007 プロローグ07 滑稽
どこか虚ろで焦点の定まらない瞳。か細い間接照明に照らされ、少し潤んでいるようにも見える。視線で捉えている物が映っている。いや、映っているだけで捉えているわけではないのかもしれない。瞳は開かれているが何も『見て』いない。
彼女は儚くも見えるが綺麗だった。完成された美しい絵画のように、いつまでも眺めていたい。そう、思ってしまった。
カラン、と透き通る音を立ててグラスの中の氷が傾く。彼女の瞳に捉えられていたグラスの氷が傾く。虚ろだった瞳が妖しげに揺らめく。
「シオ君……」
彼女が俺を呼ぶ。
「……はい」
応えると彼女の視線が俺を捉える。妖しげな瞳が俺を捉える。妖しげな瞳に俺が映る。彼女の口元が僅かに吊り上がる。どこか楽しそうに、どこか嬉しそうに。
「お代わりぃ。ダブルでぇ」
そう言いながらニへッと顔を綻ばせる彼女。先ほどまでの儚さは一瞬で吹き飛んだ。
「伊集院さん。飲みすぎです。それに俺ってもう上がりなんですけど……」
ここは『Leaf』というお店の店内。俺はカウンターの中に立っていて彼女はカウンターに並ぶ椅子の一つに座っている。ここ『レストラン&ダイニングバーLeaf』は俺のもう一つのアルバイト先である。
「ええ〜。もうちょっと付き合いなさいよぉ〜。シオくぅん」
彼女はここの常連の一人で名前は伊集院さん。恐らく二十代だが年齢は不明。職業も不明だがいつもスーツ姿。酔わなければ知的でいい人なのだが、酔うとこのように絡んでくる厄介さん。
「いや、明日も朝早いから、もう帰らないと」
「……うぅ、わかったわよぉ……お疲れ様」
少し迷うような素振りの後、結局は不満気な表情で口を尖らせながらも解放してくれる。如何に酔っ払っていようが流石は大人の女性。流石は社会人である。……そういう事にしておこう。
「はい。失礼します」
時計を見ると10時過ぎ。夕方に本屋で渉と別れた俺はそのまま駅の南口にあるLeafに出勤し、今現在まで働いていた。
「店長。俺、上がりなんでカウンターお願いします」
「ん、ああ、了解です。お疲れ様、十八君」
「はい、お先に失礼します」
店長。ここ『Leaf』の経営者でダンディズム全開な三十代後半の素敵なナイスミドルさん。本来ならここのアルバイトは高校生では駄目なのだが、店長は俺の事情を察して雇ってくれた。俺の数少ない理解者の一人だ。
「塩田ぁ、上がりかぁ?」
更衣室に入るとアルバイト仲間で先輩の永島さんが一服していた。
「はい。お先っす」
「おお。オメェまぁた伊集院さんに絡まれてたろぉ?」
「いや、絡まれてたっていうか普通に話し相手していただけっすよ」
「ばぁか、オメェだけなんだぞぉ? 俺とか店長にはそんなことねぇんだぞぉ? 仲良くなって優しくしてもらえよぉ。ひゃっはっはっ!」
いやらしい高笑いを更衣室中に響かせる。永島さんは少しお下品な喋り方と全身に無数の傷痕が特徴の『普通』の大学生だ。
Leafを出た俺は帰り道をゆっくり歩く。
家まではゆっくり歩いても15分足らず、だから俺は出来る限りゆっくり歩く。
星が綺麗だから。
月が綺麗だから。
僅かに輝く町のネオンが綺麗だから。
見るもの全てが眩しいから。
だからゆっくり歩く。家に帰っても一人。もうじいちゃんはいない。疲れて帰っても迎えてくれる人はいない。
本当は伊集院さんの言葉が嬉しかった。俺と一緒にいてくれる人の言葉が嬉しかった。優しかった。一緒にいたかった。
違う。
そうじゃない。俺はそうじゃない筈だ。
俺は誰かの足枷になってはいけない。縋ってはいけない。甘えてはいけない。巻き込めない。俺は何年も前に『そこ』に行き着いていた筈だ。
自重しろ。もう一度考えろ。夢を見るな。幻想を振り払え。……思い出せ。
ピピッピピッ
ポケットの中の携帯が鳴る。メールみたいだ。
from佐山瞬
subお疲れさん!
バイト終わったか? 今日も厄介になりたいんだがいいよな? 駄目とか言ったら一緒に寝てやらないゾ! 家の前で待ってるゾ!
「ははは……」
……涙が出そうだった。親友の日常に俺がいる。なんて嬉しい事なんだろう。足枷になっちゃいけないのに、縋ってはいけないのに、甘えてはいけないのに、巻き込んではいけないのに……。
了解の返信をしても俺の足は逸らない。今の俺を瞬に見せてはいけない。こんな弱いままでは瞬にはすぐにばれてしまう。きっと瞬は気を遣ってしまう。
ゆっくり帰らないと……。
ピピッピピッ
再びメールの着信を告げる電子音。
from山崎渉
subふぉっ!
シオ! 俺ってばこれから夜更かしするんだっ! 深夜バラエティにうずもれる訳さっ! 明日の朝、寮に寄ってくれよぉ。起こしてくれよぉ。一緒に学校行こうよぉ。よろしくっ!
「…………!」
唇を噛む。視界がぼやける。ぼやけた目で何度もメールを読み返してしまう。込み上げる嬉しさに体が震える。
どうして俺なんだろうか? 俺でいいのだろうか? 彼等の日常に俺は必要なのだろうか?
震える手で返信をする、早く応えたいから……。自分の思考とは裏腹に彼等に縋ろうとする自分。迷惑を掛けるに決まっている。苦しみを強要しているようなものだというのはわかっている。
でも、俺の震える右手は必死に文章を作っている。力無く支える左手も震えている。液晶を捉える目も霞んでいる。
滑稽だ。
なんなんだ『これ』は?
夜遅くの道路のど真ん中で馬鹿みたいに携帯を睨み付ける男。満天の星々が嘲笑うようにその男を照らしている。妄想の堂々巡りを繰り返す馬鹿な男が這いつくばっている。
滑稽だ。
俺の日常。
駆け足で進む時間。
今日も一日が終わる――。