けます。
「カール王子とシルビアの婚約は前王が是非にと望まれた。この領地は金を産む特産があると言う理由でだ。前王は孫の中でも長男の皇太子よりカール王子を溺愛していて生きているうちに一生困らないようにしたかったのだ」
お父様は吐き出すように説明しました。
「特産とは『絹』を指しているのか」
シリウス様が複雑な顔で言いました。
「1つ1つの行程を丁寧に行うから良品が出来る。当たり前の事が前王には金を産む金の卵にでも思えたんだろう」
「それだからマリアンナに買った物の請求を平気で辺境侯に送ったのか」
シリウス様は納得したように頷いていました。
「お陰で縁が切れた」
最後付け加えたようなお父様の言い方が気になりながら聞くことも出来ず静かに座っていました。
お父様とシリウス様が含み笑いをしながら私を見てきます。
見られるのに慣れていない私はおろおろと下を向きました。
「シルビア」
お父様が私の名前を呼びました。
ぎこちなく顔を上げると可笑しそうに笑われてしまいました。
「まだ分からないようだな」
「…何を、でしょう」
「カール王子との婚約は白紙になった」
「…え」
言われた意味が上手く掴めなくてお父様を見返しました。
「カール王子は宝石商から訴えられ廃嫡になった。今は王子ではなく平民のカールだ。ゆえに婚約は白紙に戻される」
「え…ぁ」
陛下が支払いを拒否したので宝石商はカール様を詐欺で訴えたそうです。
宝石商が訴えたと知れるとそれまで口約束でカール様に売っていた洋服屋や靴屋、帽子屋まで訴訟を起こして、その請求額のほとんどはカール様からマリアンナさんへの贈り物の代金だったそうです。
カール様だけでなくマリアンナさんの家族ぐるみ、いえ一族ぐるみでマリアンナさまに気持ちを寄せていられる方々に無心されていたとか。
学校の学生では自由になる額は限られていますが夜会で知り合う方には裕福な方も多く表には出ませんでしたが驚くほど大金が動いたと噂になりました。
陛下がマリアンナさん一族の資産を差し押さえた時には豪遊で半分も残って無くてカール様を助けられなかったそうです。
方々の中に学校の先生が含まれているのでしょうか。
ふと脳裏に晩餐会でカール様を見ていた令嬢の方々が思い浮かびました。
彼女たちの領地はどこも裕福で王家に繋がるカール様の婚約者の座を狙っていたはずです。
彼女たちならカール様を助ける事も可能だったのでは、その思いは後日友人の手紙にも書かれていました。
社交界の関係図を分かっている方は当然考えたでしょう。
ですが、私の予想に反してカール様を庇護しようとする方は現れなかったそうです。
負債額もですが社交界では醜聞を1番嫌います。
カール様を婿にして王家に繋がっても名誉にはならない、とどの家も令嬢の願いを取り上げなかったのだそうです。
そこへマリアンナさん一族の乱行が明るみに出て、カール様の取り巻きだった方々も婚約を破談にされたりと余波の波紋が社交界を揺らしました。
そして…マリアンナさんが大臣の質問に答えた記事が表に出てしまったのです。
本来極秘文書になるのではないでしょうか。
最初書き取っていた者が流したと疑われましたが、証拠も無く誰の仕業だったのかはどうしても分からずじまいでした。
その記事ではマリアンナさんが関わった方々の名前が文字になったばかりかカール様や取り巻きとのやり取りも明らかになりました。
マリアンナさんは最初取り巻きの1人に近付いて、その方からカール様に近付いたそうです。
記事の中で『カールと付き合う振りをしたのはシリウスに会いたかったからよ。本命?シリウスが本命じゃないわ。私の狙いは大国の皇太子よ』マリアンナさんはそう話していました。
更に『私は世界1可愛いの。だからみんな私の言いなり、見ていなさい直ぐに助けに来てくれるわ』そこで記事は終わっていました。
お父様はマリアンナさんに『厳しい刑が言い渡されるだろう』と難しい顔で言いました。
「父上がお前の婚約を決めた時私は深く考えなかった。王族1人養う余裕はあったし父上が前王に恩を売りたいのも分かっていたからだ」
お父様はその当時を思い出すようにゆっくり話されました。
私は…カール様のお話の事で信じられない思いに流されていたのでお父様を見ているだけで背一杯でした。
「それが失敗だったと分かった時は前王はみまかり父上は人の話を聞かない頑固な老人になっていた」
大きなため息を付いてお父様は更に先を続けました。
「前王は父上の親友の振りをしてこの国に父上を縛り付けた。今の王も私を利用できると考えて居たのだろう」
お父様は自嘲の笑いを浮かべて宙を見ました。
「ある時、私は2重に自分の考えが間違っていたと思い知らされた。王の都合の良い思惑と、もう1つはシルビアお前の婚約だ」
「私…の」
何が間違っていたのでしょうか。
視線を感じて、シリウス様が視界の隅に見えるくらい少しだけ身動ぎしました。
シリウス様は真剣なお顔で私を見ておいででした。
名前を呼ばれた記憶が胸の奥に閉じ込めた思いを思い出させます。
気づかれないよう視線を戻して目を閉じました。
カール様との婚約が白紙になっても、お父様が選んだ方と添い遂げるのが貴族の娘に産まれた私のつとめなのです。
知らずため息が漏れました。
図らずも今は『婚約破棄された娘』から『罪人の婚約者だった娘』になってしまいました。
おそらくもう普通の縁談は望めないでしょう。
本の物語のように神に仕える道があるのなら迷わず選びます。
「シルビア」
お父様に名前を呼ばれて、私は笑顔で目を開けます。
良くて『後妻』でしょうか。
そう心の奥で考えていました。
「はい」
「お前には辛い思いをさせた。家臣の娘だから何を言っても許されると思っていたカールによく耐えた」
「それは私よりお父様でございましょう。陛下にかろんじられても堪えてこられたのですから」
お父様の労って下さる言葉に胸が熱くなります。
お父様の選ばれた方に誠意を込めて寄り添おう。
泣いてしまいそうで、お父様に涙を見せてはいけないと顔を伏せました。
「シルビア正直におなり。2人の気持ちに気付いていても私には父上の遺言の方が重かった」
お父様は深く頭を下げられました。
「許しておくれ。理不尽な婚約破棄に、お前は微笑んでいた。それで気が付いた。何時からお前の笑顔を見なくなったのだろう、と」
「何をおっしゃるのですか」
私はにこやかな笑顔をお父様に向けました。
「シルビア」
お父様は後悔を滲ませて私を見てらして、私は答える言葉を見付けられませんでした。
「シルビア」
突然シリウス様に名前を呼ばれて、私はお父様から視線を外せませんでした。
何を言われても傷付くだろう自分しか見えなくて、この場から逃げ出したい衝動を膝に置いた両手を握り締める事で辛うじて耐えました。
「シルビア」
すぐ近くでシリウス様の声が聞こえて、きつく握りしめている手の上に暖かい温もりが重ねられました。
ビクン、と体が跳ねて反射的にシリウス様を見返してしまいます。
!!!
シリウス様は床に片膝を付いて私の手にご自分の手を重ねていらっしゃいました。
信じられない光景に不躾にもシリウス様の目を正面から見返してしまいました。
「辺境侯には求婚の許しは貰っている。私と結婚してくれ」
シリウス様の言葉につい笑いそうになりました。
何を言っているのでしょう。
いつも意地悪く私を見返して、冷たい言葉を投げ付けてくるシリウス様なのに。
からかうには酷すぎる言葉が深く心に突き刺さります。
「初めて出会った時俺は10歳だった。直ぐに父へお前と結婚したいと頼んだ」
シリウス様の話を笑顔を絶やさないよう気を付けて聞きました。
心がずきずき傷みます。
シリウス様を忘れさせるために神様がこんな酷いいたずらをシリウス様に仕掛けさせたのだと思うと無理に作らなくても笑顔になれました。
「その時お前にはもう婚約者がいて、それが隣国の第3王子だと知らされた」
シリウス様は怪訝な顔でその先を続けられます。
「俺がどれだけその婚約者に嫉妬したかお前は知らないだろう」
俺?
普段は私と表すシリウス様なのに不思議に思っても口には出来ません。
「お前が憎くて故意にけなしもした。離れれば忘れると一時は外交からも抜けた」
「…シリウス様…何を…」
言いたいのかと続けてようとしてシリウス様の強い目線に声が喉に詰まってしまう。
「結婚してくれ」
涙は見せまいと思うのに視界がぼやけて…消えてしまいたい。
「シルビア」
目の前がシリウス様のシャツの色になって、顔を押し付けられました。
「泣くな。このまま連れ帰りたくなる」
叶わない事を口にされるシリウス様に涙は止まりません。
皇太子のシリウス様の横に罪人の婚約者だった私が並べるはずもなく、絶望が押し寄せました。
お相手として一時は大陸の王女様の名前が上がっていたほどシリウス様は内外に認められている方なのです。
未だ婚約者はいらっしゃいませんが、シリウス様の横に並ぶ方は国民が認める方でなければ祝福されないでしょう。
悪い夢はシリウス様が帰られて終わりました。
切なくて、部屋へ戻っても泣く事さえ叶いませんでした。
話し掛けてくるお父様にあいずちを打ち言われるまま領地へ戻る仕度をしました。
お父様は陛下と、この国との決別を決められたそうです。
この先は独立した領地として他国との外交を展開されるのでしょう。
領地には2人のお兄様たちもいらっしゃるので先の不安はありません。
「領地へ戻るのは何年振りだ?」
「6年振りです」
私とお兄様たちは10歳以上離れているので兄弟と言うよりも叔父姪の関係に近いと思います。
私が学校へ入学するまでは領地で一緒に暮らしていました。
ぎこちないですがお兄様たちなりに幼い妹として大切にしてくださった記憶があります。
お兄様方には奥様もいらっしゃって、私が戻る事で気を使わせてしまうのではないかと帰る前から心苦しいです。
お父様に早く婚約者を決めていただかなくては…心の中にふわりと夢のような風景が甦りました。
今になっては本当に夢のような思い出です。
あれから…シリウス様はお出でになりません。
お父様のお話では見えられた翌日急いで国許へ帰られたそうです。
手紙も、何もありません。
からかわれたのだと知るのに3日も掛かってしまいました。
お父様の整理が終わって実際都を出たのは戻ると言われてから1週間も後でした。
都から領地までは馬車で5日、気持ちを心の奥に押し込めるには足りませんが無かった事として振る舞えるようになるには十分な時間でした。
領地では初めてお目に掛かるお兄様たちの奥様と子供たちに紹介されました。
甥や姪が産まれていたのを知らされていなかったのでお土産も用意していません。
一抹の疎外感にここに私の居場所は無いのだと教えられました。
その場を微笑みで取り繕い、一刻も早くお父様に婚約者を決めていただきたい、と初めて願いました。
お父様が予め知らせておいて下さったのか屋敷には私用の部屋も用意されていて兄嫁様たちの細かい心気遣いに感謝しました。
逆に『早く此処を出なくては』と思う気持ちも膨らみます。
自分の行く末に悩みながら元気な姪たちを見ていたら、心の中に『ピアノを教えて暮らせないだろうか』と突拍子もない気持ちが沸き上がりました。
もし出来るのなら…どこへも嫁がずひっそりと暮らます。
心は坂を転がるようにその思いに傾いていきました。
明日こそはお父様に打ち明けよう。
そんな空回りの日が5日も続いて、雨の降る肌寒い日にお父様へ来客がありました。
たくさんの荷物が運び込まれて、執事に似た服装の方がお父様と長い時間話し込まれていらっしゃいました。
屋敷の中がピリピリした緊張に包まれて、お茶を運ぼうと台所へ行くと上の兄の奥様が用意されています。
手持ち無沙汰で、目立たないよう部屋へと戻りドアを開けて…壁側に積まれている荷物に驚かされました。
動けないでいると、後ろに侍女のお仕着せを着た女性が2人控えていました。
「シリウス皇太子より預かって参りました」
そう言われても受け取れるはずもありません。
「お父様にお渡し下されませ」
読めば返事を返さなければならなくなります。
今はシリウス様を思い出す物から遠ざかりたい一心でした。
「今日からは私たちがシルビア様の身の回りのお世話をさせていただきます」
2人のうち歳かさの人が当然の顔で言います。
口調の端々に不満なのが見え隠れしていて、丁重にお断りしました。
「皇太子のお気持ちを無下になさるのですね」
棘のある言葉を残して、2人は執事のような方と屋敷を去りました。
とても平静ではいられず、心の乱れを沈めるようにピアノを弾き続けました。
その日の夜に都の友人の1人に手紙を書きました。
ピアノの先生を探している方をご存じなら紹介をお願いできないかと何度も書き直して送りました。
きっと他の友人にも聞いてくれるはずです。
今にも折れそうな心の支えはピアノだけでした。
それから数日して、執事が私を呼びに来ました。
来客に挨拶するようお父様の言伝てでした。
お客様がいらしているとは知りませんでしたので執事と急いで参りました。
案内されたお父様の書斎に広い背中を見たときの気持ちは絶望しかありませんでした。
何故此処に居るのかすら思い付かなくて書斎の入口に立ち尽くしたまま広い背中を見ていた記憶があります。
「シルビア。迎えに着たぞ」
シリウス様はずかずかと近付いてきて片手で私を引き寄せます。
まるでお芝居の1シーンのような光景に無意識に笑っていました。
早く此処から離れなければ。
シリウス様の知らない遠くに。
それだけがぐるぐる心の中を回ります。
「シルビア」
シリウス様の表情が曇ります。
今度は何時驚かせに来るのでしょうか。
シリウス様はカール様より残酷な方なのですね。
「シルビア」
「はい」
真剣な顔のシリウス様に微笑みます。
!!!
突然抱き上げられ表にあった馬車に乗せられました。
「出せ」
お父様が止める間もなくてあっという間に屋敷が遠ざかりました。
怒っている顔のシリウス様は力任せに私の胴に腕を回して前を見据えています。
苦しさに身動きしてもシリウス様は腕の力を緩めずにもっと力が籠りました。
「たった半月が待てないのか。お前を迎え入れる準備を最短で終えたんだぞ」
シリウス様が何を言っているのか、悲しみが理解するのを拒みました。
どんな言葉を聞いても、1人置き去りにされた事実は変わらないのですから…。
「シルビアっ」
堪えても堪えても涙が零れそうで握り締めている手のひらに爪が食い込む痛みすら感じませんでした。
抱え直そうとするシリウス様の手を引き離そうとしても自分が苦しいばかりで悔しさに嗚咽が溢れます。
「シルビア」
シリウス様は緩く編んだだけの私の髪を撫でて何度も私の名前を呼びました。
「俺は寂しい思いをさせたのか」
シリウス様の言葉に私の中で何かが弾けてしまいました。
お父様が望む淑女の姿を自分に律してきた反動なのかもしれません。
力の限りシリウス様の胸を打ちました。
何度も、何度も、息が苦しくて朦朧となりながらも打つのを止められませんでした。
激情が過ぎ去ったあと、私の中には虚無感だけが残ります。
プルプルと痙攣しいる二の腕を感覚の鈍い手で摩りました。
「シルビア」
「…家へ返してください」
私の願いはそれだけでした。
近い未来去る場所でも今はそこしか帰る場所は無いのですから。
「返さない。このまま連れて帰る」
連れて帰るとはシリウス様の国へ?
強引なシリウス様らしくて『ふふ』と笑ってしまいました。
「封をしたままの手紙が戻ってきた時手に汗をかいた。この半月でお前に何かあったと分かったが婚姻の書類をねじ込んでいる途中で動けなかった」
シリウス様のまるで言い訳のような言い方を初めて聞きました。
「何があった」
腕の力を緩めずに詰問するシリウス様に笑うしかありません。
「…何も」
何も無かったのです、本当に何も…。
「シルビア」
「…お父様の元へ返してください」
シリウス様の様子では叶えられないでしょうが私の願いはそれだけでした。
「神の見前で永遠の愛をお前に誓う」
返事を待つ顔のシリウス様から顔を背けました。
心の奥底にしまいこんで決して叶わないと思っていた夢が目の前にあるのに、私にはシリウス様の手に手を重ねる勇気はありません。
何も知らされず取り残された悲しみはシリウス様のお側にいたら何回も繰り返されるのでしょう。
それに耐えられるほど私は強くない。
「シルビア。何があったのか話してくれ」
シリウス様の腕に更に力がこもります。
「…何も」
言葉を絞り出すように返しました。
「差し向けた侍女の態度か?報告を聞いてあの2人は厳罰にした」
「いいえ」
「なら何だ。何がお前を怒らせた」
シリウス様には何も分からないのでしょう。
「シリウス様が望まれ、お父様も承知なら、心を込めてお仕えいたします。ですので今はお父様の元へ私をお返しくださいませ」
シリウス様は眉間に深いシワを寄せて低い声で聞いてきました。
「お前は望んでない口振りだな」
怒りの滲むシリウス様の声も、諦めた私には怖いとも感じませんでした。
「貴族の娘は当主の選んだ方に嫁ぐのが習わし。お父様がシリウス様を選ばれたのでしたら私は従います」
微笑みを浮かべてシリウス様に答えました。
「俺が求婚した時、お前も応えたはずだ。今更習わしを持ち出す意味は何だ」
シリウス様の言葉がブツリ、と切れました。
不安になってシリウス様を見返すと、怒った顔で宙を睨み付けています。
顔を伏せて、シリウス様の怒りが過ぎるのを静かに待ちました。
お父様もお祖父様もこんな時何か言うと怒りは何倍にも膨らんで周りに被害が出るのです。
「シルビア」
「はい」
シリウス様の声から怒りは感じません。
「改めて求婚する。愛している。俺の妻になってくれ」
「…お父様が承知ならお受けいたします」
「辺境侯ではない、シルビアお前の気持ちを聞きたい」
今更の言葉に返す言葉が見付かりませんでした。
どう答えても嘘になってしまいます。
「シルビア」
胴の手がもっときつくなります。
「答えてくれ。一時でも早くお前を妻にしたかった、急いで国へ戻ったのは婚姻の儀式の手はずを整えるためだ」
お伽噺のようなシリウス様の言葉を遠くで聞いているもう1人の私がいて、『信じなさい』と背中を押します。
それに素直に『はい』といえるはずもなく、時は止まったままでした。
「愛している」
シリウス様は私の髪を撫でながら繰り返します。
「出会ったあの日からお前も同じ気持ちだと思っていた。今もお前の気持ちは俺にある」
決め付けるシリウス様の腕がもっときつくなりました。
「愛している。約束する、一生シルビアだけを愛し続ける」
シリウス様の声が耳元で聞こえ、うなじに熱い物が押し当てられました。
「な、…」
衝撃に上げた顔を掴まれ唇が奪われたと気付く時間さえ無いまま嵐は私を飲み込んでしまいました。
嵐がはだけた胸元を隠して俯くしか出来ませんでした。
愛を囁かれ口付けられた記憶に体が熱くなります。
「シルビア」
………
その先をお話すればもっと長くなります。
シリウス様と気持ちを重ね合わせるようになるにはやはり時間が掛かりました。
1度諦めて手離そうと決めた思いを再び暖める勇気は簡単に甦るはずもないのですから。
お父様の到着を待たず式を強行したシリウス様に寄り添えるようになるまでもっと時間を費やす事でしょう。
「早く子を産め。国母となればその不安も水に流れる」
傲慢な言葉の奥に透かし見える言葉が『優しい』と感じられて初めてシリウス様の手に手を重ねる勇気が産まれました。
本当に重ねられるまで信頼を重ねていこうと思います。
私事ですが、シリウス様も謝罪の言葉は口になさいません。
きっとこれからも無いでしょう。
これが王室の教えならば我が子には『感謝』と『謝罪』を教えようと思っています。
好きなピアノを弾きながら。
書いてみて短編には長すぎでした
婚約破棄物になるか微妙なので
代もあやふやになりました
誤字脱字、つじつまが合わない所は
後から訂正しようと思っています
ご指摘いただけると幸いです