070 第二章曜子13 星霜
クリスマス。聖なる日。
大切な人と過ごす日。
それは世界中の人たちが身近な人と時間を共有する日。もちろん違う国もあるが、そういった定義が確かに存在する日。
俺はその日がそんな日だと思っている。
そのクリスマス、イベント好きの日本人なら誰でも知っているだろう。特にイヴは恋人と過ごす日としての意味合いが強い傾向があるらしい。
そんな日本人なら、どんな人にでも何かしらの楽しい思い出があるのではないだろうか?
去年でも、ずっと前でも、ずっと小さな時でもいい、あいつにも、彼にも、彼女にも、あの人にも、名前も知らないあの人にも、きっと何か楽しかった思い出があるんじゃないだろうか?
……俺は、どうだっただろうか?
去年、高校一年の時は瞬と渉と三人で集まってバカをやった。わざわざ街に繰り出して、男三人のクリスマスを思いっ切り楽しんだ。
一昨年、中学三年の時はじいちゃんと二人で普通にメシ食ってた。その後は適当に受験勉強して、普通に寝たと思う。
その前、中学二年の時もじいちゃんと一緒だった。寒稽古なんてのをやっていたっけ。この頃は夢中になって道場に入り浸っていたんだ。
更に前、中学一年の時も家に居たと思う。瞬が来てくれて、じいちゃんと三人でクリスマス特番を眺めていた。この頃の瞬は自宅よりも俺ん家に居る方が多かったんじゃないだろうか。
あの年、小学校六年の時はわからない。場所は病院。俺は意識不明の重体。当然、覚えている筈がない。
そして、小学校五年生……その時は――……。
六年前、12月24日。快晴。
僕はまどろみの中にいた。時刻はまだ早く、午前中の早い時間。学校は既に終業式を終え、冬休み真っ直中だ。
普段の僕なら目を覚ましている時間だったけど、今は折角の冬休み、普段は出来ない朝寝坊が心地よかった。
「ねぇねぇ」
その僕に声が届く。まどろむ僕の頭に甘えるようなふにゃふにゃ声が届く。
「朝だよ〜? 起きないの〜? いい天気だよ〜?」
声は続く。同時に僕の体が揺すられる。けっこう遠慮がない感じでユッサユッサされる。
「もぉ〜ねぇってばっ」
実は最初の声の時点で起きていた僕だけど、敢えて寝たふりを続けてみる。このままいくとどうなるか興味が湧いたからだ。ちなみに声のふにゃふにゃ感はパワーアップしてたりする。
「うぅ、時間がもったいないから、しょうがない……しょうがないんだよ……? 本当に世話が焼けるよ〜」
うん? ユッサユッサは治まったけど、今度は布団を剥されたみたいだ。寒いのはしょうがないとして、どういう意味だろう? それにいつも世話を焼いているのは僕のような……。
「まずはズボンから」
「うわぁっ! 待ってよ遥!」
そこで僕は制止する声を張り上げながら目を開く。
「うわぁっ? びっくりしたよ!?」
僕と同じ声を上げた遥は僕のパジャマのズボンに手を掛けたところだった。あぶなかった。
「びっくりしたのは僕だよ! 朝からなんて事をしようとしてるんだ遥は!」
「だって、お兄ちゃん起きないんだもん。それに目が覚めた時に着替えが済んでたりしたらお得かなって思うよ?」
そんなん普通に怖いわ。
狼狽える僕に対して無邪気な笑顔を振り撒く女の子は遥、僕の双子の妹だ。
「いや、もう、なんでもいいよ……起きなかった僕も悪いんだし……。おはよう、遥」
朝からツッコむ気力も無いので、仕切り直してしまおう。
「うん、スルーだね。おはよう、お兄ちゃん」
楽しそうな笑顔を更に綻ばせて応えてくれる遥。毎日の事なのに僕はついつい嬉しくなってしまった。
遥と二人、階下のリビングに下りると、朝食のいい匂いが僕たちを迎えてくれた。
「おはよう十八、遥」
「おはよ〜お母さん」
「おはよう……母さん、起きてても大丈夫なの?」
遥は嬉しそうに挨拶を返しただけだったけど、僕はそう付け加えた。
「昨日だって具合が悪いって早く休んだばかりじゃないか」
「お母さん……大丈夫……?」
僕の付け加えた言葉を聞いた遥は不安そうな表情で母さんに駆け寄る。早くに寝てしまった遥は昨日の事を知らなかったから、軽く驚いたんだろう。
そう、僕たちの母さんは病弱で体が弱かった。僕たち兄妹がまだ小さい時から入退院を繰り返してばかりで、よく貧血で倒れたりしていた。
「ごめんね十八……母さんうっかりしちゃったから……」
僕の指摘に母さんはばつが悪そうに苦笑してしまっていた。
僕だって責めるつもりで言った訳じゃないし、言いたかった訳でもない。でも、言わないと母さんは僕たちの為に無理をしてしまうのは明らかだからだ。
「仕方ないんだよ、十八。後でお前たちにも言うつもりだったが、今日は母さんを病院に連れて行くんだ。そうなれば恐らく母さんは再入院する事になるだろう。だから、母さんはお前たちの朝食をしばらく作れなくなるのが寂しかったんだろう」
新聞を広げてコーヒーを飲んでいた父さんが僕を窘めるように言う。
「お前たちは冬休みだし、父さんも今日は会社を休んだんだぞ? 今回も長い入院じゃないとは思うが、少しでも母さんと一緒に居ようじゃないか」
続く父さんの言葉を聞いて僕はすぐに我に返る。もともと怒っていた訳じゃないけど、自分で言った事に激しく後悔した。
「ごめん……母さん」
「ごめんなさい……お母さん」
何故か一緒に謝ってくれる遥。
「……ふふ、謝るのは私なのに……ありがとう二人とも」
申し訳なさそうな表情は拭えないけど、母さんは嬉しそうに僕たちの頭を撫でてくれた。正直こそばゆいけど、心から安心してしまう。
「でも、残念だなぁ……明日はせっかくのクリスマスなのに、お母さんは病院に行っちゃうんだよね……?」
なっ! ちょっとは空気を読んでくれ妹よ!
「遥……」
案の定、母さんは申し訳なさそうな表情をひときわ濃くしてしまっていた。
「ごめんね……病院に行く前にケーキは作って行くから……」
母さんはそう言いながら遥を抱き締めた。
……息子の僕が言うのも何だけど、母さんは父さんが嫉妬するほどに僕たちを溺愛してくれている。だから、こんな事も恥ずかしげも無くやってのけるんだ。
遥も悪気があって言った訳じゃなかったと思うけど、真っ直ぐな母さんの優しさに包まれておとなしくなっている。当然だ、遥は母さんが大好きなんだから……。
「十八、羨ましいのか?」
僕の様子を見ていた父さんの言葉にドキッとしてしまう僕。
「な、なんの事?」
図星じゃないぞ……たぶん。
「母さん、十八もやってほしいみたいだぞ?」
「父さん!」
ニコニコと嬉しそうな父さんにあっさり暴露されてしまった。
「あらあら……十八、いらっしゃい?」
遥の背中に右手を残したまま、左手を広げて僕を呼んでくれた。申し訳なさそうな表情の余韻はもう無い、とても嬉しそうな笑顔だ。遥も母さんに寄り添いながら嬉しそうに僕を待ってくれている。
「…………」
僕は父さんの表情を見ないようにして母さんの傍に行く。もう衝動的だとはっきり言っておく。
だって図星だったから、恥ずかしいけど、羨ましかったから。
母さんの傍らに立つと、母さんは遥と一緒に僕を抱き締めてくれた。
同時に僕の恥ずかしさなんてすぐに何処かに行ってしまう。朝一から何をやっているんだとか、小五にもなって何をやっているんだとかは思わない。
だって、これは僕たち家族の普通だから。
病弱だけど、僕たちを心から愛してくれる母さんも。
お節介だけど、僕たちの望むもの全てをわかってくれる父さんも。
甘えん坊だけど、その人にとっての一番を知っている遥も。
理屈っぽいけど、その全てが大好きな僕自身も。
僕たち家族の日常はこれが当たり前なんだから……………。
……
…………
ピピピピピピ
「…………」
…………朝が来てしまったらしい……。
久し振りに瞬のいない時に悪夢を見なかった。しかし、内容は余りにも残酷だった……。余りにリアルすぎた……。
今日は12月24日。クリスマスイヴ。海老原さんとデートなんだ。
気だるい自分の頭を覚醒させようと心の中で今日の予定を反芻する。
しかし、俺の思考は六年前の妄想に埋もれたまま、むしろ妄想は加速する。
今日という日に限って俺はこんな夢を見てしまうのか……。
自分に嫌になりながらも、俺はバイトに向かう為に布団から這い出していた。
寒い。
配達で駆け回る町は冷えきっていた。
昨日まで少しだけ昂揚していた自分の心も冷えきっていた。
真冬の空気が拍車を掛けるように俺の心を凍て付かせていた。
見上げれば黒。
夜明け前の夜空は俺を嘲笑うように黒い雲に覆われていた。
現実の空は俺の心を閉塞へと誘い込み、思い描くもの全てを逆行に導いていた。
月も、星も、見えなかった……。
新聞配達のバイトを終えた俺は、日課の鍛練を済ませると屋敷内の清掃に勤しんでいた。
もちろん年末の大掃除は予定しているが、普段通りの掃除も怠る訳にはいかない。それに年内に離れや蔵の掃除をやろうとするなら、今から細かい所をやっておかないと年を越せなさそうだ。
塩田家の屋敷はとにかく広い。平屋建てではあるが、母屋と離れを合わせると部屋数は16部屋ある。更には道場と蔵が二つずつ。とてもじゃないが、ひとりでやるには無理があると思う。
げんなりしながらも時計を見ると十時すぎ、そろそろ出掛ける時間が迫っていた。
待ち合わせの時間は正午で、場所は御美ヶ浜駅前。
一時間もあれば着く場所なので、今から出れば十分すぎるほどに間に合うだろう。
瞬にもらったデートプランには、待ち合わせ時間からわざわざ選択方式で予定が立ててある。詳しくは見ていないが、いくら俺でも大丈夫そうだ。
親友に感謝しながら数少ないよそ行きの洋服に着替え、身だしなみを整える。
すると、そこで玄関のチャイムが鳴った。
「……?」
かなり不思議に思った。俺ん家を訪ねて来る人物は瞬、最近では海老原さん、まあ彼女は一緒に学校に行くようになってから、それも早朝に限る訳なんだけど……。
その二人が今日、それもこのタイミングで俺ん家を訪ねて来る筈はない。宅配便の業者さんがご近所と間違えているのかも、そんな楽観的な思考を働かせながら玄関に向かう。
「はーい」
そう言いながら俺は玄関の引き戸を開ける。
そこには俺の後見人、今井さんの姿があった。