告別
それから数日後、服部は坂井真紀のマンションを一人で訪れた。
「あら、服部君。今日はおひとり?」
「はい、実は先輩に個人的にお伝えしたいことがありまして……」
「伝えたいこと? 何かしら」
「僕は今回の捜査で一度死ぬかもしれないと思う瞬間に遭遇しました。その時思ったんです。このことを伝えずに死んでしまったらきっと後悔するって……」
真紀は俯いたまま服部の次の言葉を待った。
「先輩、大学一年生の頃からずっと好きでした」
しばらく沈黙の流れた後、真紀はおもむろに語りだした。
「服部君……すごく嬉しい。でも今の私には大切な人がいるの。だから服部君の気持ちには答えられない。ごめんなさい」
「いえ、いいんです。どうかその方と幸せになって下さい」
「ありがとう……私ね、服部君の思ってくれてるような女じゃないと思うの。あなたにはきっと、ぴったりのもっといい人が見つかると思うわ」
「……では僕はこれで失礼します。さようなら」
そう言って服部は坂井真紀のマンションを後にした。気持ちを伝えられてすがすがしい気分でもあったが、ふいに目に涙が浮かび、それが止まらなくなってしまった。
〇
その頃、朝比奈は島津署のトイレで篠原警部補に出くわした。
「おう、例の件では世話になったな」
「いやいや、でもなんだかんだ事件解決、ヒナさん定年間近でお手柄じゃないですか」
「おべんちゃらはよせよ。わしを褒めても何も出んぞ」
「ははは。そう言えばあの事件で精神科医が何だか妙な話をしていたのを思い出しましたよ」
「妙な話だと?」
「ええ。坂井陽一郎は初診では記憶障害を訴えていたそうです。しばらく前から置いた覚えのない場所に物が置かれていたり、知らない間に車のガソリンが満タンになっていたり……挙句の果てに書いた覚えのない実名入りのブログが職場で皆に知れ渡ったりとか……」
「坂井陽一郎の記憶力はそんなに酷かったのか?」
「それがですね、記憶テストをしたところ記憶力には全く異常が見られなかったということなんですよ。むしろ記憶力は同年代の平均以上だったそうです」
「どういうことだ?」
「わかりません……事件に関係あるかどうかはわかりませんが、兎に角気になったのでヒナさんには言っておこうと思いました」
篠原はそう言い残してトイレから出た。その姿を朝比奈は無言で見送った。
◯
坂井真紀はいつものレストランで小湊研二と会食していた。いつもより少し値の張る赤ワインで二人は乾杯した。
「……ご苦労様。全て上手く行きましたね、“シュテフィー”さん」
「ええ、あなたのおかげよ
……“ジッポー”さん」
真紀は照り輝くルビー色の液体を見て微笑んだ。
「あなたからガスライティングのことを教わった時、せいぜい都市伝説ぐらいにしか思っていなかったわ。だけどこんなに効果があるなんて……」
「ガスライティング……相手に気づかれないようにこっそり物を動かしたり隠したり、本人の記憶にない些細な事象を起こさせる。地味な作業だが、長い時間をかけると着実に相手を精神的に追い込み、死に追いやることもできる。結局あのグループでは君だけだったな。僕の理論を信用して実証してくれたのは。みんなエッフェルにばかりなびいてさ……挙げ句の果てに君まで丑の刻参り依頼したいなんて言い出す始末だ」
「あら、あなたって案外器が小さいのね。わざわざネットカフェから依頼したのもあれかしら。エッフェルにミッション失敗の例を作りたかったからでしょう。ネットカフェからアクセスするとIPアドレスでターゲットを特定出来なくなるそうね。刑事さんが言っていたわ」
「それは知らなかったな。僕はたまたまネカフェに用があったからついでにそこで済ませたに過ぎんさ」
「ふうん……」
真紀は相手を信用していない様子でワイングラスを空にした。
「私、あの人のポケットに藁人形の写真……あの人の名前入りのね、それをこっそり入れて置いたんだけど、それを彼が見つけた時、ほとんど幽体離脱してたわよ。その時思ったわ。この人、もう長くないって」
「まったく怖い女だ。君の元旦那は暴力を振るう相手を間違えたよ」
そして二人は見つめ合いクスクスと笑いだした。
「ところで……いつ奥さんと別れて下さるの? そろそろ愛人は飽きてきたわ」
「離婚協議中だけど年金のことで揉めててね、あと少しかかりそうなんだ」
真紀は「そう……」と言ってバッグの中身を探り出した。
「あら? 私携帯どこへ入れたかしら……」
「上着のポケットじゃないか? さっき入れているところ見たよ」
「上着? ええと……本当だ。おかしいな、こんなところに入れた覚えがないんだけど」
「疲れてるんだろ、まあ飲みなよ」
そう言って真紀のグラスにワインを注ぐ研二の顔に薄笑いが浮かんだ。真紀はそれには気がつかず、注ぎたてのワインの香りを楽しんでいた。
完




