時にはカラスのように
【1】
『ごめんね。今日、行けなくなっちゃった』
「えっ――」
恋人からの突然の電話に、陽一は唖然となった。今日は、ずっと心待ちにしていたデートのはずだったのに――。
陽一は大学2年生。恋人の真綾は彼より2才年上だ。彼女は、分子生物系の研究者を目指し卒業研究に追われていて、とても忙しい。陽一は陽一で、それなりに充実したキャンパスライフを送っている。そのため、互いに会う時間がなかなか作れなかった。
今日はたまたま互いのスケジュールが空いているはずだったのに――約束の時刻の1時間前、真綾は突然デートをキャンセルしてきた。
『今すぐしなきゃならない実験が入って。先生が明日データを揃えたいからって』
まったく、人遣い荒いんだから――と、真綾は声を潜めて言った。だが、彼女もどうやらその実験を自らしたいと思っているのだろうと、陽一には容易に想像がついた。
『あれ? ひょっとしていま外にいる? まだ待ち合わせ場所には向かってないよね……』
真綾がおそるおそる訊いてくる。電話口から周囲の雑踏でも紛れこんできたのだろう。現に今、彼は外出していた。
「ああ――、ちょっとコンビニに買い物。まだ現地には向かってないから問題ないよ」
「そう。よかった……」
真綾は安心したようだが、実はこれは嘘だった。陽一はすでに、約束の場所に来ている。久々のデートだからとはりきって、2時間も前に現地に訪れ、下見をしていたのだ。彼女からの電話は、デートプランをひととおりおさらいした矢先の出来事だった。
『本当にごめんなさい。この埋め合わせは必ずするから』
「仕方ないよ。真綾ちゃん忙しいもんな。頑張って」
軽く別れの挨拶を交わし、電話を切る。ひとりでにため息が出た。真綾の手前、気丈に振舞っていたが、やはり落胆は大きい。今日のデートをどれだけ心待ちにしていたのか、自分でも改めて思い知らされる。真綾の研究者になりたいという夢を、陽一は応援していたし、今の彼女が自分よりも卒業研究を優先していることも許していた。けれど、ちょっとは自分に優しくしてくれてもいいじゃないか――そんなふうに思わずにはいられない。
(くよくよしてても仕方ないな――)
気持ちを切り替える。せっかく繁華街まで来ておいて、このまま帰るのももったいない。映画館で映画を観て、レストランで食事をしていくことにした。本来、真綾と一緒にする予定だったものだが――。
けれど、やはりひとりで映画を観ても、食事をしても楽しい気分にはなれなかった。陽一は、決してひとりでいることが嫌いな性分ではない。なのに、これほどまでに物足りなさを感じてしまうのは、恋人との楽しい夜を期待しすぎていたせいだろう。
レストランを出ると、それなりに遅い時間になっていた。そろそろ帰るか――と、駅の方に向かって歩きだす。
駅は繁華街から少し離れたところにある。煌びやかな街並みが、急に寂しくなった。ふと見ると、明かりの少ない暗い空間の中、雑居ビルの地下に向かう階段の天井に光るネオンサインがとりわけ明るく見えた。どうやらバーの入り口のようだ。
(真綾ちゃん、こういうところにはよく行くのかな)
真綾は同年代の中ではとりわけ酒好きで通っていた。彼女の両親が酒好きなので、それも当然とは思える。それに引き換え、20才になったばかりの自分は、飲酒の経験は大学のコンパぐらいのものだ。当然、ひとりで飲みに行ったことなどない。
(ちょうどいい機会だ。一度経験してみるか)
陽一はそう決めて、階段を降り始めた。
【2】
扉を開ける。方々のテーブルやカウンター席に、まばらに客が座っていた。隅には小さなステージがあって、髭面の男がギターを抱え気だるそうなブルースを奏でる。
「いらっしゃい!」
カウンターテーブルの向こうでマスターが大きな声をあげ、
「よかったら、こちらへおいで」
と、陽一を手招きする。陽一は彼に従いカウンターに座ったが、何となく落ち着かない。
「お兄ちゃん、こういうお店は初めてだね?」
マスターが訊いてきた。
「あ、はい。分かるんですか」
「こういう商売してると、客の動きや表情で大抵の予測はつくからね。その様子じゃ、どんな酒を飲んだらいいかも分からないんじゃないかい」
「ああ……」
陽一はまさにその通りと、顔で示した。マスターは笑ってメニューを差し出す。
「ビール、カクテル、ウイスキー、ワイン……色んなお酒が載ってる。メニューを見てもよく分からなければ、遠慮なく訊いてくれたらいいよ」
「ありがとうございます」
陽一はメニューを開く。さまざまな酒の名前が載っているが、聞いたことのあるものはごくわずかで、あとは何が何やら、といった感じだ。
「おい兄ちゃん、迷っているようなら、俺が提案してやろうか」
ふと顔をあげれば、陽一とはひとつ椅子を挟んだ場所に座っていたオヤジが、顔を真っ赤にしながら、ニヤニヤとこちらを見ていた。
「男なら、バーボン1択だぞ」
「ほらほら、こういうのは好みだから……」
マスターが嗜めるように言うが、陽一はあれこれ迷うよりは、誰かに決めてもらった方が有難かった。
「――いえ、とりあえずそれ飲んでみます」
陽一が言うと、オヤジは得意げな顔になった。
「よっしゃ、じゃあ俺と同じものを入れてくれ。もちろんストレートでな」
「はいよ」
マスターは指1本分くらいの高さのグラスにウイスキーを注ぎ、陽一に差し出した。
陽一はグラスを手に取り、ふちに口をつけ、少しすすってみる。
(強ええ……!)
むせるのをなんとかこらえた。口の中がヒリヒリして、喉が焼けるようだ。マスターがうす張りのグラスに氷と水を入れ、陽一に差し出した。
「やっぱりガツンとくるだろ。水と一緒に飲んだらいい」
マスターに従い、陽一は水のグラスを手に取る。グラス半分くらいの量を一気に飲んだ。オヤジは笑って言う。
「これが大人の味ってモンなんだよ。まぁ、最初は我慢してストレートで試してみな。次飲む時は、水やソーダで割ってみてもいい」
「割ってもいいんですか」
「当たり前だ。バーボンってのは気楽な酒だ。同じウイスキーの仲間にスコッチってのがあるが、熟成がどうとかピートがどうとか、飲み方はこうすべきとか――それはそれで悪くはないが、ちょっと堅苦しい感がある」
「たしか、俺の彼女は、スコッチが好きって言ってました」
陽一の発言に、オヤジはキョトンとした顔を浮かべた。
「なんだ、兄ちゃん彼女いんのか。まあ、男前だもんなぁ。とにかく――」
オヤジは話を戻した。
「バーボンはスコッチほど、堅苦しくない。水やソーダだけじゃなく、ジュースで割ったり、カクテルのベースにもできる、自由な酒だ。男の生き方もそんなもんだろ。つまりは、バーボンの良さが分かった時に、男はいっちょまえになるんだ」
「そんなもんですか」
バーボンをまた飲んでみる。2, 3口と飲み進めるにつれ、味が分かるようになってきた。まろやかな甘さが舌を駆け、飲みこんだ刹那、独特な香りが鼻を抜ける。ちびちびと舐めるように飲み続け、気づくとグラスの中は空になっていた。
「いい飲みっぷりじゃねえか。もう一杯いくか」
オヤジは満足そうな声をあげる。陽一が頷くと、マスターが訊いてきた。
「今度は水かソーダで割ってみるかい」
「そうですね。ソーダで」
陽一は快活な口調で言った。
【3】
ソーダ割りはアルコールが薄まった分すっと飲めて、ソーダの爽快さが心地よい。飲み込むと軽やかな香りが花開く。ストレートにはないのど越しのよさを味わうことができた。
(何かを足すか足さないかで、こんなに味わいが違うのか。こりゃ、真綾ちゃんがハマるわけだ――)
スコッチ、バーボンの違いはあれど、酒好きの真綾の気持ちが分かった気がした。どこまで切っても同じ顔――ではなく、その時々で違う顔をみせる。酒の奥深さを陽一はようやく知ることができたのだった。
そんな感動に浸りながらぐいぐい飲んでいると、やがて隣のオヤジが大きな声をあげ始めた。
「おいみんな、この兄ちゃんイケるクチだぜ!」
すると、ざわざわというどよめきとともに、客たちが一斉に陽一のもとへと押し寄せてきた。客の中に女性がひとりもいないことに、今さら気づいた。
「本当だ、いい飲みっぷりじゃねえか!」
「まだ若いのに」
「期待できるな!」
男たちが口々に言う。圧倒される陽一に、例のオヤジが言った。
「みんな、あんたのことを歓迎してるんだ。さあみんな、今日の出逢いを祝って乾杯しようじゃないか!」
「おーっ!」
全員がグラスを高く掲げた。オヤジの号令とともに一斉に乾杯の声があがり、ガヤガヤと周囲はいっそう賑やかになった。陽一は思った。男たちが集団で陽気に騒ぐサマは、まるで群れをなすカラスのようだ――。
「みなさん、お仲間なんですか?」
と、陽一は尋ねた。すると、
「ココだけのね」
と、オヤジが答える。
「みんな外では各々の生活をしてる。だけど、この店に来れば、こうやって楽しく騒ぐんだ。仕事や地位や信仰なんて関係ないし、知る必要もない。酒があればみんな仲間さ」
「カタいことなしってことだよ」
マスターがニンマリとした笑顔で言った。続けて訊いてくる。
「次、何か飲む?」
陽一のグラスはそろそろ空になりかけていた。
「そうですね――じゃあ、このバーボンでカクテル作ってください」
「マスターのオススメでな?」
陽一の言葉にかぶせるようにオヤジが言う。マスターは少し困った顔をしたが、すぐに合点がいったようにカクテルを作り始めた。
シェーカーのボディにバーボンとリキュールを入れ、ライムをカットし搾る。氷を入れるとストレーナーとトップをかぶせ、素早く小気味よいリズムでシェイク。コリンズグラスの底にミントの葉を敷き詰め、シェイクした液体をグラスに注ぐ。クラッシュアイスをグラスいっぱいになるまで入れ、コーラで満たす。バースプーンで軽く混ぜると、そこへストローを2本差した。
出されたカクテルは黒と緑のツートンだ。ストローに口をつけ吸ってみると、甘みと酸味、ミントの風味があいまった爽快な味が舌を通り抜けた。
「……これは何てカクテルですか」
陽一が訊くと、マスターは答えた。
「私のオリジナルだよ。こういう賑やかな場面にピッタリのカクテルだろ?」
「確かに」
陽一は笑った。カクテルの色合いは、まるで森の中を飛び回るカラスのようだと思った。
そのうち自分も、そのカラスの群れの一員となっていた。互いに歌ったり踊ったり――楽しい時を過ごす。いつしか、恋人にデートをキャンセルされた悲しみさえ忘れてしまっていた。
どれだけ時が経っただろう――ふと眠気を覚えた。その途端、あれあれという間に、意識が吸い込まれてゆく。周囲の喧騒が次第に遠くなってゆく。すぅっ――と幕を下ろすような速さで、いつしか彼は眠りに落ちていた。
【4】
「はっ――」
カウンターテーブルに突っ伏していた顔をがばりと上げる。見渡すと、店内に客はひとりもいなかった。
「起きたかい」
店内を掃除していたマスターが陽一に声をかけた。
「ああ――、すみません、寝ちゃったみたいで」
慌てて椅子から立ち上がると頭がくらくらっとした。飲みすぎたようだ。
「構わないよ。他のお客さんもついさっきまでいたから。それに、いい感じで眠ってて、起こすのも悪いなと思ったし」
ふと時計を見る。朝の7時を回っていた。
「えっ――こんな時間まで。すいません、チェックお願いします」
「お金はいいよ。あのお客さんたちがもう払ってくれたから」
「へっ? そんな……」
陽一は申し訳ない気がした。初対面の人に払ってもらうなんて。ましてや、昨日は本来デートの予定だったので、手持ちはそれなりにあったというのに――。
「気にしなくていいよ。彼らも喜んでいたし。でも、いい人たちでよかったね。客の中には、寝てる間に財布を盗んでいったり、会計を全部なすりつけるような輩もいるからね」
マスターはいたずらっぽい笑顔を作って言った。
「はぁ――気をつけます」
陽一は頬を掻いて応えた。
通勤・通学ラッシュで満員の電車を降り、改札を出る。すでにわが町でも、1日は動き出していた。つい調子に乗って、長い夜遊びをしてしまったことを少し後悔した。
(でもまぁ、楽しかったよな――)
一方では、こんな気持ちもあった。少し大人になれたような気もする。それは、自分も酒場であのような経験ができる年になったのだという実感だ。
家に向かって歩きだす。幸いなことに、今日は大学の授業はない。家でゆっくり過ごそう――。そんなふうに思っていると、ふいに携帯電話に着信があった。ディスプレイを見ると、真綾からの電話だ。
「もしもし、真綾ちゃん?」
『陽一、あなた今どこにいるの?』
少し心配そうな声色で彼女は言う。
「今駅から家に向かって歩いているところだよ」
『駅? 何をしてたの』
「まあ――ちょっとね。それより真綾ちゃん、どうかした?」
「実は今、あなたの家にいるの。昨日のお詫びにと思ってお弁当作ってきたのよ。びっくりさせようと思ってこっそり来たんだけど、そしたらあなたいないんだもの……』
「弁当作ってくれたの!? すぐ帰るよ。ちょっと待ってもらえる?」
陽一はがぜん元気になった。
『大丈夫。先生が、昨日帰りが遅くなった代わりに、今日は午後から研究室に行けばいいって』
「ホントに? じゃあ昼まで一緒にいられるの? うれしーな!」
足どりがいっそう速くなった。ついさっきまで彼女のことを忘れていたのに、一緒に過ごせるとなるととても嬉しくなる。とことん恋人バカなんだろうな――と、陽一は自分でも思う。
そうだ――と、彼は思いついた。真綾とふたりでなら、こんなにいいことはない。
「ねえ、真綾ちゃん」
『――何?』
呼びかけに応える真綾に、陽一は提案する。
「こんどふたりで、バーにでも行かね?」